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第二章 海へ

玄吉が家を出てから三年、雪は高校受験の季節を迎えていた。村から通える範囲にある高校に行くか、それとも那覇にある寮のある高校を受験するか迷っていた。そんな折、唐突に玄吉から手紙が届いた。差出人が【海豚】となっていたので母親が気味悪がったが、雪は友達の渾名だと嘘をついた。雪は知っていた。玄吉が貝と同じくらい【イルカ】が大好きだったことを。手紙には玄吉が海洋船に乗って元気にやっていることが書かれていた。


【俺が独力でやっていた貝の研究をオーストラリアの大学教授がやっていることは知っていた。ただ、俺が結論付ける前に先を越されてしまった。しかも、知人から聞いた話では大学関係者が自分の持っていた貴重なデータをその教授に売り渡していたことがわかった。信頼していた関係者に裏切られて、目標も失って、何もかもが嫌になってしまって家を出たんだ。ただ、家を出てふらふらしてみたものの、何をやっても面白くない。そうこうしているうちに、気がつくと、いつの間にか大好きな海に戻ってしまった、ってとこかな。これから先どうするかわからないが、当面は船に乗って過ごすつもりだ。雪にだけはそのことを告げておきたいと思い、船が奄美大島に立ち寄った際にこの手紙を投函することにしたよ。雪、やっぱり海はいいな。】


くしゃくしゃになった手紙にはおじの元気な姿が映っているようだった。


雪は玄吉の手紙を読んで、悩んでいた進路を決めた。那覇にある水産学校を受験することにした。


小学校の頃にはプロゴルファーになりたい気持ちが強かった。ただ、怪我をしてプロゴルファーを諦めざるを得なかった。それでも、夢中になってクラブを振っていたあの感覚をもう一度味わってみたい気持ちが心の底に残っていた。一方、幼い頃から、海を感じている時の心の落ち着きや、玄吉から聞く世界中の海の話しにワクワクした気持ちは、今でもハッキリと心の中に棲みついている。その海への想いは玄吉と離れてからより強くなっていき、いつしか、将来海に関係する職業に就くものだと考える様になっていた。


小さな頃から慣れ親しんだ海。おじがいなくなってからは避けるようにしていたが本当は海で遊びたかった。しかし一方では、玄吉がいなくなったことがいつまでも頭の中から消えず、進路の選択肢に海に関係するところを入れることには躊躇していた。玄吉から届いた手紙は、そんな雪の気持ちに踏ん切りをつけるには十分すぎるものだった。玄吉が元気にしていること、しかも大好きな海に出ていることがわかったいま、躊躇することは何もなくなった。水産学校のことを話す雪のことを、母は呆れ顔で見返した。


「うーん、玄吉がいなくなったから普通科に行くもんだとばかり思っていたのだけど、やっぱりそっちを選んだのね。血は争えないのかしら・・・」


父親に反対されるかもしれないと思ったが、雪の知らない所で母が後押しをしてくれた。寮生活をするにあたりいくつか約束をさせられたものの、頑張って来い、の一言が嬉しかった。水産学校の試験を間近に控えたある日、雪は久し振りに玄吉の住んでいた家に行ってみた。荒れ果て、ぼろぼろになってはいたが、そこから見える海は昔のままだった。車の通りが少ないこともあって波の音が良く聞こえた。


【何で自分は海が好きなんだろう。おじさんはなんで海が好きなんだろう。】

【おじさんの研究ってどんなのだったんだろう。貝の研究って書いてあったけど沖縄の海に棲む貝なのかな。】

【そういえばおじさんが食べさせてくれた貝はいつも美味しかったな。お母さんが作ってくれるのも美味しいんだけど、おじさんのは美味しいだけでなく心が弾むような味だったな。今頃どの辺りにいるのかな。】


家の脇にあった石の上に座り、雪は久し振りに海を満喫していた。まるで、この数年間の空白を埋めるかの様に、ゆっくりと、穏やかに、時が流れていくのを楽しんでいた。


受験を難なくクリアした雪は、四月から那覇にある高校の寮での生活を始めた。初めてのひとり暮らしだったが、寮にいる同級生ともすぐに仲良くなり、寮母も優しい感じの人だったため寂しさを感じることはほとんどなかった。そもそも、勉強の量が中学に比べて半端じゃないほど多く、寂しさを感じている暇がないということもあった。


入学して二ヶ月、早くも暑い季節を迎えた頃、寮でちょっとした事件が起きた。同級生の朱里がコンビニで万引きをして店員に見つかったのである。担任教師が呼ばれて店に出向くと、しょげ返った朱里が店長の前で俯いたまま椅子に座っていた。盗んだものは缶ビール一本と泡盛の小瓶。店長や教師が問い詰めても何故盗んだのかは言わず、涙声で【ごめんなさい、もうしません】と謝るだけだった。十分に反省している様を見た店側の好意で警察には通報されなくて済んだ。教師に連れられて寮に帰る朱里は、帰り道、一言も口を開かなかった。


三日間の謹慎が解けた翌日、雪は学校帰りに寮とは違う方向に向かう朱里を見かけた。ついて行くつもりはなかったが、反射的に足が後を追っていた。朱里はファミレスで髪の毛を金色に染めた上級生に会っていた。その上級生は、訳知り顔で話す同級生によると、この三月に卒業するはずだったが素行不良で留年して今年も三年生であり、ほとんど学校にも来ていないとのことだった。


【そんな不良生徒と朱里がなぜ?】


朱里は背も高く顔の作りも整っていてぱっと見は派手そうに見える。ただ、性格はまじめでおとなしい女の子だ。しかも超がつくほどの初心だった。いつだったか、朱里が憧れている先輩の話をした時、すぐに頬を上気させてモジモジしていた姿が雪の脳裏に浮かんできた。そんな朱里が不良の先輩と仲良くなるとはちょっと考えにくかった。


【きっと何かある】


雪は意を決して店の中に入っていった。


「朱里」

「ゆ、雪ちゃん、どうしたの?」

「ん、朱里がこのお店に入るのを見かけたから一緒にお茶でもしようかなと思って入ってきちゃった」

「朱里、誰だこいつ」

「う、うん、同級生の雪ちゃん」


二人のやりとりを見た雪は、朱里が嫌々ながらこの場にきたであろうことを確信した。


「朱里、そう言えば寮母さんが頼みたいことがあるから早目に帰ってきてくれって言ってたよ。用事も済んだ様だし、帰ろう」

「おい、こっちの要件はまだだぞ」

「ふーん、それじゃ、朱里、用事が済むまで私もここにいるね」

「お前には関係ない。とっとと消えろ」

「あら、私がいたら何か都合の悪いことでもあるんですか」


暫くの間、睨み合う二人の横で朱里は生きた心地がしなかった。


「ちっ、ったく、面倒くせえ奴だな。おい、朱里、今日は許してやるが、明日までにきちんと持ってこいよ」

「先輩、朱里をいじめないで下さい」

「え、雪ちゃん、、、」

「何のことだ」

「朱里に無理な要求をしないであげて下さい」

「朱里、お前、こいつに何か喋ったのか」

「え、私は別に何も、、、」

「朱里は何も言ってません。だけど、真面目で大人しい朱里が万引きをしたり、さっきも明日までに持ってこいとか、先輩が朱里に何か言ってるんですよね。そういうのやめてもらえませんか」

「何だと、このやろう」


再び睨み合う二人。朱里はその場の雰囲気に耐え切れず、目を瞑って下を向いた。ところが、その数秒後、朱里の予想とは異なる笑い声が聞こえてきた。


「ふふ、変な奴だな、お前」

「えっ」

「もういいや、面倒くせえ」

「えっ」

「朱里、お前、変なダチ連れてるな」

「えっ」

「貴重だぞ、こういう天然記念物みたいな奴」


そう言い残すと先輩は店を出て行った。


「ふー、怖かったぁ」


ゴクゴクと喉を鳴らしてコップの水を一気に飲む雪のことを、呆然とした朱里が見つめていた。朱里はすぐに事態を理解できなかったが、問題が解決したであろうことが徐々にわかってくると、安堵のあまり、涙が溢れ、嗚咽を漏らし始めた。


「雪ちゃん、、、うっ、うっ、うっ、、、」

「朱里、大丈夫?」

「う、うん、大丈夫。あ、あと、ありがとう」

「ううん、それより勝手にあんなこと言っちゃったけど、大丈夫なの」

「うん、多分これで終わると思う。茜先輩、あんな風を装っているけど、幼馴染だし、わかってくれると思う」

「ああ、でも本当に怖かったぁ、ほら震えがまだ止まらないよぉー」


寮への帰り道、ぽつりぽつりと朱里が事情を説明した。


「茜先輩とは小学校の頃、とても仲が良かったの。三歳離れているから中学校の頃はほとんど会わなかったけど、この高校に入って再会したら、いつの間にかあんな感じになっていて」

「それで脅されたの?」

「うん、最初はお金を少し貸してくれって言われて、私も懐かしさもあったし貸したのだけど、それがどんどんエスカレートしていって、、、」

「それで万引き?」

「うん、どうしても断れなくて、、、」

「早く言ってくれれば良かったのに」

「うん、ごめんね。でも、雪ちゃんに言うと茜先輩が雪ちゃんにまで迷惑掛けるかも知れないと思ったら言えなかった」

「そうだね。私も今日は勢いであんなこと言えたけど、不意打ちのラッキーパンチみたいなもんだからたまたま上手く行っただけだしね」

「え、そんなことないよ。堂々としていたよ」

「え、それって私も怖いってこと?」

「あはは、そうかも」

「酷ーい。朱里なんて嫌いだぁ」

「あはは、うそうそ、冗談だって」


水産学校では船に乗って海上で行う授業がある。事故が起きないように万全の体制で行われるが、凪いで安全な日にはわざと海に落とされることもあると、先輩に散々脅かされていた。期待と不安の入り混じる中で行われた最初の授業では、予想以上に荒れる海で船酔いする生徒が続出した。雪も大きく揺れる甲板の上を右に左にフラフラしながら立っているのがやっとだった。そんな中、けろりとした顔で舳先を睨む生徒がいた。宮里崇宏、祖父が漁師をやっていて子供の頃から船に乗せてもらっていたことを知ったのは船を降りてからだった。普段は無口でどちらかというと地味な印象の男子生徒で、雪もそれまではほとんど会話らしきものを交わした記憶がなかった。


「おい、海藤、きちんと掴まってないと海に放り出されるぞ」

「大丈夫だよ、私、バランス取るの得意だし、泳ぎも小さい頃から海で泳いで得意だから」

「馬鹿、これだけ荒れた海に放り込まれたら、いくら泳ぎが得意でも海中に沈んであっという間にお陀仏だぞ」

「馬鹿って、、、」

「それに、お前が倒れて怪我をしたり、海に放り込まれたりしたら、この船に乗っているみんなが迷惑する。この学校の生徒ならそれくらいわかるだろう」

「それはそうだけど、、、」


崇宏の言葉に返す言葉を失った雪は、吹き殴る海風に掴みかからんばかりのその表情を食い入るように見つめた。ぶっきらぼうで愛想のないその表情は、南の国の漁師というよりも北国のそれに近いなと雪は思った。


夏休み、東村の実家に帰っていた雪に朱里から連絡が入った。友達の父親がクルーザーを持っていてクルージングに誘われたが、一人じゃ行きにくいから一緒に行って欲しいとのことだった。時間を持て余していたし、クルーザーにも興味があったので行ってみることにした。待ち合わせの場所に行って見ると朱里のほかに同じ学年の子が二人、それと場違いな感じで佇む崇宏がいた。聞いてみると朱里と崇宏の父親同士が知り合いで、父親から頼まれたと朱里が何故か弁解口調で説明した。


早朝に出航したクルーザーは小一時間ほどで慶良間についた。午前中はスキンダイビングを楽しみ、暑くなってきた昼間は島にある別荘で一休みして、夕方、陽が暮れる前に那覇に戻る予定だった。この日は曇りがちだったため、夏の厳しい暑さも若干弱まっていた。その分、遊び回った雪達は帰路につく頃にはくたくたになっていた。デッキで風を浴びていた雪も昼間の疲れが出たのか、頭が少しボーっとして油断した。船が波に跳ねた瞬間、自分でも体が浮くのがわかった。しまった!と思ったが伸ばした手は何も掴めず空を切った、とその時横から何かが抱きつくようにして体を引っ張った。勢い余ってデッキの床に転がるように倒れこんだとき、横に誰かがいるのがわかった、崇宏だった。


「馬鹿野郎!海を甘く見ていると酷い目に遭うぞ!」


きつい一言にむっとした雪は、怒ってそのまま船室に入ってしまった。ただ、少しして気持ちが落ち着いてくると、いけないのは自分であり崇宏には感謝しなければと思い始めた。それでも何となくきっかけを掴めないうちに船は港に着いてしまった。船を降りて途中まで一緒に帰るとき、何も会話をしない雪と崇宏の様子を変に思った朱里は声を潜めて雪に聞いた。


「崇宏と何かあったの?」

「え、ううん、何もないよ。何で?」

「何だかさっきから二人ともギクシャクしているみたいに思えたの」

「あはは、気のせいだよ。朱里の考え過ぎ」

「ふーん、ならいいけど」


交差点に差し掛かり、ようやっと崇宏が声を発した。


「それじゃ、俺、こっちだから」


雪は、スタスタと歩き始めた崇宏を追い掛けた。


「宮里くん、さっきはごめん、それと、ありがとう」

「お、おう。じゃあな」


怒ったような照れたような顔で返事を返すと、崇宏は再び歩き出した。その後ろ姿を見送る雪の横で、朱里がぽかんとした顔で雪と崇宏を交互に見ていた。崇宏が去った後、朱里の家に泊めてもらった雪は朱里からの質問攻めに少しだけ、事実だけを話した。自分でもよくわからない、モヤモヤとした気持ちが心の中にあったが、何となく照れ臭く朱里に伝えることはできなかった。


朱里のベッドの横に用意してもらった布団に入り、電気を消して他愛もない話をしていた。その時、何気なく発した朱里の言葉に雪は聞こえない振りで答えなかったが、暗闇の中でも自分の頬が熱く、赤くなるのがわかった。


「崇宏は雪ちゃんのことが好きなのかも知れないね」


夏休みが終わり二学期になると、授業は更にペースを上げた。船乗りの経験がある崇宏は、端で見ていてもどんどんと吸収して行くのがわかった。一方、小さい頃から玄吉に沢山の海の話を聞いてきた雪は、崇宏に負けるものかと頑張った。そして、そんな二人に置いていかれたくない朱里も必死になってついていった。しばらくすると、崇宏だけでなく、三人は海上での授業を苦もなくこなすようになった。そうこうするうち、いつしか三人がひとつのチームのようになってクラスを引っ張るようになっていた。


高校二年の秋、沖縄近海の貝に関する授業があった。きちんとした知識ではなかったが、玄吉が話してくれたいくつもの貝のことを覚えていた雪は、その授業がとても楽しく感じた。一方で、玄吉が今いるであろう、異国の海に想いを馳せた。中学三年の時にもらった手紙以降、玄吉からの連絡は一度もなかった。


ふと気になった雪は奄美大島に停泊する海洋船舶のことを調べてみた。すると、インド洋までまぐろを取りに行く船が一ヵ月後に寄港することがわかった。他にも寄港する船はあったが雪はこの船が気になってしょうがなかった。何の根拠もなかったが、玄吉がこの船に乗っていることが確信できるように感じた。奄美大島なら土日の二日間で行って帰ってくることができる。


飛行機代が高くつくのは痛いが、貯めておいたお年玉を使えばどうにかなると思った。寮母には家に帰ってくると嘘をついて奄美大島に向かった。島に着く早々、港に行ってみると、お目当てのマグロ船はすぐに見つかった。予想に反して船はかなり小さかった。この船でインド洋まで、荒海の中を航海できるとはちょっとした驚きだった。岸壁から船を見上げたが、船員はほとんど出払っているのか、人影は見当たらなかった。どうしていいかわからず船の側でしばらくうろうろしていたら街のほうから歩いてくる男の姿が見えた。見覚えのある歩き方、遠めでもわかるその歩き方は玄吉だった。


「おじさん!」


驚くでもなく微笑む玄吉がゆっくりと雪の方に歩みを向けた。単なる感だけで来てしまったことを後悔し始めていた雪は、久し振りに間近に近づいてくる玄吉を見て、目を白黒させた。片手を軽く振りながら近づいてくる玄吉。


「おう、どうした、雪。こんなところで何やってるんだ」

「おじさんこそ、こんなところで何やってるのよ」


二人は笑いながら互いの近況について話し始めた。話しながら雪は、奇跡に近い再会が夢の出来事なのではないかと思った。五年の船乗り生活は玄吉の外見を大きく変えていた。陽に焼けた顔、ふた回りは太くなったと思われる腕、胸板も厚くなり雪の知っている玄吉とは随分と印象が変わっていた。食事をしながら、この五年間の間にあったことを語り続けた。


「でも、よくあんな小さい船でインド洋まで行けるよね。うちの練習船と大して変わらないんじゃないかなぁ」

「俺も最初はビックリしたよ。船を見る前に契約しちゃったから、やめるとも言えなかったし」

「あはは、おじさんらしい」

「笑い事じゃないよ。雪も船に乗るようになったからわかるだろうけど、あの船で嵐に遭遇した時の揺れは半端じゃないぞ」

「そうだろうね。私も最初の頃は甲板でフラフラしていてばかりで、同級生に怒鳴られたこともあったよ」

「今はどうだ。雪のことだからその同級生を見返してやろうとか思っているのか」

「あれ、何でわかるの」

「そりゃ、お前には散々苦労させられたからな。お前の考えそうなことは大体わかるようになったよ」

「え、ひどーい。私、そんなにおじさんに迷惑かけたかなぁ」

「迷惑ではなかったけど、いろいろと大変ではあったな」

「あ、でも、確かに言われてみるとそういうところもあったかも」

「何だよ、肯定しちゃうのかよ」

「へへへ」


帰り際、玄吉が船を降りてもう一度貝の勉強をすることを雪に告げた。雪は食事をしながら話していたときからそんな気がしていた。玄吉はこれまで独学で研究をしてきたが、きちんと大学で学び直してから貝の勉強ができる仕事を探すと言った。


「おじさん、私も、その仕事、手伝いたい」


雪の顔を覗き込むように見つめる玄吉は、一旦、口を開きかけたが、しばし思案した後に雪から視線を外した。雪が泊まる民宿までの道すがら、雪は何度も玄吉に想いを伝えた。ただ、玄吉は曖昧に肯定も否定もしなかった。翌日、玄吉は再び洋上の人となった。


翌春、心配していた受験を無事に乗り越えて、玄吉は海洋大学に入学した。クラスでは異色の存在だったが授業には一番熱心で、海豚の研究をしている藤原教授の研究室にも入り浸っていた。藤原の専門は海豚だったが、他の海洋生物、殊更、沖縄の貝に精通していた。研究室に入るのは通常三年生からだったが、玄吉は藤原に直接掛けあい、自分の経歴や以前書いた論文などを見せて特別に出入りを許してもらった。そんな玄吉の行動は、いつしか周りの学生に伝播し、彼らもまた授業にのめり込んでいった。高校三年生になっていた雪は、時々顔を出しては、こっそりと大学の授業を聞いた。時間がある時には、研究室に潜り込んで玄吉の研究を横で眺めたり、そこらにある貝の資料を読んだりもした。その姿は、子供の頃に玄吉の家に出入りしていたのと同じだなと、玄吉は懐かしく感じた。


「玄吉、雪がお前と同じ海洋大学に行きたいって言っているけど、どうなんだい」

「どうって何が?」

「あの子、本当にやりたいことがあるのかねぇ。あたしにはよくわからないけど、あの大学に行ったはいいけど、途中で挫折したらどうなるの?別の道を選ぶことができるのかい」

「うーん、確かにあの大学を出てできることと言ったらある程度限られるわな」

「そんな軽い調子で言うものじゃないよ。あの子はお前のやっていることを追っかけているんだろう」

「ああ、それを言われるとちょっと責任感じるかな」

「あの子は子供の頃からお前に懐いていたからね。何だってこんな偏屈な輩に興味を持つのやら」

「姉ちゃん、その言い方はないだろう。それに、俺だって不思議だよ。何だって俺なんかに懐くのかは」

「あはは、自覚はあるんだ。で、どうなのよ。あの子、お前と同じ大学に行って大丈夫なのかい」

「あいつの性格からしてそれは大丈夫だと思うよ。ただ」

「ただ、何だい」

「あいつが他の選択肢をきちんと考えたのかどうかがわからないんだよね。ほら、あいつ、一度決めると他のことを見向きもせずに進んでいくじゃない、猪みたいに」

「あはは、確かにそうね。その辺はあんたと一緒だよね」

「えー、俺はあいつほどじゃないだろ」

「いーや、あたしから見れば二人とも同じようなものさ。ま、それは良いとして、一度、雪に話してみておくれよ。本当に海洋大学で良いのかどうか」

「そうだな、きっかけ作ったのは俺だしな。わかった、今度、それとなく聞いてみるよ」


進学や将来について聞かれた雪は玄吉に言った。


「おじさんが海洋大学に行って貝の勉強ができる仕事をするって聞いた時は、何となく良いなと思った程度だったよ」

「だけど、その後、大学の授業や藤原研に出入りするようになって、もっともっと海の生き物達を知りたくなったんだ」

「大学を出て、おじさんと同じ仕事をするかどうかはわからないけど、海に関わる仕事をしてみたい気持ちは今の方が強いかも知れない」


玄吉は面映い気持ちで雪の想いを受け止めた。


翌年、海洋大学に進学した雪は、一年前に玄吉が行ったように、授業に集中した。そして、時間が空くと、藤原研究室の扉を開いた。入学して一ヶ月も経つと、教授達の間で名前を知られるようになっていた。


「海藤、お前、大浦の姪っ子なのか」

「あれ、先生、よく知ってますね」

「お前達は、私達の中では有名人だよ。まあ、細かいことは藤原先生から聞いたけどな」

「ああ、そうなんですか。でも、たまたま校内に親戚がいるだけで、そんな珍しくもないんじゃないですか」

「いやいや、海藤の授業への取り組みは、昨年の大浦とソックリで、最初はそこから話題になり始めたよ。二年連続で何だか凄いのが入ってきた、ってな。で、聞いていくと藤原先生のとこにちょくちょく出入りしていたというのがわかったって次第さ」

「あ、先生、勝手に出入りしていたのは内緒にしておいて下さい。藤原先生にご迷惑になっても困りますから」

「そんなことはわかっているさ。それより私達は、君達みたいに熱心に学んでくれることが嬉しいのさ。これからも頑張ってくれよ」

「はい、わかりました。頑張って勉強して、早く、玄吉おじさんに追いつきます」

「おお、すごい鼻息だな。こりゃ大浦もウカウカしてられないな。よし、わかった。それじゃ、宿題を出してあげよう。好きな貝の生態について来週までにレポートを書いてきなさい」

「ええ、来週までですか。参ったなぁ」


雪は三年生になると、迷わず藤原研究室を希望した。入学前から研究室に出入りしていたこともあり、藤原教授や周りの学生とは顔馴染みだった。


「お前、何もここに入らなくてもいいだろう」

「あ、おじさん、そんなこと言うと藤原先生や他の先生方に言っちゃうわよ。おじさんが私のことを邪険にするって!」

「おいおい、そんなこと言ってないだろう。俺は、ただ・・・」

「ただ、何?」

「ん、まあ、いいか」

「えー、何それ、とっても気になるんですけど」

「いや、お前が自分の考えでこの研究室を選んだのかどうか、少し気になったのさ」

「そんなの当たり前じゃない。なんでそんなこと考えたの?」

「ん、ほら、入学前、お前に将来のことを聞いたことがあっただろ。あの時、お前、何て言ったか覚えているか?」

「覚えてるよ。おじさんの仕事を手伝う!!」

「そのことじゃない。俺のことはさておき、海に関わる仕事をしたいと言っただろ」

「へぇ、忘れていなかったんだ。勿論、その気持ちは今も変わっていないよ。だけど、おじさんの仕事を手伝う気持ちも変わっていないんだから」

「へえ、俺は単なる気まぐれだと思っていたよ。それで、今はどうだ?」

「何を今更、そんなこと言ってるのよ。気持ちが変わっていないから藤原先生の元を選んだんじゃない。おじさん、大丈夫?」

「そっか、気持ちは変わっていないのか・・・。そっか、そっか・・・」


玄吉は嬉しいような恥ずかしいような、微妙な表情を浮かべてそのまま研究室の外に行ってしまった。


「何あれ、大丈夫かなぁ、おじさん。勉強のし過ぎでどこかのネジが緩んじゃったのかな・・・」


玄吉は四年間を優秀な成績で修了した。独学とは言え、入学前に既に豊富な知識を身に付けていたので、当然の結果ではあった。四年生になる時、藤原に研究室に残ることを勧められて玄吉は迷った。藤原の海豚だけでなく海洋生物に関する知識の豊富さや、大学に残ることで得られる人脈は、この先の研究に大いに役立つことは明白だった。ただ、玄吉は大学生活の中で自分が本当にやりたいことが、微かに見えてきたような気がしていた。


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