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第三章 美ら海水族館

玄吉と雪は、休みになると度々、美ら海水族館を訪れた。二人共、海が大好きなので、何度行っても、何時間いても飽きることはなかった。玄吉はそこで来園者の笑顔を見るのがとても好きだった。特に子供達が無邪気に喜ぶ様は、自身の内にほっこりとした何かをもたらしてくれるようで、とても嬉しくなった。その日も二人は美ら海水族館に赴き、海豚が泳ぐプールの横でのんびりと過ごしていた。平日の昼下がり、それほど混んでいない園内にはあちらこちらに子供達のキラキラした笑顔が溢れていた。


【雪の小さい頃もこんなだったな。海の話をすると目を輝かせて、とても嬉しそうに聞いていたっけ。】


「ん、何?顔に何かついてる?」

「いや、お前も大きくなったなって。ついこの間まで、俺の部屋に勝手に上がりこんで好き勝手やっていたのに、と思ってさ」

「え、何それ。いつの話してるのよ」

「なあ、雪。俺、ここに就職しようかな」

「え、藤原研に残るんじゃないの?」

「うん、やっぱり俺にはこっちの方が性に合うような気がする」

「えー、夢がいっぱいの美ら海水族館と玄吉おじさん、究極の組み合わせなんじゃない」

「おい、何が究極だよ。俺の知識があの子供達に沢山の笑顔を作らせるだろ」

「へー、そんなこと考えてたんだ」


玄吉の視線の先では、海豚のジャンプに歓声をあげる子供達の姿があった。


「いいんじゃない。私も好きだよ、ああいうの。よーし、私ももっと頑張ってここに就職しようっと」

「おいおい、お前の就職はまだ先だろうが」

「いいの」


雪は奄美大島で再会した時に告げた言葉を思い出していたが、そのことは敢えて言わなかった。


「きーめた」


【これで良いのか?この一年、雪と一緒に研究してきたが、こいつは俺なんかより研究者としての素質がある。藤原先生の元で研究者として生きていく方が雪のためになるのではないか。俺に倣って民間の水族館に入ってしまったら、研究者としての芽を摘んでしまわないか。俺が藤原研に残れば雪も残るはず。その方が雪の為になるのか・・・。】


雪の想いがわかっている玄吉は、ニコニコする雪の横顔を心配そうに見つめていた。


翌日、玄吉は藤原に相談した。勿論、雪には悟られないように、雪が帰宅した後に藤原に声を掛けた。


「藤原先生、あいつは俺なんかより研究者としての素質があると思うのです」

「どうした、唐突に」

「昨日、あいつに美ら海水族館で働くことを伝えました。そうしたら、あいつ、私も水族館で働くと言って・・・。」

「へえ、大学の次は水族館かい、相変わらず仲が良いなぁ」

「先生、あいつは俺みたいに水族館で働くのではなく、この藤原研で研究を続ける方が良いと思うのです。その方が研究者として結果を出せると」

「おやおや、普段辛口の君からそんな風に言われるとは、この研究室もまだまだ大丈夫かな」

「先生、、、」

「あぁ、ごめんごめん、茶化すつもりはなかったけど、君があまりに真剣な表情をしているから、つい、口が滑ってしまったよ」

「大浦君、僕が普段、君達をどう見ているかわかるかい」

「いえ、改めて考えるとよくわからないです」

「私から見ると二人とも研究者として優れていると思っているよ。ただ、二人はタイプが異なる、と言うか、真逆かな」

「真逆ですか」

「その辺は君の方が感じているんじゃないのかな。君はロジカルに物事を捉え、着実に進めていくのが得意だよね」

「そうかも知れません。昔から、ひとつひとつ、理由やら背景やらが腹落ちしないと納得できないことが多々ありました」

「そうそう、その上、頑固ときているから大変だ。あはは・・・」

「先生、頑固はちょっと・・・」

「まあ、それはさておき、海藤君も君と同様、きちんと背景等を見極める力は持っているよね。ただ、たまに面白い発想をすることがある。論理的にはAに向かうべき時に面白い発想が浮かぶと、Aとはかけ離れているBに向かう。どうだい、これまでにもそういうことがなかったかい」

「確かにそういう面がありますね。研究だけでなく、普段の生活でも明らかに違うと思われることをやったりして」

「ただ、そういう性格は研究者として諸刃の剣なんじゃないかと思っているよ」

「諸刃の剣ですか。それって、閃きによって研究の成果を出せないということですか」

「そうだね、上手く閃けば素晴らしい成果を残せるかも知れない。実際、過去に素晴らしい研究成果を生み出した人達の中には、独自の理論を見つけ出している人が数多くいるからね。一方、基礎研究のように一歩一歩、着実にデータを集め、反復し、理論を固めていくようなテーマの場合、そういった発想・閃きが仇になることが十分に考えられる」

「確かにそうですね」

「海藤君がこの先、どんな研究をやりたいのか聞いてみたことはあるかい」

「いえ、これまではそういった先の話はしてこなかったですね」

「まあ、まだ時間はあることだし、ゆっくりと話し合ってみたらどうだい」

「そうですね、とりあえず話してみます。ありがとうございました」

「これは私の単なる感だけど、海藤君自身、気付いていないかも知れないな」

「どういうことですか」

「彼女は大学に入る前からこの研究室や君が受ける授業に紛れ込んでいたよね」

「はあ、すみません」

「いや、それは構わないのだけどね。彼女がなぜそんなことをしていたのか、聞いてみたことがある。君は聞いてないのかい」

「そう言えば、私は聞いたことがないですね」

「彼女、子供の頃に君が話してくれた海にまつわる話が大好きだったそうだよ。だから、君がこの大学に入って、その知識を更に広げていくことにとても興味を持ったと言っていたよ。だから、同じ授業を聞いて、君の研究を間近で見聞きすれば、もっと楽しくなるはずだとも言っていたよ」

「雪がそんなことを」

「彼女は、君についていくことで楽しくなれる、と無意識のまま感じているのではないかな」


雪が子供の頃、時間ができると玄吉の部屋に来て、海の話をしてくれとせがんでいたことを思い出した。時には忙しさにかまけて邪険にしたこともあったが、話を聞いている時の雪の表情はとても柔らかく、素直な視線が眩しかった。そんな表情を見ると、次は何を話してやろうかと考える自分がいたことも思い出された。


【あいつは本当に海が好きなんだなぁ。】


二週間後、玄吉は雪を誘って美ら海水族館にいた。

「おじさん、本当にここが好きだよねぇ。就職できそうなの?」

「ああ、藤原先生に紹介してもらって、とりあえずこれまでに書いた論文をいくつか読んでもらえることになったよ。どう評価されるかは来週、面接をして決めてくれるそうだ」

「受かると良いね。ってか、おじさんなら絶対に大丈夫だよ」

「おっ、珍しく褒めてくれているな」

「えー、何言ってんの。私はいつでもおじさんの味方だよ。って、おじさんの話は子供の頃から面白かったし、遠洋漁業の経験もあるし、藤原先生に一目置かれているし、これで採用されなかったら美ら海水族館がおかしいよ」

「おぉ、すごいなぁ」

「あ、そういえば、お前の卒業後の進路だけど、本当に美ら海水族館に入るのか」

「ん、そうだよ、それが何か?」

「お前、水産高校と海洋大学、それに藤原研究室で学んだことを研究者として活かしていかないのか」

「え、水族館で活かしていくよ」

「水族館はあくまでも主体は客だぞ。客に海の生態系を知ってもらう場所だから、一研究者としてできることは限定されるぞ。お前は、水族館で何をやりたいんだ?」

「え、おじさんと一緒だよ。子供の笑顔を見る!!それに限る」

「本当にそれでいいのか。藤原研に残れば、未知の領域について研究したり、基礎的なことを追求したりもできるぞ」

「うーん、そりゃ藤原先生は良い人だし、あそこにいれば色んなことが学べるとは思うよ。だけどね、この間、おじさんのやりたいことを聞いた後、子供の頃のことを思い出したんだ。おじさんのところに遊びに行って、海で泳いで、おじさんに海の色んな話を聞いて、頭の中が海のことでいっぱいになって、とっても心地よい気分になったの。ああいった気持ちになれた私はとても幸運だったんだよね、きっと。そう思ったら、多くの子供達に私と同じような気持ちになって欲しいなぁって」

「なんだ、子供の頃と変わっていないのか」

「何その言い方、なんか気に入らないなぁ」

「まあまあ、これからも同じところで働くのなら、仲良くしようじゃないか」

「うーん、なんかしっくりこないけど、、、ま、いっか。それじゃ、ブルーシールで許してあげる」

「え、俺が買うの?」

「当たり前でしょ。人を呼び出したのはおじさんなんだし、ブルーシールだけなんて安いもんじゃない」

「はいはい、わかりました」


二人のいるところから五メートルほど先に、熱帯魚が泳ぐ水槽に顔をくっつけるようにして見ている幼稚園児くらいの男の子がいた。目を輝かせ、横にいる母親らしき女性に身振り手振りを交えて何かを話している。その姿が、十数年前に見た雪の笑顔と重なって見えた。


【こいつはこいつなりに考えていると言うことか。どこまで深く考えているのか少し心配だけど、まあ、近くにいるから何かあったら突っ込んでやれば大丈夫か。】



藤原の紹介もあったが、玄吉が過去に書いた論文は美ら海水族館の箭内館長に十二分にアピールした。箭内は、玄吉を評価し、採用してくれた。就職するや否や、玄吉は沖縄に生息する貝の生態について研究を始めた。自分がこれまで独自に行ってきた研究や、藤原研で得たノウハウを駆使して、研究にのめり込んでいった。そのかたわら、玄吉は周りのメンバーともコミュニケーションを図り、子供達に喜んでもらえるようにするために何をすればいいかについて議論を重ねた。以前の玄吉は、研究にのめり込むと自然と周りと距離を置くような面があったが、水族館での働きぶりは随分と変わっていた。玄吉は研究を続けながら、子供達がどんなことに興味を示し、どんなことで喜ぶのかを常に考えていた。そして、明らかになった貝の生態を子供達に紹介する時のアイデアを、周りのメンバーに伝え、意見を交わした。


「カモジガイって言うのですか、この貝」

「沖縄にずうっと住んでいるけど、見たことないですよ。本当に沖縄の海に生息しているのですか?」

「昼間は岩の陰にいることが多くて、しかも、半分以上、砂に潜り込んでいることが多いから、なかなか姿を見ることがないのさ」

「へー、そうなのですか。これなら子供どころか大人も十分に興味を持つと思いますよ」

「子供達はどうだろう、喜んでくれるかな」

「うーん、確かに珍しさとかはあまりわからないかも知れないですね。でも、大浦さんが考えたクイズを載せたパネルを展示すれば、理解度も上がるし、興味を示してくれそうですね」

「夜行性だし、動きがあるわけでもないから、地味じゃないですかね」

「うん、そこは貝類全般に言えることだから、何か工夫をしないといけないけど、いい案ないかな」

「アニメーションとかどうですか」

「アニメーション?宮崎駿のトトロとかみたいなもの?」

「え、大浦さんがトトロを観る?意外だなぁ」

「そ、そんなことどうでもいいじゃないか。それより、どんなアニメーションをどうやって見せる?」

「例えば、カモジガイの一日、みたいなタイトルをつけて、岩陰にいる時の姿や夜間の行動を、ゆるキャラみたいな形で見せてあげるとか」

「実物の写真を入れておくのはどうですか。で、アニメを観た後に、本物を見ることができるようにしておけば、より分かりやすくなりませんかね」

「いいね、それ。で、アニメは誰が書くの?」

「え、そりゃあ大浦さんに決まっているじゃないですか」

「えぇ、俺にゆるキャラ書けっていうの?そんなの無理だよ。俺、子供の頃から絵を描くのが下手だから、勘弁してよぉー」

「あはは、貝のことに関しては滅茶苦茶詳しい大浦さんにも弱点があったのですね」


カモジガイやタイワンキサゴと言った沖縄県民もあまり知らない貝を集めて展示したコーナーは、子供達だけでなく、大人も含めた多くの来館者に大好評だった。玄吉は忙しい研究の合間を縫って、頻繁に現場を見て回った。そして、熱心に見学している子供を見つけては声を掛けた。ぶっきらぼうな物言いに最初は警戒の色を見せるが、気になっていることを丁寧に説明することで子供達はすぐに打ち解けた。そして、一旦、打ち解けた後は次から次へと質問が発せられ、それにつられて隣の子供が話に加わり、いつしか、玄吉の周りに人だかりができることもしばしばだった。


「おじさん、私にも教えて」

「ん、なんだ雪じゃないか」

「あら、なんだはないんじゃない」

「悪い、そんなつもりはないよ。で、また勉強サボって遊びに来たのか?」

「ひどーい、箭内館長から忙しそうにしてるって聞いたから差し入れ持ってねぎらいに来たのに」

「そりゃ悪かった」


「おじちゃん、この貝、何で海の中で苦しくならないの。僕、プールで沈むとすぐに苦しくなっちゃうよ」


何とも微笑ましい質問に真剣に答える玄吉の横顔は、雪が幼い頃に見ていたそれと同じだった。雪はこっそりとその場を離れ、箭内が待つ部屋へと向かった。


「海藤さん、先日のお話だけど、やはり今の美ら海水族館では、研究員の増員は難しいです」

「そうですか」

「水族館は来館される方に喜んでもらい、海について色々と知ってもらうところです。その為に、常に一歩先を行かなければいけないところもありますが、その前に、飼育している生き物達を、日々、元気に過ごさせることが一番重要だと私は思っています。その為には優秀な飼育員を数多く育てていかなければいけないとも考えています」

「ですが、優秀な飼育員になるには、常に新しい知識の習得も大事なのではないですか」

「仰る通りです。ですから、大浦くんのように飼育員達にどんどんと自分のノウハウを展開してくれる研究員はとても貴重です」

「それならそういった研究員を増員することで更に飼育員の育成を後押しすることもできるのではないですか」

「そうですね。藤原先生のお話だと貴女もとても優秀だと聞いています。ですから研究員としてお迎えすれば、美ら海水族館に大きく貢献してくれるでしょう」

「それなら」


正面から一点の曇りもない視線を向けてくる雪を見て、箭内はしばし考えた。そして、徐に言葉を繋いだ。


「正直に言いますね。少し厳しいことですが、貴女ならわかっていただけると思います。この美ら海水族館で研究員として働くには、貴女はまだ若すぎます。藤原先生のところで学んだとは言え、研究者として必要な知識はまだまだたくさんあります。それと、大浦さんと比べる訳ではありませんが、研究者としての経験もまだこれからです」

「それは確かにそうです。ただ、私は叔父のように、周りに喜んでもらえるような研究者になりたいんです。足りない知識や経験は、プライベートな時間を使ってでも増やしていきます。なんとかならないでしょうか」

「まあまあ、私の話を最後まで聞いてください」

「あ、はい」

「どうです、研究だけの生活ではなく、生き物達に対峙しながら勉強してみませんか」

「えっ」

「飼育員として美ら海水族館に入って頑張ってみませんか。そして、生き物達に接しながら、水族館にとって必要な研究が何なのかを学んでみませんか」

「それは、どう言うことでしょうか」

「私は研究者と言うのはその対象が大好きじゃないといけないと思うのです。まあ、大抵の研究者は結果的にそうなっていますしね。ところで、貴女はこの美ら海水族館にいる生き物達の中でどれが一番好きですか?」

「うーん、一番ですか、難しいです。貝のことは小さい頃から叔父に話を聞いて育ったのでとても愛着がありますし、美ら海の象徴の一つの甚平鮫も愛くるしくて大好きですし、他にもいっぱいあり過ぎて」

「あはは、そんな風に言ってくれるととても嬉しいですよ。そんな貴女にはもっともっと美ら海の生き物達のことを知って欲しいですね。研究はそれからでもいいのではないですか」

「最初は飼育員として色々な生き物について学ぶと言うことですか」

「そうです。そうやって研究対象を絞り込んでからでも全然遅くないと思いますよ。いや、そうやって視野を広くすることが貴女にとっていいことだと私は思いますね」

「それは、いえ、飼育員としての仕事はどれくらいの期間になるんですか」

「それは貴女次第ですよ」


箭内が見せた笑みはとても優しいものだった。雪は箭内が自分のことをしっかりと受け止めてくれていることを感じた。


「はい。箭内館長の仰ること、よくわかりました。私、美ら海水族館の飼育員を目指してみます」

「そうですか、ありがとう。海藤さんが来られるのをお待ちしていますよ」

「はい。入社試験でふるい落とされないよう、頑張ります」


美ら海水族館は沖縄では人気の就職先だった。雪のように海洋大学から来る者もいれば、美ら海に魅了されて本土から希望して来る者もいた。雪はこれまでに学んできたことを改めて振り返った。そして、美ら海水族館にいる生き物達についてどれくらい知っているのか調べていった。すると、当然ではあるが、知らないことの方が圧倒的に多いことに気付き、愕然とした。


「おじさん、私、美ら海水族館の飼育員になる」

「ん、なんだ、唐突に」

「藤原先生に紹介してもらって、美ら海の箭内館長に会ってきたの。そして、研究員として雇ってくれってお願いしたの」

「あはは、雪らしいな。で、雇ってくれそうか?」

「ううん、研究員枠はないから飼育員として頑張れって。研究員は、そこで経験を積んでからでも遅くないって」

「ふーん、あの人らしいな」

「おじさんはどう思う?やっぱり経験があった方がいいのかな」

「他の水族館のことはわからないけど、美ら海水族館には稀少価値のある生物もいるし、何より、飼育員達の意識が高いから気付かされることが沢山あるよ」

「へぇ、おじさんでもそうなんだ」

「そもそも雪は美ら海水族館で何をするか決めたのか」

「え、それはおじさんの研究を手伝って、、、」

「それはこの道に向かうきっかけだろ。そうじゃなくて、今、そしてこの先、美ら海水族館のどんなことに貢献していきたいのか、だよ」

「そ、それは、、、」

「箭内館長はお前のそんなところに気付いていたのかも知れないな」

「そうだね。飼育員のこと、箭内館長に言われて納得はしたんだけど、どうにもしっくりこない面もあったんだよね。だから、自分がどれくらい美ら海水族館の生き物達のことを知ってるか調べてみたの」

「うん、で、知らないことが山のように、だろ」

「え、何でわかるの?」

「そんなの、改めて考えなくてもわかるさ。美ら海水族館に何種類の生き物がいると思っているんだよ。来館者に見せているものだけでおおよそ五百種類、研究対象や、保護しているものを含めると七百種類を超えるんだぞ」

「え、そんなに」

「独学とは言え、長年研究してきた俺だって知らない生き物が数多くいる。お前が知らない生き物は、少なくても二桁、下手したら三桁までいくかも知れないな」

「はは、流石我が叔父上。正にその通りなのよねぇ。こんなんで研究員にしてくれなんて、よく言ったよなぁ。穴があったら入りたい気分よ」

「あはは、すっかりしょげかえっちゃって雪らしくないな」

「もう、茶化さないでよ。こっちは真剣に落ち込んでるんだから」

「でも、箭内館長は飼育員で頑張れって言ってくれたのだろ?それって雪のことを認めたからだぞ。落ち込んでいる暇があったら、知らない生き物のひとつでも覚えるのが先じゃないのか」

「わかってるわよ、そんなこと。ただ、ちょっとだけ確認しておこうと思っただけよ」


照れ隠しに怒ったふりをして帰っていく雪の後ろ姿をみながら、玄吉は、雪が研究員として独り立ちする姿を思い浮かべていた。


雪はそれまで以上に海洋生物のことを調べるようになった。藤原研での研究テーマは貝の生態だったが、時間を見つけては他の生物の資料や文献を読み漁った。そして、わからないことや気になることがあると、関連する論文を探し、藤原や玄吉に聞きまくった。四年生になった雪は一日の大半を藤原研の部屋で過ごすことが多くなった。


「海藤、お前、毎日何時間もここにいるけど、デートしたりみんなと遊びに行ったりしているか」

「先生、何言ってんですか。そんな暇、あるわけないじゃないですか。卒研はあるし、他にも調べなければいけないことが沢山あるし、バイトもやってるんですよ」

「そうだったな。そう言えば、漁協のアルバイト、どうだ?」

「とっても楽しいです。仕事は重労働ですけど、漁師のみなさんが、珍しい魚が獲れると見せてくれるんです。沖縄の海にこんなのがいるんだ、というのがちょくちょく上がってくるものですから、最初は驚いてばかりでした」

「ほお、そりゃ面白そうだな」

「以前は結構捨てていたみたいなんです。売れないし、食べられないとなると漁師さん達にとっては荷物になるだけですからね」

「まあ、確かにそうだよな。ダイオウイカみたいにマスコミが取り上げるなら話題になって世間にアピールできるけど、名もない、地味な魚が獲れても何らメリットないからな」

「でも、最初の日にたまたまインガンダルマが獲れて、私がギャーギャー騒いでいたのが漁師さん達に受けたみたいなんです。それからは、大学から来た女の子の反応が面白いからって持ってきてくれるようになったんです。失礼ですよね、面白いなんて」

「いや、何となくわかるな、漁師さん達の気持ち」

「え、先生までそんなこと言うんですか、ひどいなぁ」

「でもいいじゃないか。そうやって稀少な生き物を間近に観察できるのだから」

「そうなんです。その点は本当に漁師さん達に感謝です。やっぱり文献で見るのと実物とじゃ比べものにならないですからね。とてもいい経験をさせてもらっています」

「そうか、それなら美ら海水族館も一発で採用だな」

「うーん、そればかりは何とも言えないです。今年は例年になく採用枠が少ないようですし。それに、応募してくる学生はみんな美ら海が大好きで、ほとんどの子が具体的にやりたいことが決まっているみたいなんです」

「やりたいこと?」

「ええ、海豚の調教をしたいとか、甚平鮫の飼育をしたいとか」

「お前だって多くの生き物の世話をしていずれは研究員になると決めているじゃないか」

「ええ、それはそうなんですが。。。特定の生き物に特別な思い入れがあるわけではないので、もしかして、ちょっと弱いかな、なんて思ったりもするんですよ」

「ふーん、海藤らしくない弱気だな」

「あれ、先生、それどういう意味ですか。何だか私がいつも強気な女みたいに聞こえるんですけど」

「あはは、悪気はないよ。いつも物事を前向きに捉えるお前が珍しく弱気だなと思っただけだよ。まあ、いつも強気と言うのも、当たらずも遠からず、、、かな」

「先生!」

「ああ、すまん、すまん。でもな、海藤、他の学生のことなんて考えなくていいじゃないか。彼らと直接戦うわけでもないし」

「それはそうなんですが、でも、採用枠がある以上、比較はされますよね」

「それだって、勝負する土俵が違うのだから、あくまでも個々人のポテンシャルがどれだけ相手に伝わったかという結果に過ぎないじゃないか」

「ポテンシャルですか」


雪が自分のポテンシャルについて考え始めると、藤原がさらに話を続けた。


「お前は美ら海で何をしたいのか、お前なら何ができるのか。そういったことをきちんと相手が納得するように伝えることが重要なんじゃないか」

「私が何をしたいか、何ができるか、ですか。叔父にも同じようなことを言われました」

「何だ、それなら俺が知ったか振りで話すこともなかったか」

「いえ、何だかモヤモヤが取れたような気がします。ありがとうございます。うーん、たまには遊びに行こうかなぁ」

「おい、リラックスは構わんけど、気は抜くよな。大浦は他にも何か言ってなかったか?」

「あっ」

「どうした?」

「いえ、お前はまだまだ美ら海水族館にいる生き物のことを知らな過ぎる。ひとつでも多くの知識を身につけろ、と」

「流石大浦だな。姪っ子が道を踏み外さぬよう、きちんとアドバイスをして。で、その姪っ子はどうするって?」

「んもう、先生まで叔父と一緒になって責めないで下さいよ。ちゃんと勉強しますよ」


玄吉や藤原の後押しもあり雪は最後まで頑張った。そして四月、晴れて美ら海水族館の一員として、飼育員としてのスタートを切った。


飼育員の生活はとても忙しかった。一ヶ月の研修期間が終わると先輩飼育員について補佐的な仕事をするのだが、朝早くから夜遅くまで、二十四時間体制で他のメンバーと交代しながら対応する必要があった。相手が生き物なので当然といえば当然だし、頭ではわかっているつもりでいたが、実際にやってみると予想以上にきつかった。唯一助かったのは、実家から通えたことだった。疲労困憊で家に辿り着き、食事もそこそこに寝入ることで翌日も働ける状況は、とてもありがたかった。飼育員の中には寮やアパートで一人暮らしをしている者もいたが、自分にはとてもできそうにないと感じる雪だった。


そんな忙しい日々ではあったが、仕事はとても面白かった。水族館に入るまでに一生懸命になって覚えた知識のお陰で、目の前の生き物達が、より身近に感じられた。そして、生きている彼らは、人間と同じように体調のいい時もあればそうでない時もある。そういう時に、先輩飼育員に教わりながら、時には自分で調べて、どのように対応していくのかを考え、実践することにとてもやり甲斐を感じた。


半年ほどの慌ただしい時が過ぎ、現場での仕事にも慣れてきた頃、雪は、たまに時間が取れると玄吉のところに顔を出すようになった。


「何だ、また来たのか。仕事サボるなよ」

「あ、失礼ね。今日は早番だからもう仕事は終わったわよ」

「ふーん、そうか。あ、おい、そこの棚にある薬、そっちのキルンにやってくれ」

「え、何、その言いよう。私はおじさんの助手じゃないわよ」

「そんなことどうでもいいよ。早くやってくれ」

「んもう、しょうがないなぁ。そんなんだからお嫁さんのひとりも来てくれないのよ」


ブツブツ言いながらも楽しそうに仕事を手伝う雪を見て、玄吉が唐突に言った。


「俺、今度結婚することになった」

「え、何、今、なんて言った?結婚?え、おじさんが?えー、誰と、いつ?」

「おいおい、そんなに騒ぐな。落ち着け」

「落ち着けって、大体、彼女がいるなんて聞いてないわよ。相手は誰なの?もしかしてお見合い?与那嶺のおばさん、お見合い勧めるの好きだからなぁ」

「勝手に話を作るなよ。そうじゃないよ。相手はお前も知っている人だよ」

「え、ということは美ら海の人?川島さん?あ、もしかして美和さん?うーん、二人とも彼氏いるようなこと言ってたような、、、。で、誰なの?」

「お前、何かすごく興奮していないか。ま、いっか、川村さんだよ、経理の」

「えー、川村さん?えー、勿体無い」

「何だよ、その勿体無いって」

「え、だって川村さん、若いし、可愛いし、何でおじさんなんかと」

「なんかで悪かったな。そんなこと言うならもう帰れ」

「あはは、ごめん。悪気はないんだけど、あまりにびっくりしたもんだから」


勝手にコーヒーを入れて一息ついた雪は改めて玄吉に聞いた。


「で、いつ結婚するの?」

「ん、来月」

「え、えぇ、来月?」

「お前、声でかい」

「ああ、ごめん。ってか、来月って式場とか決まってるの?」

「いや、特にそういう形式的なことやらないから」

「えー、結婚式しないの?川村さん、それでいいって言ってるの?」

「ああ。ほら、俺もこんな歳だし、今更だからそういうことしなくていいかな、って言ったら、いいよって」

「え、それ無理してるんじゃない?川村さん、確かに三十過ぎてるけど初婚でしょう?だったら結婚式したいはずだよ。おじさんが変な言い方するからあわせてくれてるんじゃないの?」

「え、そうなのか?俺、どうしたらいい?」

「どうしたらって、、、あはは、おじさんらしい、と言うか、らしくないのかな、、あはは、、、」

「おい、雪、笑ってないで何とかしろよ」

「何言ってるの、そんなの自分で考えなさいよ。兎に角、女の子が結婚式しなくていいなんてことは、余程のことがない限りあり得ないんだから。これだけは覚えておいてね、お・じ・さ・ん」


三人の休みが重なった三日後、雪と玄吉と川村はファミレスで昼食を取ることにした。


「あはは、玄吉さんも雪ちゃんには頭が上がらないのね」

「恵美子さん、本当に結婚式挙げなくていいの?おじさんの我儘なんて言うこと聞かなくていいわよ」

「おい、雪」

「おじさんは黙ってて。自分じゃ言えないからって私を呼んだくせに」

「雪ちゃん、面白過ぎ。でも、勘弁してあげて。雪ちゃんも知っている様に、こんな人だから、玄吉さん」

「でも、結婚式って一生に一度だよ」

「そうだね。でもね、自分でも不思議だけど、何が何でも式を挙げたいという気持ちにならないのよ。それよりも、玄吉さんや私の親しい人達が喜んでくれればそれでいいかな、って」

「ふーん、そうなんだ。恵美子さんがそう言うのなら私はもう言うことがないけど」

「ありがとね、雪ちゃん。これからもよろしくね」

「恵美子さん、こちらこそよろしくお願いします。おじさんが変なこと言ったり、変な行動を取ったらすぐに言ってくださいね。おじさんのことは、多分、親戚の中でも一番詳しいですから」

「おい、雪、何で俺が変なこと言ったりやったりするのさ」

「あら、恵美子さんの気持ちも考えずに結婚式を挙げないと言ったのは誰だったかしら」

「…」

「あはは、面白い。玄吉さんと雪ちゃんって、本当に兄妹みたい」


一ヶ月後、玄吉と恵美子は一つの家庭を築いた。玄吉、五十二歳、恵美子、三十一歳、二十一の歳の差は、周りから様々な反応があった。多くは肯定的なものであり、特に玄吉の周りの男性陣からは羨望ややっかみの声が数多く挙がった。一方、あまり大っぴらには言われなかったものの、恵美子の親族からは年齢差を危惧する声がちらほらと囁かれていた。しかし、恵美子はそんな声を軽く聞き流し、歳の差を感じさせない日々を過ごしていた。


結婚式や形式的な披露宴は行わない二人だったが、親族と近しい人達を招いて、レストランで簡単なパーティを行うことにした。そのことを藤原に伝えるべく、玄吉は海洋大学を訪れた。


「大浦くん、いよいよ来週だな。準備は大丈夫かい」

「ええ、準備と言っても当日はレストランのスタッフと雪がほぼやってくれますし、新居に引っ越すわけでもないですから、思ったほどやることはないですよ」

「それでも歳の離れた娘さんを迎えるから、周りから色々と言われて大変なんじゃないのかい」

「確かにそれはありますね。口の悪い奴なんか、恵美子に向かって【恵美子さん、引き返すなら今のうちだよ。こいつは老い先短いから】とか平気で言うし」

「あはは、みんな羨ましいのさ。君と同世代の男から見れば、まずあり得ない縁だからね」

「そうですかねぇ、たまたま少し歳が離れているだけなのに、何をそんなに騒ぐのか、俺にはその感覚がよくわかりませんよ」

「はは、君らしいねぇ。そんなこと言うと、余計に色々と言われるぞ」

「先生にもそんな気持ちがあるのですか」

「うちは同い歳だからねぇ、私が君の歳の頃に二回りも下の奥さんをもらうことなんて想像もつかないなぁ。だけど、色々と楽しみではあるかな」

「先生、そんなこと言っていいのですか?」

「あはは、あくまでこの場限りの戯言だよ」


入籍を三日後に控えた恵美子は、夕食を取った後、母親とお茶を飲みながらのんびりとテレビを見ていた。


「恵美子、子供はどうするんだい」

「母さん、どうするってどういうこと?」

「いや、ほら、玄吉さんの歳、今年、五十二歳だろ。仮に来年、子供ができたとして、成人する頃には七十歳をすぎちゃうし、心配じゃないのかい」

「もしかして、あの人が早くに亡くなるとかを気にしているの?」

「ん、それも含めて色々とね」

「まあ、確かにその可能性は否めないよね。でも、そんなこと誰にでもあり得ることだし、いちいち気にしていたら誰も子供なんて育てられないじゃない」

「まあ、そうなんだけどね。もしもの時に困るのは恵美子だからね。親戚の中には露骨に言う人も居るし・・・」

「あ、和田のおばさんでしょ。あの人ならそういうこと言いそう」

「誰が言ったかなんてどうでもいいよ。それより、あたし達は恵美子と生まれてくる子供のことが気になるってこと」

「ありがとう、母さん。私も不安がないと言ったら嘘になるよ。だけどね、母さん、あの人が水族館にやってくる子供達の相手をしている時の表情を見るとね、大丈夫っていう気になるの。子供と話しているところなんて、とても五十二歳とは思えないから」

「確かにそう言うところあるね。いつだったか、玄吉さんがうちに来た時、たまたま千春が遊びに来ていて、しばらく相手をしてもらったことがあったよね。あの時の雰囲気は大人と子供じゃなくて、子供同士が遊んでいる感じだったものね」

「そうそう、水族館でもそんな感じなの」

「それはそれで大丈夫なのって、違う心配もあるけどね」

「あはは、確かにそうだね。でも、水族館の一番大事なお客様は子供達だから、適任だと思うよ」


翌日、居住まいを正し、厳粛な顔つきで恵美子に対峙する玄吉。最初の一言を発するまで、どう話そうか悩んでいたが、話し始めたら流れるように言葉が続いた。


「恵美子、本当に俺でいいのか」

「何、急にどうしたの」

「いや、このところあちこちで俺達の歳の差について色々と言われるだろ。何度も言われると流石に気になると言うか・・・」

「やだ、もう、そんなこと本気で受け止めていたの」

「まあ、俺の周りにいる連中の言うことはあまり気にしてはいなかったけど、将来のこととか言われると気になってきてね」

「昨日、お母さんに言われたわよ。子供が成長する頃、玄吉さんは七十歳を過ぎるけど大丈夫なのかって」

「え、それで何て答えたんだい」

「そんな心配しなくて大丈夫よ。先のことなんて誰にもわからないし、何かあるかも知れないのは玄吉さんだけじゃなく、全ての人に言えることだから、気にしたって詮無いことでしょ、って返したわよ」

「そうだよな」

「それに・・・」

「それに?」

「ううん、何でもない」

「何だよ、気になるなぁ」

「子供とか言われても、まだ生まれてきてもいないのに、お母さんも気が早いなって思っただけ」

「そうだよな」


【あなたが子供と対峙している時、あなたも子供みたい、なんて言ったらどんな顔するのかなぁ、、、いつか言ってみようかな・・・】


「玄吉さん」

「はい」

「もしかして、私と一緒に暮らしていく自信がないとか思っているの?」

「いやいや、そんなことはないよ。俺は頑張って恵美子を・・・」

「私を?」

「いや、一緒に暮らしていくよ」

「ん、何だか怪しいね。ま、いっか」


【幸せにするなんて照れ臭くてなかなか言えないよなぁ・・・】


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