第九章 枯れ木令嬢と植物園デート
許せない。
ジュリアは生まれて初めて人を憎いと思った。今までどんなに虐待されようとそんな感情を抱いたことなどなかったのに。
ジュリアは両手で口を覆って、ポロポロと涙をこぼした。
ロマンドとロバートはそんな彼女を痛々しい目で見つめた。
そして絶対に彼らをこのままにはして置けないと思った。
もちろん、これはウッドクライス伯爵家のことなので、勝手に事を進めるわけにはいかない。
それでも、伯爵が断罪をする時には協力出来るように準備を整えておこうと、彼らは決意を新たにしたのだった。
やがて馬車は森の中の道へ入って行った。ジュリアは窓から身を乗り出して外を覗いた。
「男爵様、も、森です。な、何故こんな都会の中に森があるのですか?」
「この国が大昔は一面の森に覆われていたことはご存知ですか?」
「はい。森の精に守られていたと学びました」
「はい。今もそれは変わらないのですよ。王城や地方の主要な土地は森で覆われています」
「でも、王城は街の中心部からも見える丘の上に聳え立っていますよね?」
ジュリアはロマンドの方に向き直ってこう尋ねた。
すると、彼はクスクスと笑いながらこう言った。
「貴女はまだ社交前だからご存知ないでしょうが、みんながお城と呼んでいる建物は迎賓館なんですよ」
「迎賓館? 他国のお客様をお迎えする所ですか?」
「そうです。
王族の住む本物の城や国の中央機関がある役所はこの森の中にあるんです」
「でも、あの丘の上の建物の門塀の前では近衛隊が常駐していますよね? 真っ赤な騎士服を着て……」
「この国の近衛隊の制服はモスグリーンカラーですよ。
あの赤い騎士隊は民間傭兵ですよ。つまり観光用のパフォーマンスです」
ロバートの説明にジュリアはポカンと口を開けた。
王都に来て二年も経つというのに、自分の国の城を勘違いしていたなんて恥ずかし過ぎる。
もっとも、屋敷と市場の往復しかしていないので、王都や国の実情などわかりようがないのだが。
しかし、何故街の人達(市場で知り合った)はみんな、あの丘の上の建物を『お城』だと呼んでいるのだろう……
「恥ずかしがることはないですよ。
地方だけでなく王都の殆どの人達でもあの迎賓館を本当に城だと思っていますからね。
敵から本物の城や政府機関を守るためのカモフラージュです。
本当に城に入れるのは魔法登録している一部の人間だけなんですよ」
「そうだったんですか」
やがて森の奥で馬車が停まった。
ジュリアがルフィエに手を取られて降り立つと、そこは木々に覆われた森の中に、ポッカリと広がった柵に囲まれた空間だった。
そしてそこにはいくつものガラスの温室や、大きな窓のある木造の建物が並んでいた。
樫の木の門塀には『王立植物園』と書かれた大きな板看板が掛かっていた。
✽ ✽ ✽ ✽ ✽ ✽ ✽
植物園からの帰りの馬車の中で、ジュリアはとてもイキイキとしていた。
行く時には家族のことで酷く落ち込んでいたのに。
「男爵様、今日は本当にありがとうございました。
ずっと憧れていた場所に行けてとても嬉しいです。たくさんの元気を分けてもらえたような気がします」
「それは良かった。これから何度でも行けますよ」
「はい。ありがとうございます。
でも、男爵様の農園にも行ってみたいです」
「ええ、是非。
それと、これをお渡ししておきます。伯爵様からの貴女宛の手紙です。
ご自宅へ送っても無駄だとおわかりになったので、我が家へ送られたのだと思います。婚約の契約書に同封されていました」
ロマンドがロバートから渡された手紙をジュリアに手渡した。
ジュリアは震える手でその手紙を受け取って、すぐにその封を切って手紙を読み始めた。
そして、読み終えると、
「お父様……」
と呟いて涙をポロポロとこぼしたのだった。
✽ ✽ ✽ ✽ ✽ ✽ ✽
ジュリアがロマンドと正式に婚約してから一月が経った。
ウッドクライス伯爵家は一見するとなんの変化もないようだったが、実のところ徐々に変わり始めていた。
まず、ジュリアの朝市通いが週六から週五になった。
元々金曜日はルフィエが休日の為に休みであったのだが、そもそもその日だけ別の護衛を付ければジュリアを行かせることができた。
ところが、義母や姉達が自分の護衛をジュリアに貸すのを嫌がったために、代わりの者が朝市へ行っていたのだ。
本当は護衛無しでもジュリアに行かせたかったのだが、彼女を決して一人で外へ出さないようにと、伯爵から厳しく命じられていたのだ。
もしジュリアが危険な目にでもあったらそれこそ許さないと。
そしてプラント男爵と婚約してからは、ジュリアは日曜日は朝のうちからデートに出かけるようになったので、当然朝市へは行けなくなった。
これも、プラント男爵に文句を言う訳にもいかないので、朝市には当然メイドが行くようになっていた。
最初のうち、自分の代わりに朝早くから朝市へ行かされる破目になったメイドに、何か嫌がらせをされるのではないかと、ジュリアは警戒した。
そのメイドは元々金曜日にも行かされていたからである。別の人にすればいいものを。
しかしそのヴィオラという名のメイドを意識して見ていると、性悪使用人の中で彼女も苛めとまでいかないが、嫌がらせをされていることがわかった。
そしていつも苦虫を噛み潰したよう顔をして接してくるからわからなかったが、ジュリアは彼女には酷いことをされたことがなかった。
ある日、ジュリアは思い切ってメイドのヴィオラに声をかけてみた。
「ヴィオラさん、私のせいで週に二回も早起きをさせて朝市へ行かせてしまってごめんなさいね。
しかも女性一人に荷車を押させてしまって」
するといつも無表情なヴィオラが驚いたような顔でジュリアを見た。そしてオドオドしながら言った。
「とんでもありません。本来朝市で買い物をするのはメイドの仕事なんですから。
元々お嬢様がいらっしゃる前は私の仕事だったんです。だから私こそずっと申し訳なく思っていたんです」
……申し訳なく思っていた……
ヴィオラの言葉にジュリアこそ驚いた。
もっと早くちゃんと彼女を意識して見ていれば、彼女には悪意がないことを見抜けたはずなのに。
「それに、私、また朝市へ行けるようになって嬉しいんです。
朝市に行かなくなってから、体の調子が悪かったんです。
夜よく眠れなかったり、イライラしたり、気分が落ち込んだり。
それでずっと辛かったんです。
でも先々週くらい前から、朝市から帰ってくるとなぜだか元気が出て来るようになったんですよ」
ヴィオラがニコッと笑った。初めて見る彼女の笑顔だった。
そう言えば、自分もこの二年近くずっと気分が優れなかったが、それでも朝市へ出かけると少し元気が出ていたことをジュリアは思い出した。
そして今のジュリアは男爵とロバート、そしてルフィエのおかげで見違えるように元気になっていた。
「ねぇ、ヴィオラさん。これから私の友達になって下さらない?
もちろんこっそりでいいのよ。
私と親しくなったのが分かったら、仲間やお義母様達に目を付けられてしまうから……」
屋敷のお嬢様から友達になって欲しいと言われたメイドは、目を白黒させた。
しかし、性悪な人間に囲まれて普段からうんざりしていたヴィオラは、元々清純で真っ直ぐなジュリアに好感を持っていた。
この汚泥の詰まったような屋敷の中で窒息しかけていたメイドは、素直にその手を握り返した。
そしてそれは彼女にとっても、後々救いの手になるのだった。
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