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第一章 夢と挫折

雪は沖縄出身の女子プロゴルファー、宮沢藍が大好きだった。小学校二年生の時、地元の子供達が集うイベントに宮沢藍がゲストに招かれ、子供達と一緒にゲームをやって遊んでくれた。雪がゲームで失敗をして泣きそうになった時、柔かな笑顔を見せつつ雪を応援してくれたのが宮沢藍だった。その時の笑顔が心に沁みた雪は、その後、宮沢藍が出場するゴルフ番組を見るようになった。そして、ゲームの時に見せた表情とはまるっきり違う、その真剣な眼差しに惹かれ、自分もプロゴルファーになりたいと思うようになった。たまたま家の近くに練習場があったこともあり、雪は毎日のように通うようになった。


「雪、今日も来たのか、関心だなぁ」

「だって、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになるためには毎日練習しないとなれないって玄吉おじさんが言うんだもん」

「そっかそっか、それじゃ今日もちょっとだけお手伝いしてくれるかな」

「うん、いつものようにボールを洗っとけばいいんだね」


練習場を経営する与那嶺は、生まれた頃から雪を良く知っていた。だから雪が初めて練習場に来た時、とても嬉しく感じたが、どうせ一二回もやれば飽きるだろうと、それほど気にも留めなかった。一緒に来た母親に、客が忘れていった女性用のクラブ一本とボール購入用のコインを二枚渡して、仕事の合間に様子を伺っていた。ところが、雪は小学校から帰ってくると、すぐに練習場に顔を出した。翌日も、その翌日もやってきて、与那嶺が渡すコイン二枚分のボールを打って帰って行った。そして、一週間ほど経った頃、母親が与那嶺のところにやってきた。


「優さん、いつもすまんねぇ。毎日、雪が来て邪魔をしていないかい」

「いやぁ、雪があんなに熱心にゴルフをするとは思わんかったよ。だけど、必死になってクラブを振っている様子を見ていると、本当にプロになれるかと思えてくるよ」

「あはは、それはないでしょ。そのうち飽きるさ。それよりも、いつもただで打たせてもらってばかりじゃ申し訳ないから、今日はいくらか払っていくよ」

「いいよ、そんなもの」

「だけど、雪にはボールを打つことにお金が掛かることを知ってもらいたいと思って」

「うーん、確かにそれはあるな。それじゃこうしたらどうだ。練習場に来たら、何か簡単なお手伝いをしてもらう。それが終わったらコインを二枚渡す。まあ、まだ小さいから本当に簡単なことしかやらせないけど」

「そんなんでいいの?他のお客さんに迷惑になったりしない?」

「いいって。それで雪がプロゴルファーになったら自慢話にもなるし」

「だから、それはないって」


母親の予想に反し、雪は練習を続けた。土日は他のお客さんが大勢来場するので、母親から平日だけにするように言われていたが、その分、庭での素振りはいつもの倍になっていた。三ヶ月後、雪に思わぬプレゼントが届いた。憧れの宮沢藍が、ジュニア用のクラブを贈ってくれたのだった。毎日、熱心に練習をする雪を見ることが嬉しくなった与那嶺が、感謝の想いを伝えるべく宮沢藍にお礼状を書いたところ、それを読んだ宮沢藍がプレゼントとして、クラブと藍の名前が刻印されたボールを贈ってくれたのである。


「うわぁ、藍ちゃんからだぁ!」


喜びも束の間、まだ幼い雪の心のうちに【やらなければいけない】という、ある種の義務感が生じた。当人はそのことに気付くこともなく、練習にのめり込んでいった。クラブが届いてから三ヶ月、宮沢藍が出場するトーナメントのテレビ放送を食い入るように見つめ、見よう見まねでクラブを振り続けた。最初はクラブにきちんと当たらないことが圧倒的に多かったが、毎日クラブを振り、ボールを打つことで徐々にクラブの芯に当たるようになっていった。


「大分いい球が打てるようになってきたな」

「うん。だけど、なかなか藍ちゃんみたいな球が打てないよ」

「あはは、そうそう簡単に藍ちゃんみたいには打てないよ。彼女は日本はおろか、世界でも戦える選手だからな」

「でも、雪は藍ちゃんみたいになりたいんだもん。こんな、右にギューンって曲がる球はやだよ」

「そうだな、確かにみんなスライス球だな」

「スライス?右に曲がる球のこと?」

「ああ、ボールに横回転が掛かって右に曲がっていっちゃうのさ」

「どうやったら横回転が掛からなくなるの?」

「それは、一言じゃ言えないよ。そんなに直したいなら、今度レッスン受けてみるか?」

「ううん、いい。自分で考えて頑張ってみる」


雪はクラブをもらった時に心に決めたことがあった。

【藍ちゃんみたいになる。だけど、そのために他人を頼ることはしない。自分の力だけでやっていこう。】

幼い少女が何故そんな風に考えたのかは本人にもわからないことだった。ただ、生来、負けず嫌いの気性を持っていたことが少なからず影響しているのは確かだった。


その後も雪はスライス球を打ち続けた。初めてゴルフクラブを握ってから二年が経ってもボールは右に曲がっていった。


「玄吉おじさん、なんで雪が打つボールは右に曲がっちゃうのかなぁ」

「ん、そんなこと知らん」

「あー、冷たいなぁ、その言い方。かわいい姪っ子が悩んでるのに」

「あはは、何がかわいい姪っ子だ。頑固で人の言うことなんて聞かないくせに」

「あー、ひどーい。でもまあ、確かに与那嶺のおじさんに勧められたレッスンも受けてないからなぁ」

「そんなこと気にしなくていいじゃないか。自分が決めたことだろ」

「でも、このままじゃ、藍ちゃんみたいなプロゴルファーになれないよ」

「雪、どんな世界でも努力をしない奴はその道で成功することはないけど、努力だけでは突破できない壁があるのも事実だぞ。って、まだ早すぎるかな、雪には」

「それって才能が必要だってこと?」

「才能もそうだけど、運とか、環境とか、巡り会う人だとか、要は、ひとりではどうしようもないことが沢山あるってことさ」

「ふーん、何だかよくわからないよ」

「雪はゴルフボールを狙ったところに打てるのか?」

「うーん、まあそこそこには打てるよ。たまに曲がり過ぎちゃうこともあるけど」

「小学生でそれだけ打てるのなら大人になって上級者になるのはそれほど難しくないよ。だけど、プロになろうとするなら、これから先、色んなことを模索して、試して、技術を習得しないといけないだろうな。他にも精神も鍛えないといけない。そういったことはひとりではできないってことさ」

「えー、じゃあどうすればいいの?」

「いっぱい考えてみろ。慌てなくていいから、ひとつずつ、しっかりと考えて自分の答えを見つけていけ。わからなかったら周りの人に聞けばいい。でも、答えは自分で決める」

「そんなことできるかなぁ」

「できるさ。現にこれまでお前は大事なことを自分で決めて来たじゃないか」

「そうなのかなぁ。自分じゃよくわからないよ」

「そんな大層なことじゃないさ。これまでは意識していなかっただけで、これからはそのことを少しだけ意識していけばいいさ」


雪は玄吉に言われた通り、一生懸命に考えた。プロゴルファーになるために何をしなければいけないのか、どんなことを身につければいいのか。そして、わからないことは与那嶺に聞き、練習場でレッスンを担当するコーチに聞いた。そして、また考えた。


意識して考えるようになってから一年が過ぎても球は右に曲がっていった。いつも以上に球が右に曲がった翌日、雪は早朝の海に入り、思いっきり泳いだ。そして、泳ぎ終わると玄吉の家に寄り、玄吉が素潜りで取ってきた貝のチャンプルーを食べた。


「何だ、また練習が上手くいかなかったのか」

「そんなことないよ。玄吉おじさんがひとりじゃつまらないだろうから、話し相手になってあげようと思っただけだよ」

「ふーん、俺は別につまらないなんてことはないけどな」

「また、そんなひねくれたことを言うとお母さんにブツブツ言われちゃうよ」

「あはは、確かにそうだな」

「でしょ」


雪の母親と玄吉は少し離れているものの親戚関係にあり、側から見ていると姉弟のようだった。ただ、今は近くに住んでいる割に付き合いはそれほどでもなかった。そんなこともあり、雪は玄吉の歳を正確には知らなかったし、何故独りで暮らしているのかも知らなかった。雪の父親は少し離れたリゾートホテルの従業員として毎日働きに出掛けたが、玄吉はほぼ毎日、家にいるようだった。それでも雪は、何かと言うと玄吉の家を訪れた。たまに玄吉が留守にしている時も勝手に上がりこんで昼寝をしたり、あちこちに散らばっている、海や貝の写真が沢山掲載されている外国の雑誌を眺めたりしていた。そんな雪に対して玄吉は叱るでもなく雪の好きにさせていた。


「おじさん、また海の話聞かせて」

「え、またかよ。もう沢山話してやったからいいだろ」


最初は渋る玄吉だったが、いつものように雪が何度かせがむと仕方ないなといった振りをして、ボソボソと話し始めるのが常だった。玄吉の話は雪が知っている誰の話より何倍も輝いて聴こえた。玄吉は世界中の海のことをよく知っていた。それぞれの海がどのようにできてきたのか、そこでの生態系がどうなっているのか、そこに生きる人々がどんな暮らしをしているのか、雪にもわかるように丁寧に話してくれた。中でも、その海に生息する貝のことについては、子供の雪でも想像ができるほど、とても詳しかった。


「おじさんは何でそんなに貝のこと知ってるの」

「そりゃ、好きだからな」

「貝のことが?だから毎日潜って取ってくるの?」

「あはは、あれは食費節約だよ。俺一人が食べる分くらいなら海も多めに見てくれるだろうしな」

「雪、おじさんの取ってくる貝、大好きだよ。お刺身も美味しいし、出汁の効いたスープにくぐらせて食べるのも大好き」

「まあ、取り立てで新鮮だからな」

「何だかお腹空いてきた」

「しょうがねえなぁ、それじゃ少しだけ食べていくか?」

「やったぁ!かーい、かーい」

「あーあ、これでまたお前の母さんに怒られるな」


小学校生活が残り少なくなった頃、いつも通りに練習をしていた雪に異変が起きた。最初は練習が終わった後に右腕が少し痺れる程度だったが、その後も練習を続けていたら、ある日ボールを打った瞬間に右肘に激痛が走った。


「痛い!」

「どうした、雪」

「右腕が、痛い」

「どれ」

「うっ」


只事ではないと判断した与那嶺は名護市にある総合病院まで車を飛ばした。車の中であまりの痛さに意識を失いかけながら雪は思った。【もしかしたら二度とクラブを持てなくなるのかな。】すると、腕の痛みとは異なる、大きな不安が雪の心を覆い始めた。痛みと不安を少しでも和らげようと窓の外に目を向けるが、そこに何があるのかが分からないほどに雪は混乱していた。気がつくと雪の目の前に白衣を着た中年の男がいた。男は雪と与那嶺に向けて何かを話していた。


「競技ゴルフを目指すのは難しいかも知れません」


診断の結果は右肘の腱の断裂だった。


大好きなゴルフができなくなった雪は、これといって何をするでもなく、日々を過ごした。小学校の卒業が近くなり、クラスメートと卒業記念の切り絵作りをやっている時も、何となく手を動かすだけで、楽しいといった感情は浮かんでこなかった。両親を始め、周りの者が気を遣って話し掛けたり、食事や遊びに誘うと柔らかな笑顔で受け答えをするものの、その笑顔も一瞬だけだった。すぐに感情を内に閉じ込め、とても寂しそうな表情に変わった。母親はその表情に不憫を感じ、与那嶺は悔いの念と責任を強く感じた。


「本当に済まなかった。俺がもう少し雪の練習量に気を掛けてやっていればこんなことにはならなかったのに」

「優さん、そんなことないよ。あの子は自分で決めたことは最後までやりきる子だから、仮に優さんが練習量を抑えても、その分を他でやって結果は同じだったよ」

「それでも、体調をもう少し気遣っていれば、ここまで酷いことにはならなかったと思うと、もう、何とも雪に申し訳なくて、、、」

「優さん、それは私の方だよ。母親として、何で、あの子の異変にもっと早く気付けなかったのか、これじゃ母親失格だよ」


雪の怪我は本人の心を閉じ込めた。そして母と与那嶺の心に大きな傷を作った。


雪は海に行くこともなくなり、自然と玄吉の家に寄ることもなくなっていた。家で手持ち無沙汰に時を流す雪を見て、母親は心の内にまた一つ大きな澱が溜まるのを感じたが、何をすることもできなかった。今は、雪が心を開き、前を見る日が来るのを辛抱強く待つしかないと考えていた。


そんな折、雪は近所の人が立ち話しているのを小耳に挟んだ。


「大浦さん、このところちょっと変だよね」

「そうそう、この間、何かブツブツ言いながら、ずぶ濡れで、靴も履かずに歩いていたわよ。そう言えば、両手に貝を持っていたわ」

「彼の家の前を通った時に、何か大きな声で喚きながら、本とか貝殻とかを窓から放り投げたのを見たという人もいるらしいわよ」

「前から変わったとこがあったけど、最近は拍車が掛かってきたわね。大丈夫なのかしら」

「挨拶してもお辞儀くらいしかしないし。そう言えば、私、あの人と話したことあったかしら」

「あらやだ、以前、村の集まりに呼んでみんなで飲んだ時に話したじゃない」

「ああ、そんなことあったわね。でも、あの時、彼が一言喋って、私がその十倍くらい喋っていたから声も忘れちゃったわよ」

「ひどーい。でも、確かに口数は少なかったわよね。ほら、よく言うじゃない、研究者肌?そういうものじゃない?」

「えー、でも、テレビに出てペラペラ喋っている大学教授とかいっぱいいるじゃない」

「それじゃ、やっぱり変わり者ってことかしら」

「そうなんじゃない」


雪は二人に玄吉のことを話したくなったが黙っていた。それよりも、玄吉が本や貝を投げ捨てていたというのがすごく気になった。玄吉は部屋の中を整理することはあまりしないが、本や貝をとても大事にしていることは、何となくではあるが、雪にも伝わっていた。その大事なものを捨てるとはよっぽどのことがあったに違いない。雪は一目散に玄吉の家に向かって走り出した。久し振りに走ったせいか、玄吉の家に着く頃には息が上がって、家に入る前に息を整えなければならなかった。


家の左手に広がる海に面した庭に、散乱した本や貝殻を目にした雪は、直感的に玄吉がいなくなったことを確信した。


「おじさん、どうして、、、」


気を取り直して部屋の中に入ってみると、そこは悪意を持った侵入者が何かを探したように荒れていた。書類が散乱し、本があちらこちらに落ちていた。中には引きちぎられた本もあり、本の中の何かを探していたかのような有様だった。テーブルの上には、この家の中で数少ない金目のもの、といっても五年程前のタイプの古いパソコンがブーンという唸りをあげて動いていた。スクリーンセーバーがいくつもの貝殻の写真を数秒おきに写していた。その貝殻の大半はいつだったか玄吉が話してくれた世界の各地に棲息する貝だった。雪はパソコンの使い方はわからなかったが、キーボードに触れたらスクリーンセーバーが解け、英語で書かれた文章が映った。英語の読めない雪には何が書かれているのかは全然わからなかったが、【shell】という単語が【貝】を意味していることだけは知っていた。ある時、雪が玄吉に教えてくれとせがんで覚えたいくつかの単語のひとつだった。その画面を見つめながら雪は思った。この文章はきっと玄吉が書き記したものに違いないと。そして、慌てて足元に散らばっている書類に目を走らせた。すると、パソコンの画面に映っているものと同じような書類が何枚もあった。それらを拾い集め、端が折れているものは綺麗に直して、重ねた。部屋を出る前、振り返ってみると、窓から吹き込む海風が床に置かれた本のページをめくるようにはためかせていた。そこには玄吉の影も意識もない、寂しい空間がポッカリと浮かんでいた。


家に帰るやいなや、母親におじの消息を訪ねたが、面に困惑の色を浮かべた母は、ただ単に首を振るばかりで何も答えてはくれなかった。


その後もしばらくの間は村のあちこちで玄吉の噂が聞かれたが、元々付き合いの薄い玄吉に興味を持つ者は少なく、ひと月もすると噂話しはすっかり影を潜めていた。


雪は幼い頃から玄吉が好きだった。いつも玄吉に懐いて、纏わり付いていた。そんな雪を邪険にすることもなく、玄吉もなんだかんだと相手をしてくれた。といっても言い方はぶっきらぼうで、知らない人が見ると雪が怒られているように見えることもあったらしい。そんなところも玄吉の心証を悪くしていたと知ったのは随分経ってからのことだった。


玄吉が失踪した直後の両親や村人達の会話では、いなくなる直前に取っていた奇怪な言動に関係しているのではないかということだった。ただ、どこにどのようにしていなくなったのかについては誰も見かけておらず、何もわからなかった。雪はショックを受けた。仲の良い大事なおじがいなくなったことにショックを受けた。仲の良い大事なおじがいなくなったのに、村の人達があまり悲しんでいない様子にショックを受けた。雪は何故か海で遊ばなくなった。


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