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眞神郡シリーズ

イゐユ

関連作品: https://ss1.xrea.com/sylveeyh.g2.xrea.com/非-Anti-狂裂..pdf

「私たちは無機質な星屑からできている」

 そんなふうに言う人たちがいる。言葉に過ぎないが……。

 もしも、現實というものが観たままに事實であるとするならば、それは疑いようのない眞實だ。



 彼女はそのドライな言葉がとても好きだった。好き過ぎるようだ。それが彼女の全統中枢清聖正純奥眞髓だと言わんばかりだった。

 あゝ、彝之イゐユ(彝ゐ兪)、君は神のように美しい。存在に言説が及ぶことはない、深い森の苔生す古木や巖の無表情の深さ、溪に迸る飛沫の燦めきの奥行、路傍に捨てられた缶詰のラベルの文字や開けられたブリキの蓋の反り、蹲踞の水面に浮かぶ秋の朽葉の黄、襖絵の墨痕、陶器の土肌の気泡跡と釉薬の膨らみ、古いブガッティのエグゾースト・マニホールドが発するサウンド、完熟して黒いほど濃いのに網膜が痛くなるほど鮮やかな赤いトマト、白雲の切れ間から覘く紺碧の眸、ポスターが雨で剥がれ落ちて古い壁に残す雑多な跡、砂漠の砂岩の日射し、星鏤めた天穹の涯のなさ、イスファハン織のペルシャ絨毯、遙かな彼方を眺めるカエル。

 現実は存在でしかない。

 無も空も絶する存在。

 ただ、存在でしかない。

 甚深微妙で複雑精緻な、捉えがたい、一瞬たりとも一定でない、生きた、遷移する、生命の在る、実在する真理、手に取れるモノ、何も言わない物質、無表情、それゆえ無限の解釈と無際限に微精細緻密化して無窮、手を尽くそうにも尽くせない、どうしようもないけれども、憶測・架空・捏造・幻影・想い込み・勘違い・感覚の蜃気楼であるとしても、君は切に切に切実に壓する。存在だ、実存する。その光燦は全てをぶち破り、天よりも眩しく赫奕たる炎。

 宇宙開闢時のような、質量のない存在者、衰えぬスピード、妨げのない自在無礙、全を究竟することに因る差異のない絶空、完璧なる全方位中性中立、何にも染まらない全性、一切全てありとしあらゆる何もかもであることに因る超無空、全に因る空、充実した空、際限りのない途方もない完全完璧なる中庸、真全網羅(全てを際限なく網羅する。全網羅ではない状態ですら網羅する。つまり、全網羅ではない。又は一部のみでしかないことである。又は一つのことのみでしかないことである。全網羅を超えた全網羅以上の全網羅。それを真全網羅という)なる炸裂の中庸。狂裂自在なる中庸。自由狂奔裂なまでの中庸。

 そう。

 君は現実自体(そのもの)。現実は何でもありだ。いつも唐突。在れば現実。在ったことが現実。非経緯系ぶっきらぼう。現実は、ただ、現実。

 それを超超絶超越する君の眸の凄絶な美。

 眞の中枢の魂の奥の本質である、その双眸は、青・蒼・碧・藍・紺・紺碧・濃紫藍・瑠璃・濃青紫・水色・青金剛・コバルトブルー・パステルブルーの深い立体モザイクの眞奥の奥の奥へ幾重層も做す海のような、燦めきの氾濫の光の潮。



 僕らは紛れもなく星屑からできている。

 現実の実在と科学とを信ずる者なら誰もが知る。事実。見ているものが觀えるがままに真実ならば。

 宇宙は約一三八億年前にビッグバンによって開闢した。直後は高温だったが、時とともに下がり、光や電子、ニュートリノ、クォーク、グルーオンなどの素粒子が衝突する。クォークとグルーオンから陽子と中性子が生まれ、陽子は水素の原子核となる。

 水素の原子核が結合してヘリウムが形成され、水素やヘリウムは核融合反応を起こし、炭素、酸素、鉄など、より重い元素を合成し、星が新星爆発を起こすと、内部の元素が宇宙に広がって、星や水や人となった。


 そういうドライな事実しかない。

 有機質は生命の元となる素材だが、無機質が化学反応した結果だ。人も物質で、思考は神経細胞の化学反応でしかない。よって、諸考概に本質など在るはずがない。無意味以前だ。遙か遙か以前だ。諸概念は意識の内において、我々にそう感じられている効果でしかない。科学的な事実・実態として、そうある訳ではない。実在ではない。あらゆる定義・概念には実体も本質(イデア:ιδέα)もない。愛も正義もニュートラル、無味乾燥、無機質。


 星が死んで星の素材となる。生命も同じだ。海の噴火口の近くで有機物が結合と分解を繰り返していた時代、ばらばらになった蛋白質を素材として再構築して、同じ結合体を作っていた現象と似ている。因みに、同じ結合体を作るための設計情報が遺伝子の祖先である。なぜ、存在は再生してまで維持しようとするのか。答はどこにもない。


 広大な塩水であった古代の海。海面に突き出た黒い岩は、火を噴く島々だ。酸素は未だなく、窒素、メタン、二酸化炭素などに覆われ、湿った熱い空気が渦巻く過酷な世界だ。

 島には熱水の噴出孔がある。孔のわきには水が溜まっていった。岩の上は隕石や彗星について降った有機分子があり、暖かい水に溶け、乾き、また熱水が噴いて溶け、これを繰り返す。繰り返すうちに、化学反応が起って、そこに核酸が生じた。核酸の濃度が高くなって逝くと、分子が繋がり結ばれ始める。

 これがRNA(リボ核酸)である。後にDNA(デオキシリボ核酸)の基礎となっていくものである。

 自然の摂理の解き難き綾の不可思議か、人知の及び難き御神の意志か、これらはいつしか脂肪酸に包み込まれ、泡のようなものとなり、その脂肪酸が後に細胞膜と呼ばれるものへと進化して逝く。

 水溜りは無数の小さな泡に占拠され、黄色い膜が張ったようになった。

 その一つ一つが細胞となっていくものである。中に核酸が糸のように何本も詰まっていた。遺伝子の祖である。

 細胞の原型とも言うべきこれらは、繋がり結ばれてはすぐに解壊する不安定なものであった。だが、長い長い歳月のうちに、安定を保つものらが現れる。それは壊れた素材を取り入れ、また組み上げる作用で、極々原始的な代謝であった。

 かくして、デオキシリボ核酸が複製を創り始め、生命誕生である。


 極微小で、儚く、壊れやすい生命は長い時間の中で、複雑な形態を取るようになった。水を介し、地表に広がっていく。川や湖へ。

 水とともにあった。それゆえ、乾季は極めて大きな危機であった。水がなくなると、乾いて硬くなる。細胞の先祖は素材と水とを求め、環境と苦闘し、命を繋ごうと欲す。それでも、死滅への道を辿りつつあった。増殖したいという根源的な欲求に応えるべく、生命は奮闘する。生き残ったものが後代の、古細菌から草木類・鳥獣までの存在者の、大本となる者へと進化していくのである。

 地球に宇宙線が降り注いだ時も、進化したその一部は生き残った(進化しなかった細胞らは滅んだ)。


 人の心も精神も思惟も、このような活動、化学反応の累積に過ぎない。心情や思惟も。心とは、精神とは。シナプス間隙を超えた神経伝達物質が受け側の樹状突起の受容体にキャッチされ、細胞膜にあるナトリウム・イオンのイオン・チャネル(イオンに細胞膜を透過させる蛋白質)を開口し、ナトリウム・イオンを流入させ、カリウム・イオン濃度の高かった脳神経細胞内部のナトリウム・イオン濃度を上げることでしかない。カリウム・イオンは細胞膜内から排出されていく。

 細胞の内側と外側とで、イオンの電荷の正負の関係が逆転する脱分極。

 ミリ秒単位の電位差の逆転。

 すぐに静止電位に戻るが、この静止電位から活動電位への刹那の逆転は電気的な発火現象、インパルスである。

 インパルスの刺激が軸索丘に伝わり、再び軸索末端のシナプス小胞が刺激され、神経伝達物質が分泌され、それが脳神経細胞の間隙(シナプス間隙)を跳飛し、一つ次の脳神経細胞の樹状突起の受容体へと飛来する。

 この繰り返しが理性による思考というものである。だとすれば、この思惟は何だと言えるか。本質イデアがあるか。仏の悟りは何だと言えるのか。

 阿耨多羅三藐三菩提は何か。解脱を何だと言えるか。 

 すべて草木が萌えいずるように、雲や雨のように、稲妻を起こすように、月が昇り、潮が満ち、山が火を噴くように。カエルが恋して啼き、猛禽が囀り、雌の獅子が受胎し、星が滅びるように。光が波であり、重力で時空も捻じ曲がるように、宇宙が加速するように。 

  畢竟、自然の現象でしかない。ニューロン内で起こる化学反応の集積もまた、自然でしかない。その意味を問い質すか、質せるのか。それを糺すのか。即物の世界を。

     仏の叡智は何だと言えるのか。

 愛や正義が何だと言えるか。





 こんな話になったのは、なぜか。そう、そもそも、僕が、

「愛や正義って何だろう」

 パレスチナやウクライナ、南スーダン、中央アフリカ、コンゴなどを惟い、そう問うたときの、彼女の回答が”私たちは星屑で”だったからだ。

 僕は思わず問い糺したくなる。

「でも、なぜ、どうやって物質は生まれたんだろう。ビッグバンの前には存在も物質も時間も空間もなかったんでしょ?」

 僕は水素の誕生(水素を構成する、電子と陽子、中性子が唐突にあらわれる)が、僕には疑問だった。どうやって無空から生じるのか。

 イゐユは嗤った。

「あんた、バカね。

 何もなかったって言ってんじゃん」

「わかってるよ」

「わかってないわ。わかったら、無じゃないわ。何にもないってどういうこと?」

「どうって、何もない、何にもないことでしょ? ゼロのこと」

「それって一つの状態じゃない? 在り方じゃない? かたちがあるわ。無じゃない。無だから、無じゃないって言えないわね。定型がないから。だったら、そうとも言えないけど」

「そんなこと言ったって、何て言えばいいの。キリがないよ」

「頭に描けるようなものは無じゃないわ。それは無だ、とか、それは無じゃない、って記述できるようなものは無じゃないわ、それもね。

 例えば、透明を想い浮かべて。浮かんで来るものは必ず灰色や銀色や白い背景を持つでしょう? それって、透明じゃないわ。純粋な透明は想い浮かべられない。無も同じよ。でも、逆にないことが無だから、想い浮かばないのが無、想い浮かべないことが無、想い浮かばないことが透明、透明で全てがありのままに鮮明、存在が無なのよ。

 存在は、ただ、只管存在で、不存在非存在ですらもない。無味無臭、無味乾燥、無表情、ただの事実、李朝の雑器、赤襷の備前の肩つきの茶壷、美濃の白志野焼の碗、春爛漫の櫻華、銀の流線の川を挟んで対峙する紅白の梅の古木よ」

「どうしたらいいの?」

「どうしようもないわよ、あたしにも、どうにもならない。どうしようもないもの、って言えてしまえるシロモノじゃないし」

「あ、それって未遂不收だ」

「そうよ、一年生のとき、最初に基礎學で習ったじゃない」

「未遂不收も、状態・かたちだよ」

「そうとも言えるわね。でもね、別にいいのよ、どうだって。

 どうせ、諸概念は無効だから。諸考概は化学的な現象でしかないわ。物的な、物理的な現象。それに意味性や概念性なんてあるの? 本質エッセンティアがあるの? イデアが在るの? ただ、無味乾燥、無機質なだけよ」

「じゃ、最初っから、どうだって、いいんじゃん。何だよ、それって。

 あー、で、物質が生じたのは」

「はあ? 何のこと? そうよ、今も宇宙開闢以前なのよ。

 だって、宇宙開闢前は時間性も局所性も空間性もなかったんだから。時間がないから時点がない、今であってもおかしくない。明日であっても、全然おかしくないわ。

 どこでだって、(あり)。かたちなんてもの、〝とてもかくても候〟よ。頭でいくら考えたって、それが何なの?って感じね。いろはにほへと、ひふみよいむなや(一、二、三、四、五、六、七、八)よ。

 ただ存在」

 そして、唐突にデュランを歌い出す。『風に吹かれて』を。

 僕はようやく尋ねることができた。

「局所性って?」

「一つのものが一つの場所を占有することよ。局所性がないなら、一つのものが複数の場所に同時に存在できる」

「それって、自由過ぎる」

「そうね、無は究極の解放、自由、無ですらない、何でもありよ」

「何を言っても間違いじゃないとすれば、もうどうでもよくない? 今このまま、何の解決にもならない」

「そうね、今が狂裂な自由よ。

 路傍の石、って感じね。乾燥したテキサスの、荒野の砂だらけのテーブルに転がっているブリキの缶よ。

 ニューヨクのハーレムの歪んだブルースハープ、途方もない空前絶後の無際限な自由で、自らに因って在る、真の解放、窮極の、無限の、際限のぶっ飛んだ、狂裂な自在。自由狂奔裂よ」

 だから、今が現実。この(せつな)がヴィヴィッドにあざやく。





 これで全ての疑問に対する、(或る意味での)究竟の解答が出たように思えた。科学と哲学に於ける全疑団への、一切への質疑への最終解答、究極の理、窮極の眞究竟眞實義、大統一理論が完成したかのように、僕に想えた。


 だが、大懐疑主義者の日夕夢くんの反駁だ。

「彼女の言うことは正しい。

 もし、現実が見たままに事実であるならば。

 僕らが見ている(観ていると言うべきか)ものが、実際、そのとおりに在る、そのままに事実であるかどうかは、確認のしようがない。

 そもそも確認ということそのものは何か。

 なぜ、証のあるものは真であると言えるのか。

 そういう無限の問いには、誰にも答えられない。

 結局、未遂不收なのだ」

 僕はあ然とした。だって、

「ぢゃあ、結論は同じじゃん」

 日夕夢くんはムッとした顔をする。

「同じじゃない、彼女は全てが物的現象であることを根拠としている」

「根拠にしていないよ、言葉や概念が無効なんだから」

「それでも、それを基幹にしている」

「そういうことになるのかなー。でも、結局、同じように想うけど。何にもわかってないってことなんだよ」


 古義斗くんは反論する。

「君たちは無効、絶空(空すら絶する)、ニュートラルだというが、だが、実際、危機や苦痛が来たときに、そう言えるか?

 実際、痛くないのにこれは無機質で、効果にすぎないと想うか? そう想えても、捨て置けるか?

 無理だろう、架空であろうと、無効であろうと、本質ではないものであっても、それは切実だ。リアルだ。それが実存だからだ。客観的な実在でなくとも、実際に生きる者にとっては、その感覚に事実、現実の行動を迫られる、感情に切実だからだ。実在でなくても、実存だからだ。

 不可得でも、実存だ」



 日夕夢くんは言った。激しく古義斗くんに噛みつかんばかりに、

「僕は何も結論していない。否定してない。わかんない、って言ったまでだ。未遂不收のまんまだ」



 イゐユは言った。風のように微笑み。

「そうね、それで、いいよ」







 街道の傍らに朽ち毀たれた小さな古い石の彫像。


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