持つべきものは友
国王陛下ご夫妻、そしてエマ殿下との食事会から二週間。
あれから俺とエマ殿下は少なくとも表面上は変わったこともなく、今まで通りに過ごしている。つまりはまあ、食事はほぼ二人で一緒にしている、ということなのだが。
国王陛下は、あれから婚約の話を出してこない。エマ殿下に任せると言ったように、口出しするつもりはないのだろう。
エマ殿下も何も言わない。その代わりじゃないが、周囲にいる者たち……王宮の侍女たちの方がヤキモキしているようだ。
夜、「いつもと道が違うな」と思いながら、ソフィアに誘導されるままに歩いていたら、ばったりエマ殿下と遭遇したことがある。
その時のエマ殿下は、すでに夜着姿に着替えていて……。衝撃を受けすぎて、その直後からの記憶が曖昧なのだが、部屋に戻った後のソフィアとのやり取りは覚えている。
『エマ殿下の部屋に夜這いに行くなら、ご案内しますよ?』
『行くかっ! っていうか、わざとか!?』
侍女たちが結託して、こんなとんでもない力業を仕掛けてきたときもあった。エマ殿下から侍女長に話がいってこっぴどく怒られたらしく、翌日にはシュンとして謝ってきたが。
そんなことを思い出して大きくため息をついていたら、目の前にいる男の存在を忘れていた。
「人がせっかく教えて差し上げているというのに、そのため息はなんでしょうか?」
「……す、すまない、エリアス」
教師を目指しているエリアス。その練習台と化している俺は、今日も勉強を教えてもらっていたのだが、意識が完全に逸れていた。
「今日はやめましょう。集中できないようですから」
「あ……いや、悪かった」
相手にどんな思惑があったとしても、教えてもらっているのはこちらだ。それなのに、俺は確かに集中できていないし、できるとも思えない。「教えてくれ」と食い下がっても、エリアスに失礼になるだけだ。
「別に構いませんけどね。何があって、そんなに上の空なんですか?」
「……あぁまぁ」
エマ殿下との婚約話に悩んでいます、とは言いにくい。
王配の座を狙っている貴族の子息だっているだろう。その座を、いきなり現れた男に奪われそうになっている、なんてことが知られたら、どう思われるのか。
「ファルター殿下、一つ伺いたいのですが」
「ん?」
「エマ殿下との婚約は、いつになるのですか?」
「……………………ん……?」
今、なにを言われた?
「そんな不思議そうな顔をされても、私の方が困るのですが。エマ殿下と婚約なさるのでしょう? そろそろかと思っているのですが、発表がないものですから気になりまして」
「……………?」
だから、なんの話だ?
「お答えできないなら、それでも構いませんが。……ですから、なぜそんなに不思議そうなのですか? 婚約されるんでしょう?」
「…………っ……!?」
ようやくここで話を理解した。なぜかもう婚約が確定している前提になっている!?
「……い、いやいや、してないぞ!?」
「ですから、するんでしょう?」
「しない! ……いや、打診はされているが」
言い切った後に、なぜかエマ殿下の笑顔が浮かんできて、ごまかすように言葉を付け足す。罪悪感が半端ない。
その一方、エリアスはポカンと口を開ける、という珍しい表情をしていた。
「打診されているだけ? まだ婚約確定していないんですか?」
「してない!」
「なぜ?」
「……いや、なぜと言われても」
俺が答えの先延ばしをしているからだ。というか、一度は断ったのに、それを翻さざるを得なかったのだが。
完全に個人的な感情の事情なので、エリアスに説明するには躊躇う。説明したところで、この男に理解してもらうのはムリだろう。自分というものをしっかり持って、将来に邁進できるこいつは、俺やエマ殿下とは対極だ。
「国王陛下が、エマ殿下の婚約者はファルター殿下だと、仄めかしていらっしゃるようなんですよね。今まで仄めかしすらなかったから、私の父も含め、貴族たちがいよいよ本決まりかと浮き足立っています」
「……なんだって?」
「ファルター殿下は勉学のための留学ですから、あまり貴族たちと交流していないでしょう? ですから、ファルター殿下はどういう方かと、父に聞かれたんですよ」
「……い、いや、ちょっと待ってくれ」
「で、こういう方だと説明すると、概ね好意を持ったようです。私が父に話したことが、貴族たちにも知れ渡っているようですしね」
「…………………」
こいつはどういう説明をしたのか、というのも気になってしょうがないが、問題はその前だ。
「……陛下が、仄めかしている?」
「そうらしいですよ。私も父に聞いただけですが。これまでエマ殿下の婚約者の話は、何を聞いても答えがなかった陛下が、そんなことを言うんです。それだけ話の信憑性は高い、と受け取っているようです」
俺は返事を保留しているのに、貴族たちにはそれが確定事項として知れ渡っているのか? ……もしかして、俺が断りにくくなるように、外堀を埋めている?
「驚きました。まだ発表がされていないだけで、決まっていると思っていましたので」
「……俺も驚いた」
大きく息を吐いた。陛下にとって、俺はそこまでするほどの相手なのだろうか?
分からないと言えば、目の前の男もそうだ。他国からきたぽっと出の男に、王配の座を取られても平気なのだろうか。
「……お前は、もし俺が本当にエマ殿下と婚約するとしたら、どう思うんだ? こんな頭の悪い男にその座を取られて、嫌じゃないのか?」
「別に。私はエマ殿下の婚約者の座につきたいと思ったことはありません」
「……まあ、そうか」
なんか頷けてしまった。こいつは、そういう奴だ。
「エマ殿下の婚約者、つまり将来の王配の座は、非常にその立ち位置が難しいと言われているんですよ。ですから一部の野心家を除き、積極的に立候補する者も現れておりません」
「……難しい?」
ドキッとした。
実際の所、俺は女性が王の座につくということが、男が王になることとどう違うのか違わないのか、よく分かっていない。同様に、その配偶者である王配も、王妃とどう違うのかも分かっていない。
王配というのが難しい立ち回りなどが必要となるのであれば、ますます俺に向いているとは思えなかった。
「その原因は、エマ殿下ご本人ですけどね。失礼を承知で申し上げるなら、エマ殿下は頭が悪い。その配偶者に下手に能力の高い男がなってしまうと、最悪エマ殿下が傀儡になりかねない。傀儡政権って歴史上あまり良いことがありませんから、平穏を望む貴族は避けたい道なんですよ」
「い、いや……え?」
想像とは話が違う気がする。
エマ殿下は頭が悪いわけじゃなく、単に進み方が分からなかっただけだ、という反論が頭に浮かぶが、それを言ってもこの男に冷たい目で見られるだけな気がする。
「そういう点、ファルター殿下も頭が悪いですから、エマ殿下を傀儡にするのは無理でしょう。ですが、他国の王子殿下であり強固な後ろ盾があるから、そうそう手が出せる相手でもありません。まさに、我が国からしたら理想的な王配というわけです」
「…………………」
撃沈した。
そうか、難しい立ち位置ってそういう意味か。その難しい点を、俺はあっさりクリアしているわけか。
エマ殿下を傀儡にできる能力があるわけではない。だからといって、野心家の貴族たちが引きずり下ろそうとするには、俺の他国の王子という身分が邪魔をして難しい。穏健派の貴族にとっては、これ以上ない相手というわけだ。
納得できてしまった自分が悲しい。おそらく、陛下にもエマ殿下のためというだけではなく、そういう考えもあるんだろう。この国のためになるという点で、確かに俺は陛下が「そこまでするほどの相手」なわけだ。
「参ったな……」
俺みたいな出来損ないがエマ殿下の側にいたらダメだと思っていたが、少なくとも政治的には問題ないらしい。けれど、これからエマ殿下は伸びていく。もう傀儡云々を気にする必要もない以上、俺である必要もないのだ。
「ファルター殿下は、婚約に対して消極的ですか? 故国に婚約者がいるわけではありませんよね? もしそうであるなら、条件がいくら揃っていても、婚約の話が出るはずがありませんから」
「…………………確かに、いないけどな」
いないのは確かだが、いなくなった経緯を思い出してしまうと言葉が詰まる。全部俺のやらかしたことだ。だからといって言葉を詰まらせたままにしていたら、こいつにツッコまれそうな気がして、とりあえず気を取り直した。
「いなければいいというものじゃないし、条件が合っていればいい、というものでもないだろう。俺が王配になったところで、エマ殿下の足手まといになるだけだろう」
「足手まとい……?」
同意が返ってくると思っていたのに、なぜかエリアスは怪訝そうな顔だ。
「何かおかしいか?」
「おかしいと言いますか……、ファルター殿下は政務に介入するおつもりでもあるのですか?」
いきなり変なことを言い出した。
つもりも何も、そんなことができるわけがない。それは、俺に勉強を教えているこいつが一番よく分かっていると思うのだが。
「俺にできると思うのか?」
「全く思いません。ですが、それを殿下もお分かりなら、なぜ足手まといなどと仰るのですか? 介入するつもりがないのであれば、足手まといになることもありません」
「……いや、そういうことじゃなく」
俺が言いたいのはそういうことじゃない。実務レベルで役に立てるなど、最初から思っていない。
こういうとき、頭が悪いというのは不利だ。ふさわしい言葉が、すぐに出てこない。
目を泳がせる俺を、エリアスは急かすことなく黙っている。最初の頃は、こんなに待ってなどくれなかったなと思う。
「……その、な、俺みたいのがエマ殿下の側にいても、迷惑だろうな、と」
何とか言葉を絞り出した。これが一番俺の気持ちに近いように思う。ふと、なんで俺はこんなことをこいつに話しているんだろうなと思った。
「迷惑? なぜ?」
「い、いや、なぜって……分かるだろう?」
何で疑問に思われるのか、そっちの方が不思議だ。
何回でも言うが、こいつはずっと俺に付き合って勉強を見ている。俺の出来損ないっぷりを、誰よりも知っているのだ。
「ちっとも分かりませんね。ファルター殿下に政務に介入するつもりがないのですから、勉強の出来る出来ないは、何も関係ありませんよ。エマ殿下がファルター殿下を必要とされているのは、誰にだって分かります。それなのに、なぜ迷惑という話になるのですか?」
「……これからエマ殿下はどんどん伸びていく。最初ほんの少し手を貸しただけの俺を、いつまでも必要とはしないだろう」
国王陛下にも似たようなことを言ったが、陛下は何も言ってくれず、話を受け流された。
はあ、と大きなため息が聞こえた。
「思った以上に馬鹿ですね、ファルター殿下。その『最初、ほんの少し手を貸しただけ』がどれほど大きいと思っているんですか?」
「……え?」
仮にも他国の王子である俺にはっきり「馬鹿」と言い放たれて落ち込みそうになったが、その後の言葉に聞き返す。
「最初の一歩を踏み出すまでが、一番大変なんじゃないですか。そこを越えるのを一緒に支えてくれた人を、必要ないと思える日なんか絶対に来ません」
「え?」
「一歩を踏み出した後も、越えるべき壁にはいくらでも当たるでしょう。くじけそうになるかもしれませんが、そんな時に思い返すのは、最初の一歩を支えてくれた人のことです。支えてくれた人に恥じない自分になるために、負けないぞと頑張れるんです。その人が側にいてくれたら、この上なく心強いでしょうね」
「………………………」
だが、とか、でも、とか口に出したくなるが、それ以上の言葉が出てこない。
怖いんだと、側にいて欲しいんだと、そう言っていたエマ殿下が頭に浮かんでしまって、反論が出てこない。
「ファルター殿下は、少なくともエマ殿下に対しては、もっと自信を持って良いと思いますよ。他の誰も……陛下すらも分からなかったエマ殿下の気持ちに、殿下は寄り添ったんです」
エマ殿下の笑顔が浮かぶ。婚約を受け入れたわけでもないのに、「考えてみる」という返事だけで、安心したように笑っていた。
「……エリアス、ありがとう」
自然と、その言葉が口をついて出た。
「これまで、どうやって断ろうかとしか考えていなかったが、少し前向きな気持ちになれた。感謝するよ」
「どういたしまして。王子殿下に説教するなんて、なかなかない貴重な機会でした」
「……お前、普段から俺に言いたい放題だろうが」
俺にできる精一杯を頑張る。そうハインリヒとマレンに告げたのは、俺自身だ。
誰の何の役にも立てない俺にも、できることがあるなら。俺が側にいることで、エマ殿下が笑顔でいられるなら。
今すぐ婚約を受け入れるのは無理だ。俺にはその自信がない。けれど今、エマ殿下のために頑張りたいと、確かにそう思ったのだ。




