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悲惨な過去

 雅は、ずっと再会を願っていた幼なじみに抱きかかえられ、思わず「(れん)」と口走りそうになったが、なんとかことばを飲み込んだ。

(危なかった……)

 いまは(のぞ)()ではない。SNSで人気者の林田(はやしだ)弁護士とは赤の他人の(みやび)なのだ。けれど、優しそうだが、どこかよそよそしい蓮のまなざしを見ると、少し寂しいような気がして、真実を告げたくなってしまう。

 実は昨日から、雅はずっと蓮のことを考えていた。この復讐を成功させるには彼の力がどうしても必要になる。ただ、正体(しょうたい)を明かさずに蓮の協力を得るにはどうすればよいのか、答えは出なかった。

「君、大丈夫?」

 蓮が優しく聞いてくる。

 雅は焦ってしまい、ただ両手を胸の前で振ることしかできなかった。

 蓮に抱き起こされ、改めてお礼を言おうとしたときだった。

「林田先生、何を言ってるんですか。その人が先に私を押したのに……」

 さっき雅を突き飛ばした女子学生が騒ぎはじめる。バッチリメイクで決めて、からだにフィットするレザーのタイトスカートをはいている。

 ミキは、彼女のことを知っているらしく「歌子さん、いいかげんにしてよ。また難癖(なんくせ)つける気?」と、抗議の声をあげた。

「あんたは黙ってて!」

 歌子と呼ばれた女子学生は、人さし指でミキを指さした。この高飛車(たかびしゃ)な態度から、彼女がこの大学で相当ハバをきかせていることは、容易に想像できる。それに以前から本物の雅に嫌がらせをしていたのだろう。

 けれど雅はもう、世間知らずでお人よしだった名家(めいか)の奥様の望海(のぞみ)ではない。とはいえ、それ以上は深入りしないつもりだった。本当の(かたき)蘇我雪乃(そがゆきの)なのだから、彼女に時間を()いている暇はない。

(おろ)か者の()(ごと)につきあう(いとま)などない」

 雅は、ぼそぼそと口の中でつぶやいた。

 雅の古めかしいセリフは、歌子の気分を逆なでするには効果的ではなかったようだ。ただひとり、林田だけは、驚きを隠せないようすだった。

「君、いまなんて言った?」

 林田は、雅の肩に手を置き、まるで心の奥を読み取ろうとするように、じっと目をのぞき込んできた。

 そんな林田の態度に雅が戸惑っていると、歌子は林田が自分に味方をしているのだと勘違いしたようだった。

「先生、この子の言うことなんか気にしないでください。いとま……とか言っちゃって、あんた、それであたしに文句を言ったつもりなの?そんなの……」

「君は黙って!」

 調子に乗ってペラペラしゃべる歌子を、林田が制する。

 林田は、ふたたび雅の顔をのぞき込んだ。おそらく彼は、雅をとおして望海の面影(おもかげ)をさがしていたのだろう。


(おろ)か者の()(ごと)につきあう(いとま)などない」

 これは幼なじみの望海のお気に入りのセリフだった。子供のころに彼女とふたり、再放送で何度も見た時代劇の主人公の決まり文句だった。

(望海がよくモノマネしてたセリフだ……)

 少し前まで、林田の前でよく笑い、よく泣いていた望海は、何者かにはめられ、わずか数日のうちに獄死してしまった。

 思い出すだけでも泣きそうになる。あれはつい数か月前のことだった。


 ◇◇◇◇◇

 あの夜は、文字どおりバケツをひっくり返したようなどしゃ降りだった。昼間、望海が車を盗まれたと言っていたことが気がかりで、林田は雨の中、五条家へ訪ねていった。

 望海の寝室の窓から明かりがもれているのを確認し、林田は急いで電話をかけた。

 ディスプレイに「のんた」と表示される。子供のころからの望海のあだ名だ。この文字を見ると、いつも心がじんわりと温かくなり、無邪気だった昔の記憶がよみがえる。

 トゥルルルートゥルルルー。

 発信音が鳴り、相手はすぐに電話に出た。

 気が(あせ)っていた林田は、望海の応答を待たずして本題に入る。

「のんた? 今日……」

「んあっ…やめて、痛い……ハァハァ……」

 林田のことばは、電話の向こうから聞こえてくる衝撃的な声にかき消された。

「後ろからがいいのか? このあばずれが!」

「ダメ! お願い、もう許して」

 ドスドスという物音と、望海の悲鳴のような声を聞き、林田は心臓をかきむしりたくなるほどの怒りをおぼえた。頭に血がのぼり、正気を保っているのがやっとだった。


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