序章(reverse)世界樹の巫女
「うう……ぐっ……」
頭に霞がかかり焦点が定まらない。
杖もほうきもどこかへ吹き飛んでいってしまった。
「ルチアさん、どうですか? あなたはそれでも”世界樹を守り抜く”だなんて、口にできますか? ハハハ!」
口のなかに血の味がにじむ。
視界は水で滲んだようにぼやけている。
圧倒的な力の差に、張り詰めていた気持ちがへし折れそうだった。
その時──。
霞んだ記憶の中に一瞬、小さな蝶の羽ばたきがきらめいた。
か弱くて繊細な背中が、記憶の中に蘇る。
命を賭けて私を見つけ出し、助けを求めてきた。小さな妖精の背中だった。
ルチアは心の中で、精一杯の声をふり絞った。
私は、守るって誓ったはずなのに……。
ここで投げ出して、嘘をつくくらいなら死んだ方がましだ。
そう思った時、無意識で声になっていた。
涙と鼻水でくしゃくしゃになりながら、蚊の鳴くような声しか出なくても
──叫んだ。
「オーブは……絶対……ぜったいに、渡さない……!」
男はその姿をみるや、高笑いをした。
「ククク……なんとまあ、強情な娘だ……。わかりました、もう終わりにしましょうか。あなたが死んだ後、オーブをいただくだけのことです」
冷酷な笑みを浮かべながら、勝ち誇ったかのように優雅に、そしてゆっくりと両手を構える。
冷たい夜風が身体中に染みる。出血がひどいようだ。
ルチアは意識が遠くなっていくなか、杖もなしで防御魔法を展開しようと試みる。
その次の瞬間──目の前が真っ白になっていく。
「な、なに!?」
体が閃光に包まれていった。
しばらく、何もない空間を漂っている感覚だった。
遠くの方から、なにかが近づいてくる、そんな気配だけが感じられた。
それはどんどん近くなってくる。
「……え……ます……」
「聞こえ…………か?」
「私たちの、声が聞こえますか? ルチア」
はっとして、返事する。
「ティアちゃん? 違う、あなたは? いえ、あなたたち?」
「ルチア、私たちは世界樹に仕える精霊です」
「精霊さん? 不思議な声が、聞こえる……」
「あなたの想いに応え、神話の時代の力をお貸しましょう」
「突然なに? 力って?」
「あなたが今、必要としているものです。闇を打ち破る光を……ティアを、この世界を守ってください」
「わからないの。私にみんなを守れるほどの強さなんて、たぶん、ない……。それに何故私に?」
「あなたの血が世界樹に刻まれたことで、誓願は果たされました。その強き思いに応えます。これは契約の証と力です」
ルチアの胸の前に七色の輝きが現れた。
「わからない……わからないけど……」
咄嗟に目を覆ったが、少しずつ瞼を開く。
両手で包み込んでみると、生きているように暖かく、そして力強く脈打つ鼓動を感じた。
「契約の力? でも……どうやってアイツと戦えば?」
ルチアはたじろいだ。
「魔法に思いを込めてください。さあ、勇気をだして。あなた独りの戦いではありません」
声は段々と遠くなっていった。
だがルチアの心の奥には、少しだけ希望の灯がともった。
「……私、だけじゃない」
──目を開けると、先ほどまでの月夜が広がっていた。
暗闇に包まれていても、色鮮やかな輝きの余韻が目に焼き付いていた。
湖の対岸には、不気味に佇む男の声。
「どうですか、死の淵に立った気分は?」
返事はなかった。
少女は大木の幹にもたれかかり、力無くうなだれたままだった。
「おや、もはやお喋りする気力もなくなりましたか? 世界樹の巫女、もう少し楽しませていただけるとね、そう思っていたんですけれど。誠に残念だ」
辺りは静寂に包まれている。
「……、……た」
小さな声で、何か呟く声がする。
その声は、段々と語気を強めてゆく。
「約束……しました。だから……」
すこしだけ視界が冴えてきた。鼓動を感じる。
「??」
「私は、ティアちゃんを、世界樹を守ります……。オーブも渡しません」
うなだれていた少女は力強く呟いた。
垂れ下がった髪の隙間から覗く瞳。
かすかな風に吹かれて髪が揺れると、2つの光星が生き生きと瞬いた。
「む? ほう。まだ歯向かう気力がありましたか。面白い!」
一瞬だったが、男はその背中に、鋭利な刃物で突き刺されるような感覚を覚えた。
しかしながら、この状況下では最早些細なことだと処理したのだった。
ルチアの目の奥底に気迫が満ちる。
「私はまだ終わるわけにはいきません。こちらも全力をかけていきます!」
少女は祈るように両手を組み、全身の霊力を集中しはじめた。
「今からでは遅いですよ。私はもう準備ができているのですから、……ねえ!」
闇の魔法が少女めがけて迫り来る。
「……」
ズドンッ!と大きな音が金槌のように鼓膜を打ち付けた。
巻き上がる爆風が少女を飲み込んだ。
魔法は直撃した。
──明らかにそうだった。
……しかし、ルチアは無傷だった。
何かが煌めき、どこからか声がした。「ルチア、頑張る。ティアも……頑張る!」
「なぜだ? 魔力は尽きているはず。しかも直撃したはずだ!」
微かに風が吹いてきた。
ルチアは目を閉じて静かに詠唱を始める。
「我が唄い熾すは熱情の宴……
彼の地を蹂躙せし者よ、今此処に神威となりて来たれ……」
精霊の力が集まり、七色のプリズムが乱反射しながらルチアに吸い込まれていく。
「集え、精霊達。そしてユグドラシルの名の下に………
饗宴に吹き荒れるは暴神の息吹──今ここに、呼べよ嵐!!」
ルチアはオーブの力を解き放った。閃光と共に強烈な衝撃波が吹き抜ける。
そして次の瞬間、突如無数の竜巻が現れ男を飲み込んだ。
それは地表のあらゆるものを巻き上げ、
やがて1本の巨大な渦に姿を変えながらさらに力を強めていった。
「う、ぐうううううううう、これほどまでの威力とは!」
荒れ狂う竜巻が凄まじい風圧で男の動きを封じ、真空の刃が四方八方から襲いかかる。
男は身動きの取れない状態ではあったが、かろうじて防御魔法を展開していた。
しかし無数の刃がそれを貫き、ダメージを与えていく。
ピシッ!と音を立てて眼鏡のレンズがヒビ割れて砕けた。
ローブはズタズタに引き裂かれ、身体中に傷が刻みこまれていく。
「う……くっ。憑依の力か。まあ、良いでしょう。ルチアさん、あなたの思い、そして実力はわかりました」
「私の名はトビアス。錬金術師トビアス・エフェトです」
「今日は良いものを見せていただきました。また会える日を楽しみにしています」
男はそう言うと魔法陣を展開し、消えていった。
「絶対に、守り抜いてみせる…………」
消えゆく意識の中で呟いた。
そのまま、ルチアは疲れ果てて気を失った。




