第八十四章 枯れ木令嬢と母の薔薇の刺繍
マダム・フローラがシルキィーの存在に気付いたのは、彼女が雇われて十日ほど経った頃だった。
フローラはジュリアのデビュタント用のドレス制作に集中するために、三か月ほど他の注文を断わっていた。
しかもジュリアのドレスがあまりにも素晴らしかったので、同じドレスを注文する客が増えた。
そのせいで今現在、以前にも増して注文が殺到して、店はてんてこ舞いになっていた。
まあジュリアのドレスに関しては、あれは一点物ですからとフローラは全て断わっていたのだが、同じでなくてもいいから、あれに似たドレスを作って欲しいという要望が後を絶たなかったのだ。
「マーガレットさんって、本当に天才ね。あんな素敵なドレスを思い付くなんて」
フローラはマーガレットを思い出し、涙ぐんだ。あんな素晴らしい人がもうこの世にいないなんて、本当に悔しいわ。
いつか一緒にドレスを作りたかったのに。
そう、二人の娘となるあのジュリアのウエディングドレスを……
そんなことを時折考えながら、フローラは忙しく仕事をしていた。
そのために、お針子などの採用は信頼できる秘書に任せていた。それ故にシルキィーのことも知らなかったのだ。
しかしそんなある日、オーダーメイドではなく、店に置く商品の最終確認をしていたフローラは、春物の新作ドレスを見て吃驚した。
そこに刺されていた薔薇の刺繍があまりにも素晴らしかったからだ。
「ねぇ、これは今までとは少し形の違う薔薇のデザインね。誰が刺したのかしら?」
「勝手にデザインを変えて申し訳ありません。あまりにも素適だったので……」
秘書が慌てて謝ろうとしたが、フローラはそれを制止した。
「怒っているわけじゃないの。とても素晴らしいから、一体誰が刺したのかと思って。これはかなりの腕前よね。そんな人うちにいたかしら?」
「ああ、それは十日ほど前に新しく雇った人です。名前はシルキィーさん。
ウッドクライス伯爵令嬢様のご紹介状を持って来られた方ですわ」
「ジュリア様の紹介状ですって? 一体どんな人なの?」
仕事に忙殺されていたフローラは、秘書からの報告を右から左へ聞き流していたのだろう。そんな話は全く記憶になかった。
そして秘書の話によると……
シルキィーは西の国との国境近くの寒村から、仕事を求めて王都にやってきた中年の女性だという。
その村は織物と刺繍が有名だという。しかし、それが何故国内では知られていないかというと、それらはほとんど西の国へ輸出していたからだという。
薔薇などの花の刺繍をした服や小物は、植物のあまり育たない西の国の人々に非常に人気で需要が高いらしい。
ところが、数年前に西の国では何か揉め事が起きたようで、他国との貿易が禁止になってしまったのだ。
輸出が駄目なら国内で売ろうとしたのだが、知名度が低かったのでどこでも安く買い叩かれてしまって、手間賃どころか原材料の値段にならなかった。
このまま赤字が続くようなら、村そのものが消滅してしまう。
そこで村の商品が、職人の腕がどんなに一流なのか、それを知ってもらうために、一人王都に出てきたのだという。
田舎女が一人で王都へなど無事に辿り着けるはずがない。危ないから行くなと周りに止められたというが、彼女は村のために何かしたいと、それを制してやってきたらしい。
というのも、彼女には村の人々に命を救って貰ったという恩があったからだという。
何でも彼女は四年ほど前、上流の川から流されてきたらしく、村の近くの浅瀬に打ち上げられていたのだという。
そして運良く、通りかかった村人達に助けられたらしい。
その時彼女は満身創痍で、特に頭部から顔の左側面の傷は酷かった。
しかも頭を打ったせいなのか記憶を失っていたという。
村人に甲斐甲斐しく世話をしてもらったおかげで、彼女は九死に一生を得たのだという。
そして回復してから村の人達が刺繍を刺しているのを見て、何かできることを探していた彼女は、試しに刺繍を刺してみた。
すると勝手に手が動き、あっという間に針と糸で素晴らしい薔薇を描き出したのだという。
きっと以前はどこかで刺繍職人をしていたに違いないと皆に言われたのだそうだ。
それ以来彼女はシルキィーという名を村長に付けて貰い、村で刺繍職人として働いていたのだという。
秘書からその話を聞いたフローラは、ドクドクと心臓が大きな音を立てていることに気が付いた。
もしかして、もしかしたら……
四年前、大怪我、記憶喪失、優れた刺繍の腕前……
こんなに素晴らしい刺繍が刺せる人なんてそんなにいるはずがないわ。
フローラはすぐさま店の奥にある工房へ向かった。そしてさらにその一番奥に位置する刺繍職人達の居るスペースへ歩を進めた。
そこには二十人ほどの女性達が、ドレスやスカーフやバックなどに刺繍を刺していた。
フローラは大きく深呼吸してから、彼女達に向かってこう尋ねた。
「こちらにシルキィーさんって方はいらっしゃるかしら?」
すると一番奥に座っていた女性が顔を上げてフローラを見た。確かにそれは知らない顔だった。
長い黒髪で顔の左側を覆って、少し異様な風貌をしていた。
苦しい生活をしていたのか、見えている右側の顔は皺があり、酷くこけていた。そして体全体が痩せていて、まるで枯れ木のようだった。
枯れ木……
思わず浮かんだ言葉にフローラは体を震わせた。
もしかして彼女はジュリア様のお母様、マーガレットさんなの?
シルキィーという女性は異様な風貌はしているが、言葉使いも仕草もとても上品で、まるで元貴族だったのではないかと思う程だと秘書は言っていた。
フローラの記憶に残っているマーガレットとは、風貌に関してだけは随分隔たりがある。
しかしあれから十年も経っているのだ。彼女の過酷であったろう人生を思えば、それも自然のことかも知れない。
しかも大事故に遭って大怪我を負ったというのなら尚更。
「私がシルキィーです。何かご用でしょうか?」
シルキィーは立ち上がり、いきなりやってきた見知らぬ女性を見つめながら尋ねた。
名乗らなくてもその風貌で、その女性がここの女主であることを察したようだった。
「私はフローラ=カーラー。この洋裁店の主です。はじめまして、シルキィーさん」
「はじめまして、カーラー様。
この度はこちらに採用して頂きまして、誠にありがとうございました。
しかも寮にまで入れて頂いて、本当に助かりました。深く感謝しております」
シルキィーは丁寧に頭を下げると、彼女の見かけに反し鈴を転がすような可憐な声で挨拶をした。その声は、正しくマーガレットの声だった。
もしかしたらが確信に変わり、フローラは喫驚し、目を大きく見開いた。そして思わず名前を呼んでいた。
「マーガレットさん……」
と。
そして怪訝な顔をしたシルキィーの手を取って、フローラは彼女を工房から連れ出し、自分の私室へと誘った。
「カーラー様、私にどのようなご用なのでしょうか?」
シルキィーは先程答えてはもらえなかった質問を繰り返したのだった。
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