第二部:失われた観測所
第一章:星々の重なり
乾いた風がチリ北部のアタカマ砂漠を吹き抜ける。標高五千メートル近くの高地に建てられたアタカマ天文台のドーム群は、空の青さよりも澄みきった静寂に包まれていた。
その天文台の片隅にある研究室。そこに身を置くのが、リナ・マチュ博士――ペルー出身の女性考古遺伝学者である。
彼女は壁一面のモニターと、山のように積まれた紙資料の間に囲まれながら、遺伝子配列と星図の重ね合わせという奇妙な研究テーマに没頭していた。
「リナ、見てくれ。星が、また重なった」
隣室から顔を覗かせたのは、天文学者のバルデスだった。彼はタブレットを差し出しながら、声を潜めて言った。
「昨夜の観測で、プレアデス星団と金星の位置関係が記録的に接近した。まるで……古代星図に描かれたあの並びと酷似している」
リナは眉をひそめてタブレットを受け取り、表示された空の地図を見つめた。
「これ……。本当に一致してるの?」
「一度、解析ソフトに重ねてみたが、最大誤差は0.07度。偶然とは言えない」
リナの心に、十年以上前に亡くなった叔母・エレナの言葉が甦った。
“星はただ光るのではない、語りかけてくるのよ。あの夢を見た夜のように”
彼女はゆっくりと書棚から一冊の古いノートを引き出した。それは、エレナが遺した私的記録、『震える石板の夢』と表紙に手書きされたものだった。
ページを繰るたびに、リナの胸に冷たい予感が走った。
「“星が二つ昇り、震える石板が目覚める日、語り部の血が再び目を開く”。」
そこには、単なる夢日記とは思えない記述がいくつもあった。星の配置、石の手触り、地が鳴る音――そして、記憶が“誰かに呼びかける”感覚。
リナは立ち上がり、モニターに映る現在の星図と、ノートに描かれた線画とを重ねた。
確かに、そこには重なりがあった。
まるで、過去の記憶が星を通じて語りかけているように。
「これは……偶然じゃない。何かが、始まっている」
彼女の指先は、無意識にモニターをなぞっていた。星々の軌跡の先に、何かがあると信じるように。
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第二章:南境の震える石
空気が薄く、風が吹きつける高地の尾根。ボリビアとの国境近く、アンデス山系の中腹にある発掘現場は、標高四千二百メートルに位置していた。
リナ・マチュ博士は、発掘チームとともに細い山道を登り、露出した岩盤の一帯に足を踏み入れた。
「ここが……例の構造物?」
調査チーフのエステバンが頷いた。
「ええ。かつてのワリ文明とティワナクの境界地帯にあたる場所です。二つの文化の接点で、なおかつ、天文観測施設と思われる構造体が……この岩盤です」
巨大な岩肌に広がる幾何学模様。それはかつてない複雑さで刻まれていた。直線と渦、円と楔型の記号が重層的に配置され、文字とも地図ともつかないその姿は、まるで一つの“装置”のようだった。
リナはその中央部――特に光沢の強い黒灰色の面に手を触れた。
その瞬間、かすかな震えが指先に走った。
「……今の、感じた?」
スタッフの一人が頷きながら言った。
「石が……震えてる?」
リナは即座に機材を呼び、振動測定装置と音波解析機を取り寄せて現場に設置した。
結果は予想を超えるものだった。
「これは……単なる岩じゃない」
測定班のデータによれば、この“震動石板”は接触圧と熱、あるいは呼吸に近い生体リズムに反応し、微細な共鳴振動を返す性質を持っていた。
「共鳴誘導式の……記録媒体?」
データを見ながらリナはつぶやいた。確かに、構造の一部はデジタルコードに見える。だが、それは線形な情報ではなかった。
「これは、QRコードのように単純に情報を“読む”ものじゃない。共鳴して“感じ取る”ための装置よ……まるで、記憶そのもの」
石板の端に刻まれた古語表記が判読されたのは、その夜遅くのことだった。
> 「二度昇る太陽の日に、語り手が戻る」
リナは手元のノートを開いた。
叔母が遺した『震える石板の夢』に、同じ言葉が記されていた。
まさか。
この石は、星の語りを記録しているのか?
それとも、未来の語り手に向けた“呼び声”なのか?
リナの手は震えながら、石板に再び触れた。
その微細な震えは、彼女の内なる記憶と重なり合って、
語られようとする声を静かに呼び起こしつつあった。
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第三章:星の影とDNA
サンティアゴ大学の古代言語・認知研究センター。
ここはリナ・マチュ博士にとって、発掘現場以上に“星の声”が響く場所だった。
《ワル・パカ》で発見された震動石板は、通常の考古資料とは明らかに異なっていた。数値、文字、記号のどれでも解析不能。構造は視覚化できても、意味の抽出には限界があった。
リナは思い切って、言語情報処理の第一人者であるカンパーナ教授のもとを訪れた。
「リナ、この石板……“読む”んじゃない。“共鳴する”んだ」
教授はそう言って、震動石板の解析報告を電子紙に広げた。
「音でもなく、触覚でもなく……脳波のある“型”に反応してる。つまり、情報の出力があるかどうかは、**“誰が触れるか”に依存している」
それはすなわち、石板が語りかける相手を選ぶという意味だった。
リナはかつての遺伝子研究プロジェクトの記録を思い出した。古代アンデスの神殿遺跡から採取された骨DNAと、現代の遺伝子サンプルを比較した特殊研究。
「記憶共鳴遺伝子……」
その名で仮称されていた特殊な遺伝配列は、一般的な遺伝子とは異なり、神経系の感受性と、未解明の“共鳴反応”を強く持つことが示唆されていた。
リナは封印されていたリストを端末で開いた。共鳴指数が閾値を超えた対象は、全体の0.004%。その中に――
彼女は目を凝らした。
> アタワルパ・シェリ
年齢:16歳 性別:男性 居住地:ペルー・アヤクチョ
備考:イルカ・シェリの直系子孫、共鳴反応強度:最上位
「イルカ・シェリ……」
かつて“最後のベーリンギア人”として名を記した、語り手の末裔。その名が再び、記憶の中から現実へと浮上した。
震動石板が、彼に反応する可能性。
それは、単なる遺伝的奇跡ではない。語るべき記憶が、語られるべき声を選んだということ。
リナは深く息を吸い込んだ。
「彼に、会わなければ」
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第四章:夢の中の空図
アヤクチョの朝は、光が静かに山をなぞるように昇ってくる。
リナ・マチュ博士は、かつてイルカ・シェリが語りの起点となったこの村に降り立っていた。
彼女が訪ねたのは、16歳の少年――アタワルパ・シェリ。
彼は村外れの小屋に住んでいた。目は深く澄み、語りかける前から、何かを「知っている」ような気配を帯びていた。
「あなたが……リナ・マチュ博士?」
「ええ。君の名前を、記録の中で見つけた。石板が……君に反応するかもしれないの」
アタワルパは目を伏せた。
「ぼくは、もう“夢”で見ました」
その夜、彼は再び夢の中に沈んだ。
彼の意識は、いつしか別の時間の中を歩いていた。
岩の裂け目、光る空、震える石板。
その中心にいたのは、知らないはずの男。だがなぜか懐かしい。
「……アマル」
名前が浮かんだとき、彼の指先が石板をなぞっていた。そこに刻まれた星の配置――二つの太陽が昇る瞬間。
断片的な視界。風。石の粉。彫る手の感触。
それはアマルの記憶だった。
翌朝、リナとアタワルパは、村近くの山中にある旧ワリ遺構のひとつに赴いた。
地面の中に埋もれていた震動石板を、現地の案内人が露出させていた。
「これが……ぼくの夢に出てきたものだ」
アタワルパが手を触れた瞬間、
石板が再び震えた。
リナは急いで計測装置を起動し、脳波・振動・音響・磁場の変化を記録。
「共鳴反応、確認……完全に一致している。石板は、君を“語り手”として認識している」
その時、リナの携帯端末に届いた最新天文データが、星の運行を告げた。
「……プレアデスと金星が、次に重なるのは……2048年、冬至の日」
リナとアタワルパは顔を見合わせた。
それは、アマルがかつて石板に刻んだ“語られるべき日”。
太陽が二度昇る日。
記憶が、今、呼び覚まされようとしていた。
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第五章:観測者の窓
2048年、冬至。
チチカカ湖の夜空は、異様な静けさに包まれていた。
観測隊の機材が湖上の高台に設置され、世界各国の天文機関と連携して、星々の重なりとその周囲で発生する“異常干渉域”の追跡が進められていた。
その時だった。
上空に、「光のない影」が現れた。
星々の間を横切るようにして浮かび上がったそれは、観測機材のどれにも明確な輪郭を残さず、むしろ空間そのものが一時的に歪むような現象として記録された。
「大気中に……影?」
リナは、可視光、赤外線、磁気データ、あらゆる波長での探査を同時に開始するよう指示を出した。
「法則が……揺れてる」
隣の技師がつぶやいた。
突如、震動石板が激しく反応した。アタワルパが手を触れた瞬間、石板が空へと向かって一条の微光を放った。
その直後。
空間の一点が裂けるように“開いた”。
観測装置が捉えたのは、星空の一角に微小な“軌道屈折”が生じた瞬間だった。重力場のねじれ、光波の跳ね返り、そして何よりも、
記録された“声”が空間内から逆流するという現象。
「観測者との“窓”が開いたわ」
リナは呟いた。
同時に、《エル・ミラドール》との連携ネットワークが起動された。
地球低軌道にある星間観測AI群が、すでにこの現象に向けて動いていた。
《観測交信チャネル 開始》
表示された接続ログの中に、未知の識別コードが並んでいた。
「これは……」
リナは、星々の向こうから“誰かが応えている”ことを感じ取っていた。
アタワルパは、石板に手を置いたまま、目を閉じた。
その瞬間、空の震えが消え、星々が、まるで再び整列したように瞬いた。
その整列は、千年前の石板に刻まれた星図と一致していた。
リナは、深く息を吐いた。
「記録が語り継がれた時、未来は記憶になるのね」
星々は応えていた。
語られた声は、ようやく、未来に届こうとしていた。