婚約
その日の夜。いつも通りの、エマと二人の食事。
だというのに、俺は緊張でおかしくなりそうだった。
食事の味が全然分からない。エマと話をしていても、その話が全然頭に入ってこない。自分でも顔が強張っているのが分かる。
そんな状態を、エマが気付かないわけがない。
「ファル、具合悪いの? だったら無理に私に付き合ってもらわなくても……」
「い、いや、そうじゃないんだ……!」
お互いの呼び名が変わると同時に、言葉遣いからも敬語が抜けていった。最初の頃はこんな話し方に緊張していたのに、今ではごく自然に話をしている。
改めて、エマと一緒に過ごしてきた時間を思い返して、俺は決意した。立ち上がり、エマの側に行って跪く。
「ファル……?」
「エマ。……どうか、俺と婚約して下さいませんか?」
「……………ぇ……」
「ずっと、エマを見てきた。エマは尊敬できる、俺にはもったいないくらいの人で……、エマがいたから俺もここまで頑張れた。これからもずっと、エマの側にいて、見ていたいんだ」
言い切った。
もう自分でも何を言いたいのか分からなくなっていたが、それでも言い切った。あとは、エマの返事を待つだけだ。
「…………………」
エマは何も言わない。ただ俺の顔をジッと見ている。
でも、予想できる。きっとこの後、エマは……。
「……………っ……」
涙を、こぼした。ボロボロと。俺の予想した通りに。
立ち上がって、手を伸ばす。少し緊張しつつも、その手をエマの背中に回して、抱き締めた。
抵抗はなかった。
素直に俺の胸にすがったエマに、俺はもう一つ言うべき言葉を、口にした。
「エマ、好きだ。……愛してます」
エマの手が、俺の服を握った。なぜか、クスッと笑う声がした。
「……そんなこと言われたら涙が止まらないって思ったのに、ファルの心臓の音がすごいから、すっかり引っ込んじゃった」
「緊張してるんだ……。勘弁してくれ」
自分でも情けない声に、エマはもう一度クスッと笑った。腕を突っ張って、俺から離れようとしているのを感じて、俺も手を離す。
俺から一歩だけ離れると、エマはそのドレスの裾をつまみ、綺麗な礼をしてみせた。
「婚約、お受け致します。……私も好きです、ファル」
「……ああ、ありがとう」
そして、俺はもう一度エマに手を伸ばす。エマも手を伸ばしてきた。お互いに抱き締め合った温もりが、俺たち二人の出発点だった。
*******
それから正式な婚約発表までは、時間を要した。
口頭で俺の父に許可は取っていたとはいっても、それを正式なものとするには時間がかかる。
お互いの国の行き来に掛かる時間も含めて考えると、数ヶ月後のエマの誕生日パーティーで婚約発表ができたのは、十分に早いと思う。
「おめでとう、ファルター」
「……兄上」
ブンデスリーク王国の王太子、シルベスト。国王陛下に招待されて、兄がこの場に来ていた。
兄の後ろには、護衛としてハインリヒがいる。本音を言えば、兄に来てほしくなどなかったし、兄よりもハインリヒと話をしたいのだが、まさかそういうわけにもいかない。
「……ありがとうございます」
兄への劣等感がなくなったわけじゃない俺は、怯んで逃げたい気持ちでいっぱいだが、エマの手前、精一杯堂々した態度を取ってみせる。
エマに婚約を申し込んだときとは、また別種の緊張に襲われる。兄に何を言われるのか。嫌味を言われても、貶されても、言い返せる自信はない。
「正直、最初に父上に話を聞いたときは驚いたが……」
けれど、兄は穏やかだった。俺の過去をあげつらって、悪し様に言ってくることはなかった。
「変わったな、ファルター。良い方に変わった。お前の兄として、何もできなかったというか、むしろお前の邪魔にしかなっていなかったらしいというのが、ここに来てやっと実感して、微妙に悔しいのだが……」
兄が背後にいるハインリヒをなぜか睨み、それに対してハインリヒは意味ありげに笑う。そのやり取りの意味は分からない。けれど、兄がそんな事を思っていたことに驚いた。
「頑張れよ、ファルター。もう逃げることは許されないからな」
「分かっています」
そんなことは言われるまでもない。その覚悟がなかったら、エマに婚約を申し込むなど、できるはずもなかったのだから。
俺の返答に満足そうに頷いた兄が、いたずらっぽく笑った。
「それと、虚勢を張るのはいいが、せめて隠せるように努力しろ。見るからにやせ我慢して強がっています、という態度では、相手に侮られる」
「…………頑張ります」
どうやら俺の心の内は、完全に兄のお見通しらしい。
悔しいが、兄の言うとおりだ。エマの婚約者として、将来の王配として、そうそう公の場に出るつもりはないのだが、それでも皆無というわけにはいかない。表情を取り繕ってみせることだって、必要だ。
もう一度兄は頷いた。そして、俺の後ろにいたエマに向き合った。
「エマ王太子殿下、不出来な弟ではありますが、見初めて下さったことに感謝いたします。これからも見捨てることなく面倒を見て頂けると、これ以上ない幸運でございます」
何だそれは、と文句を言いたくなる文言だ。
俺の不満には気付いているだろうに、兄は全く意に介することなく笑みを浮かべている。
そんな兄に対して、エマも似たような見事な作り笑いを浮かべた。
「とんでもありません。私の方こそ、ファルター殿下にお会いできたことは僥倖でした。見捨てられないよう頑張るのは私の方ですし、面倒を見て頂くのも私の方です。シルベスト王太子殿下にとっては不出来かもしれませんが、私にとっては最高のお方です」
兄が意表を突かれた顔をした。珍しかったが、それを堪能できる気持ちの余裕はない。
「……エマっ! 頑張らなければいけないのは俺の方だし、俺が不出来なのは確かだし……」
「嘘じゃないもの。ファルが側にいるから、私も頑張れるの」
「……それは知ってる」
ようするに「最高の方」と言われたことに、激しく動揺しただけだ。まだまだそう言われるほどに、成長できたとは思えない。
けれど、俺たちのやり取りに、兄が安堵の表情を浮かべた。
「お互いに必要とし合っているんだな。……どうか、ファルターをよろしくお願い致します」
「はい。ありがとうございます」
この瞬間、兄が本当の意味で、俺の婚約を認めてくれたことを悟った。そしてきっと、俺自身のことも、認めてくれたのだ。
ずっと、兄への劣等感に苛まれてきた。
父に反発して、父の決めたマレンとの婚約を破棄して、マレンの妹のピーアと婚約して、盛大な勘違いから父に最後通告を突きつけられた。
そのピーアも、俺を見なかった。最後には暴走して平民に落とされて、辺境のダンジョンに送られた。俺は何もできなかった。
兄から離れた場所で頑張ると決めて来た、グランデルト王国。そして、エマに出会った。父への反発でもなく、兄への劣等感でもなく、本当の意味で俺自身が決めた、俺の歩む道。
エマに手を差し伸べると、その手を重ねてくれる。
これからもきっと色々あるだろう。壁にぶつかって歩けなくなるときだって、きっとある。でもこの手があれば、俺は頑張れる。壁にぶつかっても、乗り越えて歩いて行ける。
目と目が合う。エマ殿下が笑う。俺も笑い返した。
これで終わりです。唐突に始まった番外編の投稿でしたが、お読み下さりありがとうございました。