ビンタ
(私にビンタする気?)
雪乃の殺気を感じとった雅は、ひるむどころか一歩前に進み出ると、自分も右手を振りあげた。
そのとき、庭園のしげみの向こうから、しかめ面をした中年男性があらわれた。見覚えのある顔だ。よくテレビにも出ている。そう、あれは雪乃の父親で、S市の市議会議員、蘇我志郎に違いない。
雅は、まだ親友だったころの雪乃が、よく父親のグチをこぼしていたことを思い出した。
(たしかこのメギツネは、父親にだけは頭があがらなかったはず)
そう考えて、雅はとっさに振りあげた右手を引っ込め、自分の左頬に当てた。
パシーーーン。
次の瞬間、雪乃のビンタが容赦なく左頬に落ちてきた。
本当は、右手でガードしていて、それほどの痛みはなかったが、相手の勢いにあわせて地面に倒れ込んだ。そうすれば志郎の目には、雅が一方的に姉に張り倒された哀れな妹にうつる。
雅は目に涙を浮かべ、姉に虐げられる妹の演技を続ける。
「私はただ、捨てられたものを拾っただけよ。どうしてたたかれなくちゃならないの?」
雪乃は不思議そうに右手をみつめている。おそらくビンタをしたときの手の感触に違和感をおぼえたのだろう。
「雪乃」
雪乃の背後から、志郎の声がした。
ただ呼びかけられただけだというのに、雪乃の顔は青ざめ、氷の牢獄にでも閉じ込められたかのように震えている。ゆっくりと父親のほうを振り返る雪乃は、まるで別人かと思うほどおびえていた。
(急にどうしたの?)
雅は、けげんそうに雪乃を見る。
(妹にビンタしたことを責められるくらいのものでしょ? そんなに怖がること? あれじゃまるで幽霊に遭遇した人みたいじゃない)
雅としては、聞きたいことが山ほどあったが、いまの立場では、それもかなわない。ただ顔をふせ、こっそりようすを見守るしかなかった。
ところが、雅の予想は大きくはずれた。志郎は、姉が妹を張り倒したことには一切ふれず、抑揚のない声で雪乃にたずねた。
「彼との関係は進展したのか?」
(彼との関係? 誰のこと?)
驚いた雅は、そっと顔をあげる。目の前にいる雪乃に、さっきまでの優雅さや、人を見くだしたような傲慢さはまったく見られない。イタズラをした子供のように、ただひたすら下を向いておびえている。
そんな雪乃を見ているうちに、雅は胸がすくような気持ちよさを感じた。もっと言うなら、しかめ面をした議員に親しみをおぼえるほどだった。
(メギツネったら、そんなに父親が怖いの? 最高じゃない)
この蘇我家では、父親の志郎の攻略こそが最大の鍵になりそうだと、雅は考えた。それには父親だけではなく、母親も味方につけなくてはならない。
雪乃は、緊張のあまり額に汗を浮かべ、くちごもっている。
「話は書斎で聞こう」
そう言って志郎は、雅には目もくれず屋敷の中へ入っていった。
おかしなことに雪乃は「書斎」という言葉を聞いて、脚をガクガクと震わせている。ふと見れば、そばにいた警備員たちの顔も青ざめていた。
雅は、わけがわからなかった。「書斎で話す」ことを、なぜここにいる人たちは、そろいもそろって、あれほどまでに恐れているのか。たしかに彼の態度は尊大なうえ威圧感もあるが、それにしても萎縮しすぎではないのか。
志郎に続いて屋敷の中に入っていた雪乃の背中を見失わないよう、雅は急いで立ち上がり、あとを追った。
玄関ホールに入ると、奥から中年女性が歩いてきた。まるで人生に疲れきったような顔をしている。その地味な身なりからして、おおかた蘇我家の使用人だろう。
(あいさつ、したほうがいいのかな?)
一瞬そういう考えが頭をよぎったが、雅はすぐに思いなおした。
本物の雅が、この家でどういう立ち位置だったのか、まだはっきりしていないが、志郎の態度から判断すると、彼女は家で誰かと親しく話をするタイプではなかったようだ。とにかくいまは雪乃を追いかけるのが先だ。
雅がうつむきかげんで、足早に横を通りすぎようとしたときだった。いきなり中年女性に道をふさがれた。
雅が驚いて顔をあげると、彼女は軟膏のようなチューブを手の中にねじ込んできた。
「炎症をおさえる薬だから」
それだけ言い残すと、中年女性は周囲を警戒しながら屋敷の奥へと消えた。
雅は、いぶかしげに手の中のチューブに目を落とす。
(あのおばさん、私が雪乃にビンタされるのを見てたのかな……? にしても怪しすぎる)
「あれじゃまるでスパイじゃない」
口ではそう言いながらも、けっこううれしかった。
雅は気を取りなおし、雪乃のあとを追ったが、このわずかな時間で雪乃を完全に見失ってしまった。
この屋敷は、五条グループの大邸宅ほどの広さはないが、5階建てで部屋数にしても数十室はくだらないだろう。加えて広大な庭園まである。ひとたび見失えば、そう簡単には見つからない。
(1階ずつ、さがしてまわるしかないか……)
雅は覚悟を決めて廊下を進む。どうやら1階は使用人の居住スペースのようだった。本当は目についた人に書斎の場所を聞きたかったが、むだに勘ぐられては困るので、おとなしく2階へ向かった。
本物の雅ではない彼女は、書斎の位置はもちろん、自分の部屋を見つける自信もなかった。とにかく、ひととおり探索しておけば、これから雅のふりをするにも好都合だろう。
2階は、ひっそりとしていて特に変わったところもない。
(ここが家族用のスペースなのかも)
そんなことを考えながら雅は廊下を進む。
ガシャーーン!!
突然、つきあたりの部屋から、陶器が割れるような音が聞こえた。
「雪乃様、おやめください。旦那様に聞こえますよ……」
聞きおぼえのある声だ。雅は急いで部屋に駆けより、ドアの隙間から中をのぞいた。豪華なインテリアが見える。壁全体が鏡張りになっていて、おびただしい数の服や靴、帽子がならんでいる。おそらく雪乃のドレスルームだろう。
雪乃は、鬼のような形相で、目の前にいるスーツ姿の女性をにらみつけている。雅はその女性に見覚えがあった。
(たしか雪乃の秘書をしてる川島さんよね?)
いつか雪乃に聞いたことがある。川島の夫が借金を作り暴力団に追われていたところを、雪乃が小切手を切って借金を清算してやったのだと。
「全部あんたのせいよ!」
そう言って、雪乃は手当たりしだいにハイヒールをつかんでは、川島にむかって投げつけた。
川島は「あっ」と小さく叫び、床に座り込んだ。ヒールの先が直撃したのだろう、額がみるみるうちに赤くはれてくる。
けれど彼女は額の傷ではなく、腹を押さえて苦しそうに顔をしかめた。
「うっ、痛い……、おなかが……」
「雪乃様、川島さんのおなかには赤ちゃんが……妊娠2カ月なんです」
そばで礼服を持ち、待機していた使用人が思わず口を出す。
「救急車、呼びましょうか?」
「妊娠してるってことは、そのうち産休を取るってことよね?」
雪乃は腕組みをしたまま、ゆっくりと痛みに耐える川島に近づき、冷ややかな視線を落とす。
「そんなに休まれたら、私の秘書は誰がやるの?」
そう言って、軽く片足をあげたかと思えば、そのまま足を川島の腹の上に乗せた。
「いっそ私が、すっきりさせてあげましょうか?」
川島は、苦しそうな表情で首を横に振った。彼女もわかっているのだろう。雪乃は人間の皮をかぶった悪魔だ。悪魔ならどんな残忍なことでもやってのけると。
川島は少しあとずさり、よろよろとからだを回転させると、頭を床にこすりつけた。
「産休なんか取りません。私は何があっても、雪乃様にお仕えいたします! ですから、この子だけは……、この子だけは助けてください。どうかお願いします……」
(夫の借金と引き換えに、自尊心まで雪乃に売り渡すなんて、どうかしてる)
雅は、涙で顔をドロドロにして、なりふりかまわず雪乃に懇願する川島に、同情こそしていたが、めんどうなことに首を突っ込む気はなかった。何より、あまりにもふがいない川島に少しイラだってさえいた。
「あんたが父に告げ口したんでしょ! そうに決まってる!」
雪乃は声を荒らげ、川島の肩口をけった。
川島のからだが不自然にかたむき、横に投げ出される。その瞬間、赤い血の筋が彼女のふくらはぎをつたった。
みるみるうちに、暗い赤色の範囲が広がっていく。雅の心臓は、たえがたいほどの痛みに襲われた。
ふと、記憶の断片がよみがえる。
(あの日、私も妊娠2カ月だった……)
雅は、結婚記念日だったあの日、この世の地獄を味わったのだ。
そのときの痛みが、洪水のように押しよせてくる。目の前で苦しんでいる川島が、かつての自分と重なりあう。
雅は、いてもたってもいられなくなり、血を流す妊婦を助けようと、ドアに手を伸ばした。
すると突然、その手を背後から誰かにつかまれてしまった。