制裁は、それで終わりではなかった
雅としては目立った行動をとるつもりなどなかった。けれど、もの思いにふけっていた林田が無意識につぶやいていたのだ。「のんた」と。
それは幼なじみの彼が、小さいころから望海を呼ぶときに使っていた、お気に入りのあだ名だったのだ。
(蓮は私に気づいたの?)
そう思うとうれしくなって、正体をばらしたくなる衝動に駆られた。けれどいまは、まだそのときではない。
(まずは「雅」の悩みを解決するのが先だ)
これからは復讐のためだけに時間を割きたい雅にとって、雅に嫌がらせをしてくる存在は早めに排除しておいて損はない。
それで雅は、歌子の腹を蹴り飛ばしたのだった。その効果は絶大で、歌子の取り巻きたちは皆、あとずさっていた。
ふと見れば、蓮も眉根を寄せている。自分の知っている優しくてお人よしの両家のお嬢様「のんた」とは似ても似つかないと思っているだろうことは、容易に想像できた。
雅の大学の大ボス歌子への制裁は、それで終わりではなかった。こういう人間は必ず倍にして仕返しをしてくるものだ。
そこで雅は、ふたたび脚をあげてハイヒールの裏側を歌子の胸に向ける。
「もう私に嫌がらせをしないで。いままでガマンしてたのは、あなたが怖かったからじゃない。あなたみたいな人と関わりたくなかったからよ」
歌子の見ひらかれた目には恐怖の色がにじんでいる。雅は腕組みをして、ハイヒールで地面をトントンと蹴りながら話を続けた。
「でもあなた、調子に乗りすぎたようね。ヒールで私の足を踏んだあげくに、河に突き落とそうとしたでしょ。私、泳げないのよ。これって立派な殺人未遂よね。だから私は自分の命を守るためにあなたを蹴ったの。正当防衛なんだから私は悪くないわよね これ以上、私にいやがらせをする気なら、このヒールであなたの頭でも目玉でも蹴り飛ばすわ。自分を守るためにね」
スラスラと、よどみなく口から出てくる雅のことばは、どう考えても筋が通っているとはいえないが、誰も指摘できない。
さっきまで偉そうな態度だった歌子も、真っ青な顔をして雅のハイヒールから顔をそむけている。
「あなた……いつもハイヒールなんて履かないのに……」
声が震えている。
「そうだった? じゃあ今日は初めて見たってことで、記念に一発お見舞いしておく?」
雅が脚を動かして蹴るまねをしてみせると、歌子は驚いて首をすくめた。
「ダメ! やめて! まさか泳げないなんて思ってなかったの」
ふたりの周りに、どんどん人が集まってくる。大学の大ボスが、完全にやり込められている姿を見て、彼らは興奮を隠せないようだ。低い声ではあるが、ああでもないこうでもないと、しきりに持論を披露しあっている。
「覚えてなさい」
歌子は周りの学生たちをにらみつけ、小声でそれだけ言うと、逃げるように立ち去った。結局、歌子から謝罪のことばは得られなかった。
「雅ちゃん、行かせちゃっていいの?」
ミキが遠ざかる歌子の背中を指さしなが心配そうに雅の顔を見る。
「覚えてなさい、って捨てゼリフ残してったよ?」
けれど雅は、そんなことにかまっている余裕はなかった。あらためて林田と向きあうには、冷静になる必要があったのだ。
雅は、ひそかに深呼吸をしてから、ゆっくりと振り向いた。
林田が、優しそうな笑顔を浮かべて近づいてくる。
「君、彼女が次に攻撃してこない以上、暴力的な反撃すれば、正当防衛は認められなくなるよ」
やんわりと忠告を受ける。
「お言葉ですが、彼女はこれまでずっと私の命を脅かしていたんです。弁護士の先生から見れば私の行為は過剰防衛かもしれませんが、ずっといじめられてきた私としては、いじめの加害者は常に人を殺す可能性があると思っていますので」
雅は淡々とそれだけ言って、林田に背を向けた。これ以上、彼に関わるとボロが出てしまいそうで怖かったのだ。
「うちの事務所に来ない?」
林田からの思いがけないオファーだった。彼は法曹界で有名なだけではなく、法律関係の動画でも人気を博しているスター弁護士なのだ。その動画は、さわやかなイケメンが、丁寧にわかりやすく法律の知識を教えてくれると、公開後すぐに評判になった。
今日の説明会も、林田がお目当ての学生が大勢いて、願わくば彼の事務所に採用されたいと思っていたはずだった。
そんな中、雅は林田から夢のような誘いを受けた。もちろん雅も快諾するはずと、誰もが信じて疑わなかった。
ところが……。
「すみません、私は法律事務所の仕事には興味がないので」
「雅ちゃん、あなた法学部でしょ? 卒業したら弁護士になるんじゃなかったの?」
ミキが驚いて口をはさむ。
雅はにっこり笑って、やたら目を引く巨大な青色のロゴを指さした。
「私、あそこがいい」