怒りと悲しみの過去
どんなに思い出したくなくても、前世で望海として受けた苦しみは、タトゥーのように心にきざみこまれているらしい。目の前で血を流す雪乃の秘書、川島を見たとたん、虐げられた過去の記憶が次々とよみがえり、雅は冷静さを失った。
◇◇◇◇◇
望海は誰かに髪をつかまれ、洗面台にからだをたたきつけられた。
下腹部に激痛が走り、床に倒れ込む。
太ももを血がつたっている。
望海は泣きながら「病院につれていってほしい」と懇願する。どうしても、おなかの中の赤ちゃんを守りたかったのだ。
けれど彼女を待ち受けていたのは、冷酷な拒絶と終わりのない屈辱だった。
結局、望海は赤ちゃんを失った。
◇◇◇◇◇
あのときのおなかの痛みが、いまも続いているような気さえする。からだの震えが止まらない。雅はギュッとこぶしをにぎりしめた。
川島を助けたいという衝動は、あのときの自分を助けたいという衝動にほかならない。
けれど、ドアに手をかけようとしたそのとき、突然、背後から誰かに腕をつかまれた。
驚いて振り返ると、大学生くらいの若い女性が顔の前で人差し指を立てて「シーッ」と唇を横に引いている。雅の目に、みるみるうちに涙が浮かび、頬にこぼれ落ちる。
(天満ミキ!?)
ミキは母方の遠い親戚だ。平凡な家庭の出身で、容姿や学力が取り立てて優れているわけでもなく、あまり目立つ存在ではなかった。
小さいころから、よく顔をあわせてはいたが、軽くあいさつをして、少し会話を交わすくらいの仲だった。けれど彼女の顔を見たとたんに涙がとめどなく流れてきた。
(私、どうして泣いてるの……?)
雅は混乱していた。けれど考えて見れば、雅に転生してからというもの、ずっと気持ちを張りつめていたのだ。死の直前の孤独と絶望の記憶も新しいまま、自分を裏切り死に追いやった敵と再会し、とりつかれたように復讐への執念を燃やしてきた。それに追いうちをかけるように、哀れな川島の姿を目の当たりにした雅の精神は、限界を迎えていた。
そこへ復讐とはなんの関係もない懐かしい顔があらわれ、張りつめていた緊張の糸が一気に緩んだのだろう。
雅の心に温かいものが一気に広がった。
ミキは、目の前にいる雅の魂が別人だとは夢にも思っていないだろう。また泣いていることを気にかけている余裕もないらしく、何も言わずに、雅を近くの小さな扉の中に引っぱり込んだ。
(こんなところに非常階段? いつか使えるかも)
われに返った雅は、そんなことを思いながら涙をぬぐう。そしてミキに、みっともない姿を見せてしまったことを少しばかり後悔した。
ミキはドアに耳を当て、人がいないことを確認すると「ふーっ」と息を吐いた。
「雅ちゃん、どうしちゃったの? もう雪乃さんに、かまわないって約束したのに」
ミキは雅の手をにぎり、小声でささやいた。
(本物の雅とミキは仲がよかったのね)
そう確信したものの、正体を明かすわけにはいかない。雅は、うつむいて適当に話をあわせる。
「さっきビンタされたから……」
「見てたよ」
ミキは、そっと雅の頬にふれ「傷は大丈夫そうね。とりあえず部屋に」と言いながら雅の手を引いて、階段を上がりはじめた。3階まで上がると、廊下のつきあたりの部屋のドアを開け、素早く中に入る。どうやらここが雅の部屋のようだ。
わからないことが多すぎて、ミキにいろいろ聞きたくなるが、いまはタイミングが悪い。
(焦らなくても、ゆっくり探ればいいか)
雅は大きく深呼吸をして、あたりを見まわした。ふと本物の雅が窓辺に立ってヴァイオリンを演奏している写真が目に止まった。
葬儀で彼女が語ったことは、本当の話だったのだ。いまから数年前、望海は中学生だった雅にヴァイオリンを教えていた。この写真は、そのころの雅だろう。
けれど、わずか数年の間に、本物の雅の身にいったい何が起きたというのだ? あの活発な美少女が、いまやすっかり痩せこけ、うつ病まで患っているとは……。
雅が写真を見ながら物思いにふけっていると、ミキが声をかけてきた。
「夕食の時間だから、母さんを手伝いにいってくる。雅ちゃんは、おりてこないで。食事は、あとで持ってきてあげるから」
雅の返事を待つことなく、ミキは慌ただしく部屋を出ていった。
ミキの小さな背中を見送りながら、雅はまたひとつ記憶がよみがえった。たしか望海の母親木村馨は、いわゆる玉の輿に乗ったのだった。実家はごく普通の家庭だったはずだ。いつか母は「ミキの父親は誰かの運転手で、母親はどこかの屋敷で料理担当の家政婦をしてる」と言っていた。
つまり、ミキの両親は、あのころから市議会議員の蘇我志郎の屋敷で使用人として働いていたのだ。
突然、窓の外の暗闇に世界の終わりを思わせるような巨大な稲妻が走った。
次の瞬間……。
ドカーーーン!
大地を揺るがすような雷鳴がとどろき、雅は震えあがった。
ふと外を見ると、真っ暗な小道を大雨に打たれながらよろよろと歩く川島が見えた。その寂しげで哀れな後ろ姿が、またあの日の自分と重なりあい、つらい記憶が脳内に流れ込んできた。
あの日も今日と同じような、どしゃ降りの夜だった。