第02話:姉の部屋は地獄への入り口でした
レオンが帰っていった後、俺は一人、部屋のベッドに大の字になって倒れ込んだ。
天井を見つめながら、ミモザの顔を思い出す。
クリクリとした大きな瞳、まだふっくらとした頬。
「アルフ様、これ見てください!」と、摘んできた花を見せてきた時の無邪気な笑顔。
……うん、やっぱり妹だ。どう頑張っても、あの子と夫婦生活を営む図が想像できない。
でも、このまま黙って結婚して、後から「やっぱり無理」となるのは、地獄な気がする。
今回の王太子の件で、国中の貴族が「婚約の神聖さ」についてピリピリしているはずだ。
もし俺が今、下手な動きをすれば、見せしめとして吊るされる可能性だってある。
(……自分一人で考えるからダメなんだ)
うちの家は、確かに他の貴族に比べれば風通しが良い。
父も母も、それどころか祖母だって、俺の話を笑って聞いてくれるはずだ。
「実はミモザとの婚約について、少し悩んでいて……」と切り出せば、「そうね、まだ若いものね」とか「ゆっくり考えていきましょう」なんて、優しい言葉をかけてくれるに違いない。
特に、俺のたった一人の姉、カティ。
彼女は俺の理解者だ。一歳しか違わないし、同じ学園に通う仲間として、この「若者の苦悩」を分かってくれるはず。
「よし、まずはカティに相談だ。女性側の意見も聞けるし、姉弟水入らずで話し合えば、きっと良い解決策が見つかるはず!」
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夕食後の、穏やかな時間。
廊下を流れる空気は、いつも通り平和で、少しだけ春の匂いがした。
これから始まる「地獄の説教」を予感させる不穏な気配は、まだどこにもなかった。
俺は軽い足取りで、姉の部屋へと向かった。
地獄への片道切符を握りしめているとも知らずに。
扉を叩く。
「姉様! ちょっと相談があるんだけど、いいかなー?」
「いいわよ、入りなさい」という姉の声は、いつもより少しだけ、楽しそうに弾んでいた気がした。
俺はなるべく自然な笑顔を作って、姉カティの部屋の扉を開けた。
部屋の中には、お気に入りの長椅子に寝そべって、流行の雑誌をパラパラとめくっている姉の姿があった。
うちの姉貴は、一言で言えば「猛獣」だ。それも、獲物をじわじわと追い詰めて楽しむタイプの、極めて質の悪い猛獣。
「あら、アルフ。あんたが私の部屋に来るなんて、明日は槍でも降るかしら? それとも、ついに借金の肩代わりでも頼みに来た?」
「人聞きが悪いなあ。弟の純粋な悩みを聞いてほしいだけだよ」
俺は部屋の隅にある猫脚の椅子を引き寄せ、さも重大な話をするかのように深々と腰掛けた。
「ふーん……まあ、いいわ。でも知ってるでしょ? 私のコンサル料は高いわよ。とりあえず、今度街に出た時に新作の香水、一本ね」
「相談に乗る前から請求かよ! ……まあ、いいけどさ。実はさ、真面目な話なんだけど……」
俺は一度言葉を切って、周囲を警戒するように声を潜めた。
「俺さ……婚約破棄を、考えてるんだ」
カティの手が止まった。
雑誌から視線を上げ、じっと俺を見つめる。その瞳の奥に、怪しい光が宿った。
「……婚約破棄? あのミモザちゃんと?」
「そうそう。いやさ、王太子の件、聞いたろ? あれは確かに殿下があれだったけどさ。……俺もさ、ちょっとだけ考えてたんだよ。ミモザってまだ十一歳だろ? 五歳も離れてる俺と婚約させられて、あの子もかわいそうじゃないかって」
「……」
「ぶっちゃけ、あの子ってまだ子供じゃない? 恋愛対象っていうか、ハムスターとかを愛でてる気分なんだよね。俺はもっとこう、話の合う大人の女性とさ……」
俺がそこまで言いかけた時だった。
カティがゆっくりと起き上がり、雑誌を机に叩きつけた。
「……アルフ」
「ひっ、はい」
「あんた、その椅子に座ってる態度、ちょっと大きくない?」
「え? いや、普通だけど……」
「気に入らないわね。降りなさい」
「は、はい……」
俺は反射的に椅子から立ち上がった。姉貴のこのトーンは、間違いなく「お仕置きモード」の入り口だ。
「床。そこ、正座」
「ええっ!? いや、相談に来ただけなのに正座は――」
「正・座」
「はいっ!」
板張りの床に膝をつき、背筋を伸ばす。俺の家系は、なぜか女性陣が強く、男性陣はこうして「物理的な低姿勢」を強いられる宿命にある。
カティは椅子から立ち上がると、正座する俺の周りを、獲物を吟味する肉食獣のようにゆっくりと歩き回り始めた。
「五歳差? 子供? ……あんた、自分の言ってることの愚かさが分かってるの? 脳みそ、学園の食堂に忘れてきたんじゃないかしら」
「だってさ、姉様! 十一歳だよ? 俺から見れば完全に守備範囲外っていうか――」
「黙りなさい、この未熟児。女性はね、生まれた瞬間から女性なのよ。あんたみたいに、十六歳になっても中身が未熟児で止まっている絶望的な生き物とは、精神構造が違うの」
姉貴は俺の目の前でしゃがみ込み、俺の顔を指先でクイッと持ち上げた。
「あの子があんたにどれだけ気を遣ってるか、考えたことある? あんたが彼女に会うたびに『よしよし、可愛いねえ』なんて頭を撫でてる時、彼女がどんな目で見てるか知ってる?」
「え……喜んでくれてるんじゃないの?」
「バカね。彼女は『ああ、この人は本当にお子様ね。私が大人になってあげなきゃ』って、慈悲の心で付き合ってあげてるのよ。本来なら、あの子にはあんたなんて、もったいなさすぎて、王宮の宝物庫にでもしまっておくべき存在なの」
「そ、そんなに……?」
「そうよ。よく聞きなさい。あの子は五年後、今のリリアーヌ様と同等かそれ以上に美しくて聡明な令嬢に育つわ。その時、あんたは地面を這いずり回って後悔することになるでしょうね。でも、その頃にはもう遅いわ。あの子の周りには、あんたなんかよりずっと素敵な殿方が列をなしてるんだから」
カティの言葉が、鋭いナイフのように俺の心に突き刺さる。
いや、でも、俺にも言い分はあるんだ。
「でもさ、今の俺の目にはそう見えないんだよ! それに……ほら、ミモザに付いてるあの二十歳の侍女さんとかさ、ああいう完成された美人がいいなって思うのは、男として自然なことだろ?」
その瞬間、部屋の温度がマイナス五十度くらいまで下がった。
「……あんた、今なんて言った?」
「え、いや、侍女さんが綺麗だなって……」
「気づいてるのよ」
「……へ?」
「ミモザちゃんはね、あんたが鼻の下を伸ばして侍女を見ていることに、とっくに気づいているのよ」
俺の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
「そ、そんなはずは……俺はさりげなく、芸術品を見るような目で……」
「さりげなく? あんたの目は完全に『飢えたドブネズミ』みたいにギラついてたわよ。彼女はそれを全部知って、その上で『アルフ様はまだ子供だから、仕方ないわね』って見逃してくれてるの! あんなに健気で、包容力のある女の子、どこを探したって他にいないわ!」
「……」
「あの子への理解が絶望的に足りないわね。あの子があんたに合わせるために、どれだけ背伸びをして、どれだけあんたの幼稚な趣味に付き合ってあげているか。少しは想像力を働かせたらどうなの?」
カティは立ち上がると、見下ろすような冷ややかな笑みを浮かべた。
「いい? あんたが今やってるのは、『ダイヤモンドの原石を、ただの石ころだと思って捨てようとしている』のと同じ。そんな愚かな弟を持った私の身にもなりなさい。恥ずかしくて学園の廊下を歩けないわ」
「……姉様、俺、そこまで酷いことしてたの?」
「ええ、国家存亡の危機レベルで酷いわ。王太子殿下のほうが、まだ『自分の愚かさに無自覚なだけ』マシだったかもしれないわね」
俺は床に這いつくばるような格好で、絶望に打ちひしがれた。
婚約破棄を相談しに来たはずが、なぜか自分が「救いようのないクズ」であるという事実を突きつけられている。
「……分かった。俺が、俺が悪かったよ。ちょっと頭を冷やす……」
「そうね。その冷え切った脳みそで、明日一日、自分の罪を数えなさい。あ、香水は二本に増額しておくから、そのつもりでね」
「二本!? ひどいよ姉様!」
「あら、正座の延長がいいかしら?」
「……二本、喜んで献上させていただきます」
俺はフラフラになりながら姉の部屋を出た。
足が痺れて感覚がない。
でも、それ以上に「ミモザに見透かされていた」というショックで、俺の精神はボロボロだった。
(まだだ……まだ明日、祖母に相談するという手がある……)
祖母なら、きっと長年の経験から「若いうちは目移りするものだ」と、優しく諭してくれるはずだ。
俺はそんな淡い期待を抱きながら、自室へと逃げ帰った。
しかし、この時の俺は気づいていなかった。
俺の地獄は、まだ始まったばかりだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
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