投下
それからさらに一ヶ月が過ぎた。
エマ殿下は今までと見違えるように明るくなった。よく笑うようになって、同級生たちと話をするようになっている。まだまだ成績は下位ではあるものの、上昇の兆しが見え始めているようだ。
俺はというと、ある一人の男と話すようになった。
エリアス・フックスというその男は、ある日俺が教室で問題とにらめっこしているときに話しかけてきた。
『そんなの、難しくも何ともない問題だと思いますが』
顔を上げてみれば、そこにいたのはフックス侯爵家の三男。常に上位の成績をとっている貴族の子息だ。
俺がこの学校に入学した頃、一番話しかけてきた奴でもあるが、最近では俺を見ても必要最小限の礼儀を示すだけで、ほとんど無視していた男だ。
『すまない。迷惑はかけないようにするから』
わざわざ話しかけてきたのは、頭の悪い奴が授業の邪魔になることが嫌だったから、釘を刺してきた。そういうことだろうと思って謝罪を口にしたが、そいつは顔をしかめた。
『違いますよ。そんなことで話しかけるほど、暇じゃありません』
面倒そうに言うと、その問題の解き方を教えてくれたのだ。
『これで分かりますか?』
『分かる、と思う。が、なぜ?』
エリアスというこの男は、俺のこともエマ殿下のことも、下に見て無視していた。それがまさか、向こうから教えてくれるなど、思うはずもない。
『私は教師を目指しているんです。そして、最近のエマ殿下やファルター殿下を拝見していて、なぜ自分が教師を目指したいと思ったのか、それを思い出しました。そのお礼と思って下さい』
『……よく分からないのだが』
『構いません、私個人の事情です。聞きたいことがあれば、伺いますので聞いて下さい。バウムガルトナー教師も忙しいですから、いつも多くの時間を割くのは難しいでしょう? 私もいつも暇なわけではありませんが、可能な限りお付き合い致します』
こんな会話をしてから、少しずつ話すようになった。そして本当に色々教えてくれた。
最初は、一方的にただ教えてもらうしかできないことに「申し訳ない」という気持ちが強かったのだが、ある出来事があってからは、気にしなくなった。
バウムガルトナー教師よりよほどスパルタなこの男。泣きたくなったことは一度や二度ではないし、実際に泣いてしまったこともある。
その時、この男はこう言った。
『このやり方じゃ駄目なのか』
何のことか分からなかったが、その後から少し教え方が優しくなった。
要するに、教師という自分の将来のための練習台として、俺を選んだのだ。そう思えば、遠慮するのもバカらしくなる。
こんな経緯を経て、俺にもエリアスにもその意識はないが、周囲から見ると友人関係に見えるらしい男との交流が始まった。
*******
この一ヶ月でエマ殿下との関係も少し変わった。
「ファルター殿下、食事に行きましょう!」
ほぼ毎日、エマ殿下から食事に誘われるようになった。仲の良い友人が出来たようなのに、必ず俺を誘ってくる。
あの日までは放課後の図書館でしか顔を合わせて話をすることはなかったから、話をする機会が確実に増えている。
「他の方々はいいのですか?」
「私はファルター殿下と食事をしたいのです。……駄目でしょうか」
「……い、いえいえ、そんなことはありません!」
「良かった……!」
俺の言葉にエマ殿下が落ち込んで、落ち込んだ殿下に俺が慌てて否定する。そして、エマ殿下に心からの笑みを向けられて俺が降参する、というのが一連の流れだ。
すでに王宮では、一緒に食事をするものだとされていて、当たり前のようにその場が整えられてしまうようになった。
時々、国王陛下や王配のレオン殿下、弟のリアム殿下が同席されることもあるが、ほとんどは二人での食事だ。
この状況には、戸惑うしかない。次期国王であるエマ殿下の隣に、俺みたいな出来損ないの男がいていいものなのか。
驚いたことに、エマ殿下には婚約者がいない。リアム殿下にはいるのに、王太子であるエマ殿下にはいないのだ。
母親でもある国王陛下が「無理に婚約しなくてもいい」と仰っているそうだが、婚約者が不要なはずがない。
陛下がどういうおつもりかは分からないが、いつまでも婚約者なしというわけにはいかないだろうと思う。その時、俺みたいな男が近くにいれば、エマ殿下の不利になるだけだ。
何も言われたことはないものの、国王陛下ご夫妻は俺の成績が悪いことくらいご存じだろう。どう考えたところで、跡取りの側にいさせていい人間だとは思えないのに、俺に近づくエマ殿下を止める様子がない。
俺自身が断れれば一番いいのかもしれないが、エマ殿下の笑顔に白旗を揚げ続けている現状で、断れるはずもなかった。
「あ、あの、ファルター殿下」
「はい?」
結局二人で昼食を摂ることになった。普段であれば、何が楽しいのか笑顔で食事をしているのだが、今日は食事に手を伸ばさない。妙に緊張した面持ちに、何だろうかと思う。
「あの、まだ何ヶ月も先の話なんですけど、私の誕生日パーティーが開かれるのです」
「そうなんですか」
申し訳ないが、誕生日までは把握していなかった。
何ヶ月も先のパーティーがすでに決定されているのも、別に珍しいことじゃない。準備期間を考えれば、必要な期間だ。
「そ、それで、その……」
「……?」
指をもじもじさせている。
少しうつむいた顔は、赤いような……?
「エマ殿下、もしかして体調が悪いのではないですか?」
こう言うのも何だが、人の顔色を窺うのは慣れている。エマ殿下の顔は、明らかに赤い。もしかしたら熱でも出ているのかもしれないと思ったけれど、それは否定された。
「ち、違います! そうじゃなくて……!」
ガバッと音を立てそうな勢いで顔を上げたエマ殿下の顔は、先ほどよりも赤くなっている。
違うと言われても、これでは心配になる。あまり褒められた行為ではないが、額に手を触れていいかを伺おうとしたとき、エマ殿下が先に口を開いた。
「その誕生日パーティーで、ファルター殿下にエスコートして頂きたいんです!」
耳まで真っ赤に染まっておきながら、挑むような目をしたエマ殿下が投下してきた言葉は、あのダンジョン出現の時以上の衝撃を、俺に与えたのだった。




