かけひきと誘惑
雅は、目の前の状況をすぐに理解した。
(どうせ雪乃でしょ)
女子トイレに引っ張り込まれる高清の顔が、笑っていたのだ。
(胸が痛い……)
またいつもの心臓発作が起きたのかと勘違いしそうになったが、これまで雅に心臓の持病があると聞いたことはなかった。
雅は、いまいましげに唇をかむ。クズ男の夫に愛情が残っていたわけではない。ただ「裏切られた」ことに、むしょうに腹が立っていたのだ。怒りにまかせて女子トイレに入り、高清の髪をひっつかんでボコボコにしてやりたいという衝動に駆られる。
けれどいまは、そのときではない。
雅は気持ちを落ち着けようと大きく息をする。平静を取りもどした雅の瞳の奥に、底知れぬ冷酷さが宿っていた。
(せいぜい楽しんでおくのね。いまのあんたたちが幸せなほうが、復讐の楽しみも増えるから)
雅は足音をたてないように、女子トイレへと向かった。ドアの隙間から高清の後ろ姿が見えた。
(やっぱり思ったとおりね)
高清は少し身をかがめ車椅子の肘かけに両手をついていた。そして彼のネクタイをつかんでいるのは、男を誘惑するメギツネの顔をした雪乃だった。
男女の視線がからみつき、淫靡な空気が漂う。
男の攻略に夢中になっている雪乃は、誰かに見られていることなど想像もしていないようだ。
雪乃は、媚びるような瞳で高清をみつめる。つかんだネクタイを力強く引きよせると、2人の頬が限りなく近づいた。
雪乃が高清の耳に熱い息を吹きかける。
「ネクタイ緩んじゃったから、締めなおしてあげるわ」
そう言って雪乃は手早くネクタイを整えると、耳元でヒソヒソささやいてから高清を解放した。
雪乃の作戦が功を奏したのだろう。高清は、低い体勢を保ったまま、雪乃の腰を引き寄せた。ふたたび2人の顔が接近する。
雪乃は、臆することなく挑発的なまなざしを高清に向け「どうしたの? キスしたいの?」とたずねた。
高清は指を伸ばし、雪乃のアゴのカーブを優しくなぞった。
「キスしたいのは僕のほう? 本当は君がキスしてほしいんだろ?」
高清のことばに甘ったるい声で反応した雪乃は、もだえるように腰をくねらせ、両方の腕を高清の首に巻きつけた。
雅は、目の前で繰り広げられる安っぽいラブシーンに怒りをつのらせる。
(胃がムカムカして吐きそう!)
知らないうちに力いっぱいこぶしをにぎりしめていた雅は、手のひらの肉に爪が食い込んでいたが、痛さは感じなかった。
雪乃は目を閉じ、高清の唇を期待していた。けれど高清は何を思ったのか、雪乃の後頭部を支えて、彼女の礼服の乱れを直し始めた。
「肩ひも……ねじれてる」
高清のことばに、雪乃は、ほんの一瞬だけ戸惑いを見せたが、すぐにその意図を悟った。この男は、さっき私にじらされた仕返しをしているのだと。
(かけひき? 望むところよ!)
雪乃の征服欲がむくむくと首をもたげる。まぶたの裏に望海に見せた例の動画の一幕がよみがえり、興奮が抑えられない。
ただ、残念ながらあの動画の主役は高清ではなかった。あれは望海を死に追いやるために、容姿の似た男をみつくろい高清の役を演じさせていたのだった。
はたして、思惑どおり望海という邪魔者は、完全に消し去ることができた。この目の前の魅力的な男を心ゆくまで味わえる日も、そう遠くはない。
「私をもてあそんだら、責任とってもらうから」
雪乃はこれ見よがしに自分の脚をなでてみせる。それを見た高清は、申し訳なさそうな顔をした。
「今日は望海の葬儀なんだ。こんなところを記者に見られたら、好き勝手に書かれてしまう」
雪乃はすぐに穏やかな表情をつくり、高清の手をそっとにぎった。
「わかった。望海なんかのために、五条グループの株価を下げるわけはいかないものね。望海にゆかりの深いエンジェル楽団を葬儀会場に選んだのも、グループのイメージを保つためなんでしょ」
高清は雪乃の手の甲をポンポンとたたき、笑顔で告げた。
「さあ、そろそろ僕の出番だ。準備をしないと」
裏切り者たちの口から自分の名前が出たところで、雅は、慌ててその場を離れた。はらわたが煮えくりかえり、本当に吐いてしまいそうだったのだ。
「復讐」の2文字が嵐のように頭の中を駆けめぐる。
(許せない……ふたりまとめて地獄に突き落としてやる!)
雅は怒りに震えながら、足早に廊下を進んでゆく。