第04話:母の愛は契約不履行を許さない
「アルフ、食後にお母様の部屋に来てちょうだい。ゆっくり……、そうね、夜が明けるまでじっくりお話ししましょうか」
三日目。夕食での母エレオのその言葉に、食卓が凍りついた。母は優雅にフォークを動かしているが、その背後には絶対零度のオーラが渦巻いている。
「ああ、アルフ。お前、ついに……」
父が震える手でスープを口に運び、祖父は「……死ぬなよ。明日、お前の好きだったエビのテリーヌを作らせておくからな」と、早くも葬儀の準備のような励ましをくれた。
俺は隣の席で「うふふ、頑張ってね、弟君」と楽しそうに目を細める姉貴を睨みつけたが、彼女は知らん顔だ。姉から祖母、そして母へ。この完璧な伝言ゲームこそ、我が家の女性ネットワークの恐ろしさである。
俺はもはや慣れた手つきで、母の部屋の扉を叩いた。
「失礼します……」
部屋に入った瞬間、椅子に座る前に俺は床に膝をついた。先手必勝、はじめから正座スタイルだ。
「あら、アルフ。座りなさいと言おうと思ったけれど、自分からその姿勢を選ぶなんて、少しは自覚が出てきたのかしら?」
「はい。空気で察しました。俺、ヤバい状況ですよね」
母は椅子の手摺りに頬杖をつき、冷ややかな、しかしどこか楽しげな瞳で俺を見下ろした。
「ヤバい? そんな軽い言葉で済ませるつもり? 正座だけじゃ足りないわね。いっそその床に額をこすりつけて、なめる必要があるのではないかしら。……ああ、それとも、いっそ庭の土を掘って埋まってみる?」
「いやいや! それはさすがにご勘弁を! 正座で、正座で最大限の誠意を見せますから!」
「ふん。まあいいわ。……さて、アルフ。あんたがミモザちゃんとの婚約を『軽々に』破棄しようとしたこと、お母様は非常に悲しいわ。これはね、単なる注意じゃないの。私の教育不足が明らかになったということよ」
母の声のトーンが、スッと低くなった。昨夜までの姉や祖母の「おちょくり」とは違う、本物の「政務官」の顔だ。
「いい? うちは確かに、他の貴族に比べればフランクな家風よ。でもね、それは『貴族としての責務』を果たしているからこそ許される余裕なの。婚約は、家と家との契約。ミモザちゃんの家と私たちは、単なる知人じゃない。利権も、信頼も、未来も共有している『盟友』なのよ」
「それは、わかってるつもりだけど……」
「わかっていないわ! あの王太子の事件を見なさい。あれを『恋愛の失敗』だと思っているなら大間違いよ。あれは、国家レベルの契約不履行、信頼の裏切り、そして統治者としての適格性を自ら破棄した『大罪』なの。あんたがやろうとしていることは、その縮小版よ。自分の息子が、国家を揺るがす愚策の信奉者だったなんて、お母様、恥ずかしくて外に行けないわ」
「こ、国家レベル……」
「そうよ。貴族の婚姻は安定の礎。それを『好みじゃない』だの『五歳差だ』だのという身勝手な理由で反故にするのは、社会秩序の根幹を揺るがす行為。いい、アルフ。ルールを教えてあげる。貴族における『自由』とは、義務を完遂した後に残る、わずかな余白のことよ。あんたはその余白だけを貪ろうとしたの」
母の説教は、もはや「貴族法」の講義だった。領地の通行料の配分から、上級貴族への上納金の仕組み、さらには婚約破棄がもたらす経済的損失の試算まで、数字と論理で俺の根性をミキミキと磨り潰していく。
「大体、あんたは何を見ているの? ミモザちゃんが今、どれほど高い評価を受け始めているか知っている? あの子はね、あと五年もすれば、社交界の基準を書き換えるような令嬢になるわ。その時になって『やっぱり結婚して』なんて泣きついても、お母様が全力で阻止してあげるから」
「……みんな、五年後のミモザを持ち上げすぎじゃない?」
「それが『見る目』というものよ。あんたが彼女の侍女のふくよかな胸元に目を奪われている間に、賢い殿方たちは、あの子の知性と、将来の美貌に唾をつけているわ。あの子への理解不足は、そのままあんたの無能の証明よ」
母は深くため息をつき、今度は夫――つまり父についての不満にスイッチした。
「大体、あんたのその詰めの甘さは、あの人譲りなのよ。結婚記念日のレストランを予約したと言っておきながら、当日に行ってみたら定休日だったことがあったわ。あの時の私の絶望、あんたにわかる? 結局、私が裏から手を回して店を開けさせたけれど、あの人はニコニコしながらワインを飲んでいたわ。……本当に、この家の男たちは、誰が手綱を握ってあげていると思っているのかしら……」
父への愚痴フェーズだ。母のトーンが「ガチ」から「日常の不満」にスライドした今が、脱出の唯一のチャンス。
「ははは……父様も大変だなあ。よし! 母様、俺、貴族としての義務と契約の重みを、魂に刻みました! 今夜は、ミモザに贈る手紙の構成を考えながら寝ることにします!」
「まだよ? まだあの人が新婚時代に、私のドレスの裾を馬車で踏んで破いた時の話をしていないの」
「それはまた、心の準備ができた時に! おやすみなさい!」
俺は痺れた足を引きずりながら、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
廊下には、父が所在なげに立っていた。
「……終わったか。長かったな。……どうだった、ドレスの話、出たか?」
「出たよ。父様……強く生きろよ」
俺は父の肩を、少し強く叩き、自分の部屋へと戻った。
三夜連続の教育的指導。
姉に詰められ、祖母に諭され、母に叩き直された。
俺の心はもう、ボロ雑巾のようだった。けれど、不思議と清々しさもあった。
婚約破棄なんて、もう二度と考えない。というか、考える余裕なんてない。
「よし……。明日は、ミモザをお茶に誘おう」
自分からアクションを起こすのは、初めてかもしれない。
彼女への「理解」を深めるために。
……まあ、実際は女性陣からの「監視の目」が怖くて、そうせざるを得ないだけなんだけど。
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