第一部:空を刻む石
第一章:星を量る者
風が高地の乾いた岩肌をなぞるように吹いていた。ワリの都は、空と地が接する場所に築かれた文明の中枢だった。標高三千を超えるこの大地では、星が地面に降りてくる。夜空は近く、星々はただ光るのではなく、語っていた。
神殿天文区画の中心に、若き記録者アマルはいた。
彼の手には観測記録用の葦筆、足元には巨大な黒石の観測盤が広がっている。その盤には星々の運行を記録するための無数の窪みと、季節の線が刻まれていた。
アマルはまだ修行中の「カパック・アマル」――星を量り、読み、記録する役目を持つ者の卵である。
その日の観測は異常だった。
金星が、プレアデス星団に異様な近さで接近していた。
「……そんなはずはない。先祖の盤では、ここと、ここ……二指以上は離れていたはずだ」
彼は慎重に石盤をなぞり、測角を確認した。手にした測定棒がカタカタと震える。
光角は、確かに接触の寸前。天文盤の刻印と合わない。星の運行自体がずれている。
その瞬間、背後から低く重い声が響いた。
「感じたか、アマル」
師匠――ワルナ・イリが、杖をついて現れた。白髪を肩に垂らし、片眼は曇りながらも、もう片方の眼だけで星の運行を読み切ると噂される老星官である。
アマルは振り向き、緊張を隠せない声で言った。
「師よ。金星とプレアデスが……接触軌道に入りました。観測史にない角度です」
ワルナ・イリは黙って石盤に手を置き、指先で微かに振動する盤面を感じ取った。
「それは星がずれたのではない。空そのものが、語りかけているのだ」
アマルはその意味を理解できずに眉をひそめた。
「記録には……この異常をどう書き残せば」
ワルナは、風の音を聞くように目を閉じた後、静かに言った。
「星は刻むものではない。読むものだ」
「読む……?」
「刻めばそれは過去になる。だが読むとは、今を生きるということだ。星の言葉を記録しようとするな。おまえ自身がその声を語れ」
その夜、アマルは眠りの中で不思議な夢を見た。
夜の空に、二つの太陽が昇っていた。
大地が呼吸し、山が歌い、星々が次々と沈黙する夢だった。
その中で、彼はひとつの声を聞いた。
「語れ。語らなければ、記憶は沈む」
目覚めたアマルは、自らの手のひらを見つめた。
その掌は震えていた。
観測の筆は、記録のためのものではない。
語りの火を絶やさぬための道具なのだと、初めて気づいた。
そして彼は筆を取り、星を量るのではなく――
語り始めた。
第二章:二つの太陽
チチカカ湖の水面が、空と地の境界を曖昧にしていた。南岸の霧深き高地に、人々の記憶から忘れ去られた神殿があった。《カラ・シンタ》――「沈黙の語り部」と呼ばれるその場所は、かつてワリの最古の星読みたちが、星々と“話をした”場所だといわれていた。
アマルは、そこに導かれるように辿り着いた。
ワルナ・イリ師の勧めで一度都を離れ、星の声を「読む」ための旅に出てから数日。彼は祖母の村に立ち寄り、幼い頃に聞いた「夢を見る儀式」のことを思い出していた。
祖母は、彼の顔を見るなり微笑んで言った。
「お前は、星の中に入った顔をしている。もう“夜”が追いついてきたのだろう」
そして、アマルをカラ・シンタの石段へと導いた。
その夜、アマルは儀式に入った。香草の煙が満ちる中、彼は神殿中央の石の祭壇に横たわり、深い呼吸とともに意識を沈めていった。
やがて、視界が光に包まれる。
彼は空に立っていた。
夜と昼の境界に、太陽があった。いや、二つあった。
一つは黄金色に燃え、一つは白金に透き通っていた。それらは静かに並び、まるで会話するかのように震えていた。
大地が呻き、湖が歌う。
そして声が響いた。
「太陽が二度昇るとき、この地に語る者が還る」
アマルはその言葉を、聞いたのではなく、受け取った。
目を開くと、祖母が静かにそばに座っていた。
「夢を見たのだね」
アマルはうなずいた。
「太陽が……二つ、昇っていました」
祖母は静かに石の棚から一枚の石板を取り出した。それは掌ほどの大きさで、滑らかに磨かれ、中央に渦巻きのような模様が彫られていた。
「これは《震える石板》。昔、この村の語り部が残したものよ」
アマルがそっと手を触れると、
石板が、震えた。
それは金属の共鳴音ではなかった。
**“記憶が目を覚ます音”**だった。
彼の指先から、視界の端に、アマル自身ではない誰かの記憶が流れ込んでくる。石を彫る手。語りを聞く子。星を数える声。
すべては断片で、しかし確かに“誰かが残したもの”だった。
祖母はそっと語った。
「この石は“読むもの”ではない。“感じるもの”だよ。
お前の中にあるものと、これの中にあるものが、重なるとき――
記憶が、再び歩き始める。」
アマルは震える手で、石板を胸に抱いた。
星はただの光ではない。
それは、語られるべき記憶の灯火なのだ。
彼はその夜、星を見上げた。
そして、知った。
この空は、語りを待っているのだと。
第三章:記憶を刻む手
ワリの都を離れ、南へ三日の道程。アマルは、神殿からの正式な命を携えて、小さな村にたどり着いた。
そこはワリ帝国の南境、山と谷の境界にある《ピラ・クスカ》と呼ばれる石工の集落だった。岩盤を削り、神殿建築の基礎を彫る男たちの村。その技は都でも「石に風を吹き込む者たち」と称されるほどだった。
アマルの任務は明確だった。都で観測した新しい星図――プレアデスと金星の異常接近記録を、精密な石板に刻むこと。これは記録の正史として、神殿に納められる最も神聖な“記憶の礎”となる。
だが、彼の胸には、儀式で見た夢の残像が未だ残っていた。
あの「二つの太陽」の空は、いまも鮮明だった。
村の工房で彼を迎えたのは、背の低い老人だった。肌は岩のようにひび割れ、手はまるで石そのもののように堅かった。
「マイカと申す。神殿からの若き星官殿か」
アマルはうなずき、儀礼的に答えた。
「記録するための星図を刻みに来ました。神殿指定の図を、この石板に」
マイカは黙って石板を撫でた。黒曜石に近い滑らかな輝きの岩だった。
「石は記録に従うが、時には語る。気をつけなされ。石には声がある」
その言葉は、アマルの胸に何かを引っかけた。
夜更け、彫り始めようと筆を取った彼は、ふと、手が止まった。
図面では、プレアデスは金星からやや離れ、三日後には後退するはずだった。
だが、あの夢の空では、二つの太陽が、並んで昇っていた。
彼は思わず、夢で見たあの光の配置を、石板に描き出していた。
「……これは、記録ではない。だが、真実だ」
マイカが近づき、静かに言った。
「お主が刻んだそれは、命じられたものではないな」
「はい。でも、これは……この目で見た空です。夢であれ、星が語った言葉です」
「ならば、それは記録ではなく、祈りかもしれぬな」
翌日、完成した石板が都に送られる直前、ワルナ・イリが現れた。
そして彫られた星図を見るなり、激しい口調で言った。
「アマル……記録者が、己の記憶を刻んでどうする! お前は未来の者に、誤った空を見せるつもりか!」
アマルは震えたが、筆を手放さなかった。
「……未来の者が見るのは、真偽ではありません。声です。語りです。
たとえ記録が違っていても、その“語ろうとする意志”が伝われば……記憶は死なない」
沈黙。
ワルナはしばらくして、深く吐息をついた。
「語る者に、記録を与えるのは難しい。だが、黙る者に記録を渡すよりは、まだ良いのかもしれぬな」
そして、アマルが彫った石板は、二枚とも神殿に納められることとなった。
一枚は「観測の真」として。
一枚は「語りの夢」として。
第四章:空に裂け目あり
風が異様だった。
高地の空気はもともと薄く乾いているが、その日はまるで空そのものが呻いているかのようだった。ワリの南境、観測所の石床に立つ星官たちは、皆が空を見上げていた。
そこには、かつて誰も記録したことのない異変が起きていた。
「……これは、“ミタク・マリ”だ」
年長の星官が、呟くように言った。
“空の兆し”。
それは古い記録にのみ残される言葉であり、現実のものとして観測されるのは数百年ぶりだった。
天の赤道をなぞるように走る、淡く歪んだ光の縞。星々の並びが、まるでそこだけずれて見える。金星も、プレアデスも、その軌道を僅かに狂わせていた。
「空が……歪んでいる?」
アマルが思わず言葉に出す。
「これは記録できぬ」
星官の一人が、測量盤を見ながら首を振った。
その瞬間、地が揺れた。
ごう、と風が反転し、空の高みから音もなく地鳴りが響く。大地が身をよじるように動き、工房の石壁が一部崩れ落ちた。
「地震だ! 神殿区画を離れろ!」
観測器が倒れ、記録板が転がり、空がますます騒がしくなっていく。
アマルは走った。崩れた壁の下敷きになりかけた後輩を引き上げ、瓦礫の間に残された記録石板を拾い上げる。
「空が……裂けているんだ!」
その叫びは、誰の耳にも届かなかったかもしれない。
しかし、アマルの眼は、はっきりとそれを捉えていた。
星の軌道が、断たれていた。
星図では繋がっているはずの恒星たちの流れが、裂け目のような“暗い空間”によって寸断されていた。
それは単なる天候異常でも、大気の歪みでもない。
それは、**星の裂け目**としか呼びようのないものだった。
観測を続けることは不可能だった。多くの星官たちは都に退避し、神殿区画の一部は立ち入り禁止になった。
アマルは、一人崩れた天文広場に残った。
彼の記録板は、震えで崩れた文字を残しながらも、未完の星図を映していた。
「……語っても、誰も聞いてくれない」
彼はぽつりと呟いた。
「語りが追いつかない。記録も、詩も……空の歪みには、通じないのか」
そのとき、拾い上げた石板が、微かに震えた。
タガラの記録でも、イルカの言葉でもない。
**アマル自身の“揺れ”**だった。
星が語る言葉に、人が間に合わない。
それでも、語らねばならぬのだと、彼は知った。
第五章:震える石板、沈黙の星
観測所の崩壊から三日後、アマルはひとつの決意を胸に、都からはるか離れた高地神殿の入り口に立っていた。
《パルカ・ウィリャイ》――「語りの沈黙」と呼ばれるその地下神殿は、代々の記録者たちの最終の書き所であり、語られぬ記憶を封じる場所だった。
アマルの手には、砕けた記録板のかけらと、自身で彫り上げた星図があった。そこには、夢の空も、観測の歪みも、空の裂け目も――すべてが重ねられていた。
「これは、記録ではない。ただの記憶だ」
アマルはそう呟きながら、最後の文字を刻んだ。星々の位置、空の変異、そして語り得ぬ光の裂け目。
彼の彫った線は、まるで風の揺れを石に封じるかのようだった。
石板を封じる儀式が始まった。神殿の奥、地熱でわずかに温められた封蔵室に、黒衣の神官たちが一枚の石扉を押し開ける。
その中に、アマルの石板が収められた。
封印文はこう記された。
> 「開かれるは、太陽が二度昇る日」
アマルはその場に膝をつき、声を低くして言った。
「記憶は語られぬ限り、死に絶える。語る者を、私は待つ」
言葉は誰に向けられたものでもなかった。
それは、まだ生まれていない誰かに向けた“呼びかけ”であり、願いだった。
扉が閉じられ、封印の刻が打たれたとき、アマルは空を仰いだ。
空は晴れていた。だが星はまだ見えない。
それでも星は、そこにいた。
彼の知らぬ誰かが、それを見上げ、語りを再び始めるまで。
夜が訪れ、空が闇に染まる。
星々は何も言わず、ただ瞬いていた。
だがアマルは知っていた。
星は、静かに“聞いている”。