呼び名
それから、やはりと言ってはなんだが、すぐ婚約を申し込むには至らなかった。ただ、確実にエマ殿下との距離は近づいていった。
「ファルター殿下。次の学校の休みに、気分転換に街へ出かけてみませんか? いつも勉強ばかりですから」
いつもの二人の食事の時、エマ殿下に誘われた。
だが、俺は首を傾げた。
「王太子殿下が、簡単に街へ出かけられるのですか?」
王族が出かけるのは大変だ。学校への通学は毎回のことだからいいが、突発的に出かけようとしても護衛やらなんやらが必要になるし、王族が出かけるとなれば、街にもその通達が必要だったりするのではないだろうか。
「護衛はもちろんつきますが、お忍びです。ですからその、歩いて出かけることになります。母からの許可は出ています」
話を聞くと、王都の治安は安定しているので、そうそう問題が起こることはないらしい。万が一があるから護衛はつくが、お忍びでの街への外出は、民たちの生活に触れることのできる良い機会とされているそうだ。
ちょっと驚いた。果たして父や兄はどうだったんだろうか。例えお忍びで出かけていたとしても、俺が知ることも知らされることもなかっただろうが。
「分かりました、エマ殿下。俺も街がどんな感じか興味があるので、ぜひご一緒させて下さい」
「はいっ、ファルター殿下。よろしくお願いしますっ!」
俺の返事に、エマ殿下は大げさではないかというくらいに、声が弾んで笑顔を見せる。何かあるんだろうか、と聞いてみようと思ったら、その前にソフィアが口を出してきた。
「良かったですね、エマ殿下。初めてのデート」
「「…………………」」
固まった。エマ殿下も固まっている。
デート……そうなのか。そうか、そういう単語は知っていても、ピンとこない。そうか。デート、なのか。
そんな何も言えない俺たちに、ソフィアがさらにとんでもないことを言い出してきた。
「外を歩かれるのでしたら、呼び名はどうにかしたほうがよろしいと存じます。お互いに"殿下"呼びしていたら、あっという間に正体がばれますよ」
「……そ、そうかもしれないけど、大声で言わなければ、周囲には聞こえないでしょう?」
エマ殿下が若干どもっている。俺も頷いた。そもそも、どうにかってどうしろというんだ?
だが、当のソフィアは朗らかな笑顔を浮かべたままだ。
「あら。エマ殿下は、ファルター殿下にもっと親しく呼ばれたいとはお思いになりませんか? はっきり言うのなら、呼び捨てにされたいと」
「呼び捨てっ!?」
「はい。それにファルター殿下のことも、もっと親しく呼びたいとは思われませんか? 敬称なしで呼びたいと」
「そ、それは……その、ファルター殿下が、いいと仰って下されば……」
エマ殿下は小さくつぶやくと、赤くなってうつむいてしまった。声は小さくても、しっかり聞こえてしまった。ソフィアが、俺に笑顔を向けて「さあどうぞ」と口元が動いた。
……何かどうぞだ? そもそもだ、俺がエマ殿下を呼び捨てで呼ぶなど、失礼極まりない話じゃないか。
「え、と、俺のことは、エマ殿下の、呼びやすいように、呼んで下されば……」
冷静そうに考えてみた所で、実際には顔は熱いし、赤くなってうつむいているエマ殿下の様子に動揺しているしで、つまりは俺も頭の中が真っ白なわけだ。言葉遣いが少々怪しくなって、途切れ途切れになるくらいはする。
だというのに、ソフィアの奴は容赦がなかった。
「ファルター殿下、言い直しです」
「はあっ!?」
「エマ殿下のことを、呼び捨てなさいませ。もう一度です」
「……あ、あのなっ!?」
お前侍女だろ、そこまで口出ししてくるな、という文句も頭の隅によぎるのだが、それ以上にエマ殿下を呼び捨てにするということに狼狽する。
「エマ殿下はこの国の王太子殿下だ! 俺がそんな呼び方をしていいはずが……」
言いかけた言葉は、途中で切れた。……エマ殿下がすがるような目を向けてきたからだ。
「……その、呼び方は、エマ……の呼びやすいように……」
「は、はいっ。……その、ファル、でもいいですか……?」
真っ赤な顔でうつむいたまま、目を上向きにしてくる顔がすごく可愛い……じゃなくて。
ま、まあ、父にもファルと呼ばれたことはある。だから、ダメということはない。ないはずだ。
「か、構いません……」
こんなやり取りを経て、街中の散策を楽しんだ。
この呼び方は外出時だけだと思っていたのに、なぜかその後もお互いにそう呼び合うようになっていた。
******
俺が留学して一年が過ぎて、二年目に突入した。
この二年目の最初にもテストが行われた。緊張しながらも、手応えを感じたテスト。その結果。
「ファルター殿下。この一年、よく努力なさいましたね」
忙しい合間にも、俺の勉強を見てくれたバウムガルトナー教師からかけられた言葉に、俺は泣きそうになった。
見て取れるほどに、成績が上がっていた。一年、真面目に勉強に取り組んできた。その成果が、しっかり出ていたのだ。
エマはもっと成績が上がっていた。俺が何とか中の上レベルなのに対し、エマは上位レベルだ。仲の良いご令嬢たちに囲まれて、エマは泣いていた。これまでずっと続けてきた努力が、やっと実ったのだ。
「ファルター殿下、頑張りましたね」
「ありがとう。お前のおかげだ、エリアス」
「少しは自信を持てましたか?」
俺の勉強を見てくれた筆頭は、こいつだ。
その男から少し笑いをにじませて言われた言葉に、俺は一瞬息が詰まった。エリアスの視線の先は、エマだ。泣きながら笑っている。
ふと、エマが俺の方を見た。心の底からの満面の笑顔を俺に向けてきて、俺も笑い返す。
「……そうだな」
いい加減、約束を果たすときだと、そう思った。