71 レアの後悔
投稿日時がバラバラですみません。出来たら早めに投稿しています。
「さて」
サラナとルエン、カイと、護衛が去ったべムス商会で。
殊更優し気に響くアルトの声に、レアはビクリと身体を震わせた。
数年前、アルトはべムス商会で働いていた。
訳あって実家から身一つで出て来て、金もなく保証人もいない状態のアルトをクルムが拾い上げ、一人前の商人へと育て上げた。
ベムス商会に来たばかりのアルトは、どこか人を寄せ付けない、陰気な青年だった。
それが商会で働くうちに、笑顔が戻り、生来の優秀さもあって、どんどんと頭角を現していった。
日々明るさを取り戻していくアルトを、レアは弟の様に可愛がっていた。アルトも、レアを姉の様に慕ってくれていたと思っていた。
それなのに、どうしてアルトはベムス商会を陥れようとするのだろうか。それほど、夫の仕打ちを恨んでいるのだろうか。
レアの夫も、初めは後輩であるアルトを可愛がり、熱心に仕事を教えていた。素直なアルトは雑用も嫌がらずにこなし、夫の後をついて回って貪欲に学んでいた。
だが、いつの間にかアルトのその優秀さに、夫は危機感を覚えるようになった。夫とて優秀な商人だったが、それ以上の能力を持ち、次々と大きな商談を成功させるアルトを見て、焦っていた。商会内でも、夫よりもアルトが跡を継いだ方がいいのではなどと言われるようになり、面白くなかったのだろう。
だから、父が倒れ夫がベムス商会を継いだ時、疑心に駆られた夫は、アルトを始めとする優秀な従業員たちを追い出した。レアにはそれを止める事ができなかった。夫の意思に逆らったことなどなかったし、夫の矛先がレアとまだ幼い息子に向かうのが怖かった。
そんな夫が沢山の負債を残して亡くなった時、レアは途方に暮れた。商会の娘ではあったけど、一人娘として大事に育てられたレアは、これまで一度も働いた事がなかった。裕福なのが当たり前で、結婚前には父に、結婚後は夫に全て任せていれば、何不自由なく生活することが出来ていたのだ。それが、幼い息子を抱えた状態で突然、夫の庇護下から放り出され、金貸したちから厳しい取り立てにあい、明日の食事にも困るようになり。これからどうすればいいのか分からず、オロオロと泣く事しか出来なかった。
幸い、病から回復した父が商会の仕事や金貸しとの交渉や様々な雑事を引き受けてくれたので、元の裕福な生活とはいかないが、暮らしに困ることは無くなった。だが、レアはこのままではいけないと心を入れ替え、父を手伝うようになった。夫が商会を傾けたせいで仕事は激減していたが、それでも父と残った従業員たちと協力して、商会を運営してきたのだ。
だがそんな落ちぶれたベムス商会には、色々な人々が近づいてきた。
詐欺師だったり、非合法な商売を持ちかけてきたり、理不尽に脅してきたり。
その中には、亡き夫によって商会を追われた元従業員もいて、優秀な商人である父も、元従業員には甘く、危うくまた騙されるところだった。そんな事が続いて、レアは商会に『イイ話』だと持ち込む輩を、一切信用できなくなった。
だから、アルトがべムス商会に取引を持ち掛けてきた時。
あれほど可愛がって弟の様に思っていたアルトまでもがと、強いショックを受けた。
企てを暴いてやろうと厳しく責め立てても、アルトはのらりくらりとレアの攻撃を困った笑顔で躱していた。まるで子どもをあしらうようなその態度に、レアも我慢が出来なくなった時、アルトの側に佇む少女に目が向いた。
見るからに質の良いドレスを上品に纏い、ピンと背を伸ばして静かに立つ少女。大人びてはいるが、まだ未成年だろう。アルトが殊の外丁寧に接するその少女を標的にすれば、アルトは諦めるかもしれないと、レアは思ったのだ。
だが、その少女を貶した途端、アルトの表情が一変した。それまで穏やかにレアの言葉を受け流していたのが嘘のように、一切の表情を消し去って威圧的に睨んできた。
「ここ最近の状況を考えれば、貴方たちが、私どもの申し出を疑われるのも、仕方がない事だとは分かっていますが……」
流れるように自然に少女をこの場から退席させた後、アルトは能面のように無表情になった。その口調に、一切のぬくもりは感じられない。
「あの方を貶しめることだけは、いくら御恩のあるベムス商会でも、許すことは出来ません」
掛けられる言葉一つ一つが、ひりつくような感触でクルムとレアをなぶっていく。
「すまない、アルト会長。娘の無礼は、私が代わって詫びよう」
膝を突いてアルトに頭を下げるクルムの姿に、レアはショックを受けた。レアの知る、堂々とした父の姿とは余りに違っていて。恩人である父にそんな無様な姿をさせているアルトに、萎えかけていた怒りがムクムクと蘇る。
それに、アルトに囲われる様に守られていたあの令嬢の存在もまた、レアの気持ちを逆なでした。八つ当たりだと分かっていても、怒りを抑える事が出来なかった。
あの令嬢は、アルト商会に多大な貢献をしているドヤール辺境伯家の縁者だと紹介された。もしかしたらアルトとの縁談でも進んでいて、未来の商会長夫人としてこの場に同席していたのかもしれない。
高級そうなドレス。毛先まで綺麗に手入れされた髪に、艶やかな肌。将来に何の憂いもなく、きらきらと目を輝かせていた。
レアだって、昔はあのご令嬢の様に幸せだったのだ。それなのに、今の自分はどうだろうか。新しいドレスなど、ここ数年仕立てていない。侍女を雇う事も、話題の化粧品を手に入れる事も出来ず、荒れ放題の髪と肌。毎朝鏡を見る度に、やつれた自分の顔を見てため息が零れるのを止められない。
自分が失ったものを、無邪気に見せつけてくる少女。頼りになる男性に愛されて、その腕の中で裕福な商会長夫人としての幸せを、確信している幸運な少女。
頼りにしていた夫を失った後、貧しさを経験し、子どもを抱えて必死に働くレアは、自分が失ったかつての幸せを見せつけられた様で、どうしても我慢できなかった。
「……あんな苦労知らずの、商売のことなんて何も分からない貴族のお嬢さんなんか連れて来て! こっちは生活が懸かっているのよ。お嬢さんのお遊びで、うちの商会を滅茶苦茶にされたら、たまったものじゃないわ」
怒りにまかせて叫ぶレアの頬を、容赦なくクルムが打った。痛みよりも初めて父に殴られたことにショックを受けて、レアは呆然とクルムを見つめた。
だがクルムはそんなレアを無理矢理に押さえつけ、頭を下げさせた。
「アルト会長! 申し訳ない! こんな世間知らずな娘に育てたのはすべて私の責任だ! 私が代わりに罰を受ける! だからどうか、咎は私1人に! 他の従業員や娘はどうか、目こぼしを……」
父に押さえ込まれ動けないレアの頭上で、アルトの深いため息が聞こえる。
「クルム会長……。貴方の唯一の欠点は、身内に甘すぎるところです。貴方の娘は、自分の犯した罪について、何一つ理解していませんよ? 肝心なところで貴方が庇うから、本人たちは成長しないんです。義理の息子での失敗を、また繰り返すおつもりですか?」
アルトの言葉に、クルムが下げていた頭をゆらゆらと上げる。
「ジアスが馬鹿げた投資の話に引っかかった時、思い切り失敗させてやればよかったんです。あの時痛い目に遭っていれば、あの人だって次の投資には慎重になったでしょう。貴方が尻拭いをしてしまったから、ジアスはどんどん危険な話にのめり込んでいった。商人は失敗して学ぶのだと、そこから損と信頼を取り戻して大きくなるのだと、貴方は私に教えて下さったのではないですか。貴方の娘を、一人前の商人として育て上げるつもりなら、親の情など捨ててしまいなさい」
クルムはギュッと目を瞑って、アルトの言葉を噛み締めた。弟子たちに、何度も言い聞かせた言葉だ。クルムだって、覚えている。覚えていた、筈なのに。
10にも満たない年から商会に入り働いていたジアス。息子の様に思い、レアとの結婚が決まった時は、ジアスが本当の息子になるのだと嬉しかった。娘も商会も、ジアスになら任せられると安堵した。
失敗をしたとしても、自分が庇って後始末をしてやればいいと思った。自分だって、若い頃の失敗など腐るほどあった。ジアスの輝かしい商人としての経歴を、失敗ぐらいで汚したくなかった。
それが、いけなかったというのか。ジアスは怪しげな投資話を信じて商会の財産を食いつぶし、挙句に払いきれない程の借金を重ねた。
アルトはそんなクルムには目も向けず、冷ややかにレアを見据えた。
「この国に、歴とした身分制度があることは理解しているのか? お前が侮辱したのは、ドヤール辺境伯家の姪御であり、ラカロ子爵の御息女であるサラナ・キンジェ・ラカロ様だ。あの方の身分を知らなくても、貴族に対する明らかな侮辱は、不敬罪にあたる。護衛の騎士に斬り殺されても文句は言えないんだぞ?」
「斬り殺される……?」
令嬢の側に静かに控えていた護衛の姿を思い出し、レアは口に手を当てて悲鳴を押し殺した。確かあの時、護衛は腰の剣に手を伸ばしていた。本来、護衛は貴人の命と共にその名誉も守るものだ。名誉を傷つけられた貴人が命じれば、平民など何の躊躇いもなく斬り捨てるだろう。
ようやくその常識に思い至って、レアは身体を震わせた。嫉妬に囚われて、本来ならば侮辱するなどありえない相手に、何という暴言を吐いてしまったのか。
「それに、サラナ様に対して、商売の事を何も分からないなどと……。どこまで世間知らずなんだ、お前は」
アルトは分厚い紙の束を、クルムとレアの前に差し出した。
「今回、ベムス商会に依頼しようと思っていた商品を作成するための魔道具『魔石ミキサー』の利益登録書だ。その作成者の名前を確認してみろ」
『制作者名サラナ・キンジェ・ラカロ』と記された利益登録書を見て、レアはもう言葉もでなかった。
権利関係に厳しい商業ギルドが、製作者の名を誤る筈がない。商業ギルドの利益登録には厳正な審査があり、仮令身内であろうとも代わりに製作者として登録する事は不可能だ。
「これだけでなく、うちの商会で取り扱う魔道具は、全てサラナ様の手によるものだ。それぐらい、商業ギルドで調べればすぐにわかる事なのに、我が商会との商談が申し込まれた時点で、相手を調べてすらいないのか。それでよく、商会の為になどと偉そうに語れたものだな」
アルトの言葉に、レアは恥ずかしさで全身が火を噴く様に熱くなった。
こんな風に叱られるのは初めてだった。べムス商会で働き始めてからしばらく経つが、商会で働く古参の従業員たちは皆、レアの働きを褒め、可愛がるばかりで、叱られた事など一度もない。
彼らにとって、レアは従業員というよりは、いつまでたっても会長の娘というイメージの方が強いのだろう。レアが失敗しても、クルムと従業員たちに当たり前の様にフォローされていた。
「こ、この魔道具は……、食材をすりつぶすためのものか? 魔道具一つに、これほど多くの点検項目があるのか? それに、この耐久テストの記録は……」
利益登録書についていた魔石ミキサーの仕様書を読みながら、クルムは呆然と呟く。
「実際のテスト回数は軽くこれの倍はあるぞ。お嬢の要求は山より高く、海より広い。お嬢はな、『職人殺し』っていう二つ名があるんだよ」
「夢に見るぞ、お嬢のダメ出しは。お嬢に一度『出来ない。なるほど、その根拠は?』と冷静に問い詰められてみろよ。生半可な職人じゃ、立ち直れねぇぞ」
何気にひっそりと部屋に残っていたダッドとボリスが、クルムの呟きに当然の様に頷いた。
ちなみに、この2人が残っていたのはなんとなく退出し損ねたのもあるが、一番はブチ切れているアルトをもしもの時は止めるつもりだったからだ。サラナを侮辱されて、アルトがレアに対し暴力を振るうとは思っていないが、それ以外の方法でべムス商会共々、レアを再起不能にする可能性は十分にある。穏やかな物腰に騙されがちだが、アルト商会の若き商会長は、サラナが関わる事には面白いぐらい狭量なのだ。
「その仕様書の概案を作ったのはお嬢だからな。食品を扱う魔道具だから慎重にしたいって、ルイカー船の時以上の分厚さだったのを、職人総出で交渉して、ようやくその仕様書で折り合いがついたんだ。もう何徹したか覚えてねぇよ」
「でも楽しかったなー。職人総出で色々とテストを繰り返してよぉ。これで絶対にお嬢を納得させるぞって勢い込んで突撃しても、見事に返り討ちにあってよぅ。専門の俺らを言い負かすお嬢の頭の中って、一体どうなってるんだよ」
職人2人がしみじみと語るのを、クルムは唖然として聞いていた。あのいかにも大人し気な令嬢と『職人殺し』などという物騒な二つ名が結びつかず、困惑した。
「何で、そんな人が、ウチの商会と取引を? まさか、ウチの商会を乗っ取るつもりなの?」
レアは意味が分らなかった。素人目にみても、この『魔石ミキサー』は優れた魔道具だ。これまでアルト商会が手掛けた魔道具同様、必ず売れるに違いない。そんな凄い魔道具を開発した人が、なぜわざわざべムス商会に声を掛けてくるのか。他にも食品を扱う大きな商会は、沢山あるのに。
レアが語気を荒らげたが、アルトが冷ややかに返す。
「借金まみれのべムス商会を乗っ取って、何か利益でもあると思っているのですか?」
「……は?」
レアを見つめるアルトの茶色の瞳は冷徹で、かつてレアを慕ってくれていた頃の名残などどこにも残っていなかった。
「べムス商会は、最近は資金繰りも苦しく、仕事もほとんどなく、破産寸前だ。そうでしょう? クルム会長。だから我が商会との商談を断ろうとなさった。これ以上借金を増やさない様に、商会を畳むおつもりだったのでは?」
「何を言っているのよ? 確かにウチは昔と比べれば規模は小さくなったけど、仕事はあるのよ? 潰れるなんて」
「……そうだ」
苦し気に、クルムが肯定する。そんな力ない父の様子に、レアは信じられないとばかりに首を振る。
「そんな、だって。メイナ商会からもいくつか仕事を受けているし、それに、ジスタ男爵家からも直々に注文が」
「それは。古くからウチと取引をしてくださっているからだ。温情で、仕事を頂いているんだ。それだって、破産を先延ばしにしているだけで、いずれは保たなくなるのは、目に見えているんだよ」
今のべムス商会の収入では、従業員たちに満足な給料を払う事もままならないのだ。それでも従業員たちが商会を辞めないのは、べムス商会に恩義を感じているのもあるが、一番は他に働き場所などなかったからだ。今商会に残っている従業員たちは、行き場がなかったのをクルムが拾い上げた者たちばかりだ。べムス商会がなくなれば、他に行く当てなどないのだ。だから必死でベムス商会にしがみついているのだ。
「……そんな。だって。私は、あの子が、息子が大きくなったら商会を継がせたいと、そう思って……」
真実を知り、レアはフラフラとソファに倒れ掛かった。
夫のせいで傾きはしたが、ベムス商会は老舗の商会だ。潰れるなんて、そんな事は想像していなかった。
「本当に、残念ですよ。私もお世話になったベムス商会が無くなってしまうのは悲しいですが。せめて不敬罪には問われぬよう、辺境伯家にお願いしてみましょう」
ちっとも残念と思っていなさそうな、淡々とした口調でアルトは告げる。そこに古巣に対する一切の情はなかった。その断固とした声に、自分がベムス商会の最後の希望を断ち切ってしまった事を悟って、レアは絶望に包まれた。
「サラナ様、馬車にお戻りください」
「だ、ダメですよ、サラナ様! 会長に怒られますって。俺たちが!」
だが、軽やかな足音と共に、レアの元には救済措置が近づいてきていたのだった。
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