第03話:祖母の説教は人生の解像度が違いすぎた
「アルフ、食後に私の部屋へ来なさい。少し……お話があります」
翌日の夕食の席、我が家の絶対権力者である祖母ロザが、ティーカップを置く音と共に静かに宣告した。その声は穏やかだったが、氷の刃のような鋭さが含まれている。
「ひっ……は、はい。喜んで」
俺の返事が裏返る。隣で父が「強く生きろよ……」と目を逸らし、祖父ヘンリーにいたっては「お前、一体何をやらかしたんだ。よりによって祖母を敵に回すとは……遺言なら聞いてやるぞ」と、震える手でワインを煽っている。
チラリと姉カティを見ると、彼女は「あー、今日のデザートも美味しいわね」と言わんばかりの涼しい顔でタルトを頬張っていた。
(……あの野郎、確実にちくりやがったな!)
逃げ場はない。俺は重い足取りで、重厚な装飾が施された祖母の部屋の扉を叩いた。
「失礼します、祖母様……」
「入りなさい。そこに座って」
祖母は豪華なベルベットの椅子に腰掛け、俺に目の前の椅子を勧めた。俺は恐る恐る、座り心地の良すぎる椅子に腰を下ろす。
「さて、アルフ。カティから面白い話を聞いたわよ? あんた、ミモザちゃんとの婚約を白紙に戻したいんですって?」
「あ、いや、それは……その、まだ確定じゃなくて、人生の選択肢の一つとして検討を、ですね……」
「あら、そうなの。検討、ねえ」
祖母は優雅に微笑んだ。だが、その目は笑っていない。
「カティからも聞いたけれど、あんた、本当に何もわかっていないのね。そんなに高い位置から物事を見ているつもり? その椅子、あんたには少し高すぎるんじゃないかしら」
「え?」
「降りなさい。床に。今すぐに」
「……はい」
昨夜に続き、俺は吸い込まれるように床へ膝をついた。もはや俺の定位置は椅子ではなく床になりつつある。
「正座。もっと背筋を伸ばして。……そうね、いっそおでこを床に擦りつけた方が、少しは脳みそに酸素が回るんじゃないかしら? あ、でも、あんたの場合は酸素より先に『常識』を注入する必要があるわね。床に穴を掘って埋まれば、少しは地面から人生の知恵が染み込んでくるかもしれないけれど」
「そ、それは植物の理屈では……?」
「植物以下の知能に言ってるのよ」
「いや! それは、その、貴族の矜持として、せめて正座で勘弁してください!」
「ふん、口だけは達者ね。いいわ、その無様な姿勢で聞きなさい」
祖母は深く椅子にもたれかかり、俺を見下ろした。その視線は、まるで数百年を生きる巨木が、足元のキノコを見るかのようだった。
「あんたくらいの歳の男の子っていうのはね、自分が世界の全てを知ったような顔をするものよ。でも、それが一番たちが悪いの。本人はわかった気になっているけれど、実際には何も見えていない。年輪のようにね、人生を重ねて初めて、あの時の自分がいかに未熟で、解像度の低い世界で生きていたかに気づかされるのよ」
「……解像度、ですか」
「そうよ。あんたが騒いでいる『五歳の差』なんて、私から見れば誤差ですらないわ。長く生きてごらんなさい。八十歳と八十五歳に、どんな違いがあるっていうの? どちらも元気に腰が痛いだけよ。若さという一瞬の輝きに目が眩んで、本質を捨てようとするなんて、滑稽を通り越して哀れだわ」
祖母の声が、部屋の空気を重く沈めていく。
「あんたは今、『恋愛』というたった一色のフィルターでしか世界を見ていない。ドキドキするか、胸が高鳴るか。そんな短命な感情だけで婚約を測ろうとするなんて、おままごと以下だわ」
祖母は一拍置いて、ふと視線を窓の外に向けた。
「……そういえば、昨日、庭のバラが咲いていたわ。ヘンリーが新婚の頃に植えたのよ。三十年以上経った今も、毎年きちんと咲くの」
「……はあ」
「あんたには、その意味がわかる?」
「え……バラが、丈夫ということ、ですか?」
祖母が目を細めた。
「……あんた、本当に何もわかっていないのね。バラは手入れをしなければ枯れるのよ。三十年咲き続けているのは、誰かが毎年、水をやって、剪定して、冬には根を守ってきたからよ。人の縁も同じ。放っておいても続くと思っているの? 婚約は契約でも荷物でもない。育てるものよ。……そんなことも、あなたにはまだわからないのかしら」
「……」
「まあ、わからないでしょうね。あんたはまだ、バラを見て『赤い花が咲いてる』としか思わない年齢だもの」
(……そりゃ、俺にはバラの世話なんてしたことないし。)
「でも、好きでもない相手と一生を過ごすのは……」
「『好き』の種類が一つしかないと思っているところが、いかにも小僧ね。いい、人生にはね、長い時間をかけて育んでいく感情があるのよ。それは時に、家族を想う慈しみであったり、背中を預ける友愛であったり、隣にいるのが当たり前という深い情であったりする。直近のあんたには、まだその色の違いがわからないかもしれない。でもね、時が経てば、その多彩な感情のウェイトが、人生の幸福度を左右するようになるの」
俺は何も言い返せなかった。祖母の言葉には、俺がまだ経験したことのない重みが詰まっている。俺が見ている「恋愛」という名の細い糸を、祖母は「慈愛」や「情」という太い綱で編み直そうとしている。
「あんたはミモザちゃんを『子供』だと切り捨てたけれど、あの子の眼差しを見てごらんなさい。あの子はね、あんたという未熟な苗木が、いつか立派な大樹になるのをじっと待っているのよ。五年後、彼女はあのリリアーヌ様と並ぶような、気品と包容力に満ちた令嬢に育っているわ。あんたへの理解が足りないどころか、あんた自身の『将来性』さえ、彼女に見限られていることに気づきなさい」
「……俺の、将来性」
「そうよ。今のままなら、あんたはミモザちゃんに捨てられる側の人間よ。それを、自分から捨てようなて……笑わせないで。あの子ほどの優良銘柄を放り出すなんて、投資のセンスも皆無ね」
祖母はフゥ、とため息をつき、扇子で自分を仰いだ。
「大体、うちの男どもはどいつもこいつも……。あんたのおじい様を見てごらんなさい。若い頃は『俺は自由な風になる』なんて言って、夜な夜な飲み歩いて。今じゃどう? 私の顔色を伺って、安ワインで震えているだけの置物よ。あんな風になりたいの?」
「えっ、いや、それは……」
「あんな甲斐性なしをここまで育て上げてやったのは私よ。それなのに、最近は腰が痛いだの、食事が硬いだの……。昔はもっと、私のために花の一輪でも持ってきたものだわ。それが今では、庭の手入れさえサボって――」
祖母の説教が、徐々に「祖父へのリアルな愚痴」へとスライドし始めた。このフェーズに入ると、祖母は相手が誰であれ止まらなくなる。
「あ、あの! 祖母様! 俺、深く反省しました! 自分の人生の解像度の低さを恥じ、これからミモザとの関係を再構築するために、まずは自室で瞑想してきます!」
「あら、もう行くの? まだあの人の、新婚旅行での大失態について話してあげていないのに」
「それはまた今度、じっくり拝聴します! では!」
俺は正座で痺れた足を無理やり動かし、脱兎のごとく部屋を飛び出した。
背後から「逃げるんじゃないわよ、アルフ!」という声が聞こえた気がしたが、無視だ。
廊下に出ると、壁際に祖父が立っていた。
「……終わったか。」
「祖父様……長く生きてくれよ」
俺は祖父の肩をポンと叩き、自室へと急いだ。
二晩続けての精神的リンチ。正直、もう心はボロボロだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
ブックマーク登録や評価欄☆☆☆☆☆から応援をいただけますと励みになります。




