第06話:風邪、のち、婚約続行
地獄の五人茶会から二週間。俺の日常は劇的に変わった――わけではない。相変わらず姉貴にはこき使われ、祖母には人生の解像度を問われ、母には貴族の義務を説かれている。だが、俺自身の内面には、決定的な変化が生じていた。
そんな折、ミモザが風邪をひいたという知らせが届いた。
「軽い風邪だそうよ。どうするの、アルフ?」
昼食時、母様が試すような目で俺を見てきた。以前の俺なら、「へぇ、お大事にって伝えておいてよ」と、パンにバターを塗りながら適当に答えていただろう。だが、今の俺は違う。
「……お見舞いに行ってくる。一応、婚約者だしな」
その言葉に、食卓の女性陣が微かに口角を上げたのを俺は見逃さなかった。
ミモザの屋敷を訪れると、俺はすぐに彼女の寝室へと通された。婚約者という立場は、こういう時にだけはやけに強力なパスポートになる。
「アルフ様……わざわざ、お越しくださったのですか?」
ベッドの中で、ミモザは心細そうに身を縮めていた。いつも完璧に整えられている髪は少し乱れ、白い頬は熱で淡く桃色に染まっている。その姿は、三人の猛獣に囲まれていた時とは別人のように、ただの「十一歳の少女」だった。
「ああ。……顔を見に来ただけだよ。あまり長居して、体力を奪ってもいけないからな」
俺は枕元の椅子に座り、彼女の小さな手にそっと触れた。驚くほど熱くて、そして壊れてしまいそうなほど細い。
「わざわざ、ごめんなさい。」
「ゆっくり休め。……五年後、リリアーヌ様より凄くなるんだろ? 今はそのための充電期間だと思えばいい」
俺が冗談めかして言うと、ミモザは少しだけ驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに微笑んだ。
「はい。……私、頑張って、アルフ様にふさわしい女性になりますから」
その健気な言葉に、胸の奥が少しだけ疼いた。正直に言えば、今でも彼女を「情熱的な恋愛対象」として見ているかと言われれば、まだ自信はない。五歳の差は依然としてそこにあるし、彼女はまだ小さくて幼い。
けれど、これまでの「教育」を経て、俺は理解しつつある。
この小さな手が、五年後には俺の腕を支える淑女の手になることを。
この幼い笑顔が、数え切れないほどの夜を共にする家族の顔になることを。
そして、この縁を「ただの契約」と切り捨てることが、どれほど愚かで、取り返しのつかない損失であるかを。
「……待ってるよ。」
俺はそれだけ言い残し、名残惜しさを感じながらも早々に部屋を辞した。
その夜。
自室で婚約の誓約書を眺めていた俺は、ふと思い立って、一階の奥にある書斎へと足を向けた。重厚な扉の隙間から、灯火の橙色が滲み出ている。鼻をくすぐるのは、熟成された酒と、古い革表紙の本と、長年染み込んだ煙草の残り香。この屋敷で一番古い匂いがする部屋だ。
「……お、アルフか。どうした、こんな時間に」
書斎では、父ロバートと祖父ヘンリーが、低い燭台の灯りの下、互いにほとんど言葉も交わさず酒を酌み交わしていた。テーブルの上には、半分ほど減った瓶と、二つのグラス。長い沈黙も苦にならない、長年かけて醸された間合いがそこにある。
外では「家長」として、あるいは「政務官」として威厳を保っている二人の、これが本当の姿だ。
「祖父様、父様。……俺、ミモザとの婚約、しっかり続けていくことに決めたよ。あの子を大事にする」
俺の宣言に、二人は顔を見合わせ、それから深く、深く頷いた。
「そうか。……賢い選択だぞ、アルフ。あのリリアーヌ様に並ぶほどの彼女を逃したら、お前の人生、後悔の波に溺れるところだったからな」
「まあ、その分……お前のこれからの人生、女性陣の包囲網からは一生逃げられないということでもあるがね」
父が苦笑しながら、空いたグラスを差し出してきた。
「どうだ、アルフ。お前も一杯やるか? ……と言いたいところだが、学園の規則があるからな。卒業したら、ここがお前の『避難所』になる」
「避難所?」
「ああ。外でどれだけ詰められても、ここで男同士、酒を飲みながら愚痴をこぼせば、明日も頑張れるというものさ」
父と祖父の顔には、どこか哀愁漂う、けれど確かな幸せの形があった。
強い女性たちに敷かれたレールを、文句を言いながらも脱線せずに走り続ける。それが我が家の男たちの、伝統的なハッピーエンドの形なのだ。
俺はまだ、そのグラスを受け取ることはできない。
けれど、もうすぐ、俺もこの「地獄の包囲網の中にあるオアシス」に参加するのだという確信があった。
「楽しみだなあ……」
俺が呟くと、祖父が笑った。
「ああ、楽しみだとも。その頃には、お前も今の俺たちみたいに、『今日は足を踏まれた』だの『肘打ちが痛かった』だのと言いながら、ここで酒を飲んでいるんだろうさ」
俺は未来の自分を想像した。
美しく成長したミモザに尻に敷かれながらも、彼女を守り、愛し、そして夜はこの書斎で酒を飲む。
悪くない。
いや、最高に「都合のよい」ハッピーエンドじゃないか。
俺は二人に挨拶をして、自室へと戻った。
窓の外には、王都の静かな夜景が広がっている。
かつて王太子が捨てようとした「義務」という名の重石は、今の俺には、明日を生きるための確かな錨のように感じられた。
婚約破棄を考えたら、外堀をコンクリートで固められた。
けれど、そのコンクリートは案外、暖かくて頑丈な、幸せの土台だったらしい。
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