第八十三章 枯れ木令嬢と厨房
嵐の前の静けさとも言える、ホワン!とした話の章です。
実はジュリアはプラント男爵家にお世話になる以前から、男爵家にやって来る度に時間を見つけては厨房に入り浸っていた。
そして料理長から料理を学びながら下準備や洗い物などの手伝いをしていた。
伯爵令嬢であり、いずれこのプラント男爵家の夫人になるジュリアを、厨房に入れるなんてとんでもないと料理長は言った。
しかし、元々市井で暮らしていたジュリアは料理好きだった。
どうせ働かされるのなら、ウッドクライス家でも厨房に入りたかったくらいだ。そうすれば盗み食いもできたかもしれないし。
ところが、高位貴族の屋敷では、女性を厨房の中には入れないのだ。たとえ皿洗いのためでも。
だが、下位貴族ではそもそも使用人の数が少ないので、専門の料理人を何人も頼めるわけではない。それ故に、女性の使用人が厨房で働くことも普通だった。
だから何の問題もないとジュリアは言った。
それにジュリアはまだ結婚前だというのに、既にロマンドからカフェレストランを贈られている。ロマンドの愛情が現れている、その名もズバリ『ジュリア・ガーデン』という店を。
つまりジュリアはレストランオーナーなのだ。それ故、
「責任者が料理のことを何も知らないようでは困るでしょう? だからきちんと学びたいの。
お仕事のお邪魔にならないように気を付けますから、どうかご教授お願いします」
とジュリアに可愛らしくお願いされて、料理長は断われなかったのだ。しかも、『ジュリア・ガーデン』のシェフは料理長の息子だったので、無関係というわけでもなかったのだ。
そして実際にジュリアに料理を教えてみると、あまりの手際の良さに料理長は舌を巻いた。
料理の経験があると聞いて、クッキーくらいは作れるのかなと思っていたら、自分達平民が普段食べている食事くらいなら、教えなくてもちゃっちゃと作り上げた。
手早くてしかも美味しい。
これは基礎が完全にできている。そう判断した料理長は、すぐに男爵家のメニューの料理の作り方を教え始めたのだった。
そして最近では時折『ジュリア・ガーデン』のシェフも交えて、三人で新作料理を考えたりもしていた。
シェフはオーナーがジュリアで良かったと嬉しそうだったが、彼の父親の料理長は、ジュリアを弟子にできないことが、しみじみ悔しいと思っていた。
もし、お貴族様じゃなかったら、この国初の女シェフになれたかも知れないのにと。
それに最近ジュリアは奥様教育と、ラーメ嬢との勉強会のせいで忙しい。せっかく男爵家に住むようになったというのに、却って厨房には顔を見せなくなったので、料理長はそれを寂しく感じていた。
『ジュリア様に会いたいなぁな』
と、まるでなかなか逢えない孫娘のことでも考えている風の料理長の所へ、久しぶりにその本人がやって来た。そして彼女はこう言った。
「料理長、朝のお仕事が終わったら、お昼の仕込みが始まるまでの間、厨房をお借りできませんか?
大切な方々に私の手作りランチを食べて頂きたいので。
できれば料理長にも手伝ってもらえると助かるのですが」
それを聞いた料理長は大喜びしたのだった。またかわいい弟子に料理を教えられると……
もしその料理長の満面の笑みを見たら、おそらくジュリアの婚約者と父親はきっと嫉妬したことだろう。
こんなかわいい天使にお願いされるなんて羨ましいと。たとえそれが自分達のために作ってくれるランチのためだったとしても。
こうしてジュリアはその後毎日厨房で四人分のランチを作り、それをロバートに運んでもらうようになった。
その届け先は城だったりウッドクライス伯爵邸だったり、特殊部隊の本部だったりと色々で、ロバートにはとても迷惑をかけてしまった。
しかしロバートは笑ってこう言った。
「ジュリア様に頼まれ事をされるなんて私は幸せ者です。旦那様の悔しい顔を見られるのは気分がいいですし、私までご相伴に預かれるのですから。
ですから申し訳ないなどとは思わないで下さいね」
と。
何故ロマンドが悔しがるのかジュリアにはまだ理解できなかったが、ロバートの迷惑になっていないのなら良かったと素直に思った。
「それでランチの評判はどうでしょうか? 忌憚のない意見が知りたいのですが」
ジュリアがそう尋ねると、さすがは貿易担当の秘書であるロバートは、
「別々の料理を作るのは実質無理だということを踏まえて発言させて頂きますが……」
と前置きをしてから、忖度無しの的確な指摘をしてくれた。
人はこなしている仕事によって好む食事や量が違うという基本中の基本を指摘してくれた。
つまり体力を使う仕事をする者は、事務仕事をする者よりも主食となる穀類が多目で、肉類のあるボリュームがあるメニューの方がいい。
年配の者は量よりバランスがよく、さっぱりしたものが好まれる。
ただしどちらにも共通していることは肉類と野菜は等しく必要だ。
つまりそれまでジュリアが作っていたランチは、ロマンドやルフィエにとってはおやつ程度の量であり、ハーディスにとっては少し胃に重いものだったということだ。
それが分かったジュリアは、ロバート用に考えたランチを基本にして、ロマンドとルフィエにはその倍の分量にすることにした。
そして父親のランチの量はそのままでも、あまり油の使わないあっさりしたおかずを作ることにしたのだった。
その結果、ハーディスはメニューが胃に優しいものに変わったことにホッとし、ルフィエは昼食を二度取らないで済むようになったことを喜んだ。
そしてロマンドはジュリアの愛情ランチに増々幸せを感じ、同僚達に自慢しまくっていたのだった。
✽
そして、ジュリアが四人分のランチを作り始めた頃のこと。
市場にある花屋の開店準備をしていたヴィオラが屋敷に戻ってきて、ジュリアにこんな報告をした。
「ジュリア様、今日お店にシルキィーさんがいらしたんですけど、『マダム・フローラ』で雇ってもらえることになったそうです」
「まあ! それは良かったわ」
ジュリアはそれを聞いて喜んだ。
シルキィーという女性には直接会ったことはないが、ヴィオレから話を聞いてから気になっていたのだ。
シルキィーは西の国との国境近くの村から、仕事を求めて王都に出てきたという中年の女性だ。一昨日花屋の店先に倒れていたのを、ヴィオラが見つけて世話をしたことで縁ができたのだ。
最初彼女は乗り合い馬車で王都まで来るつもりだったようだ。
しかし、途中で料金が足りなくなったと言われて、途中で一人降ろされてしまったらしい。
そしてそこから二日かけて歩いてやっと王都まで辿りついたが、ほとんど飲まず食わずだったので、たまたまヴィオラの店近くで倒れてしまったのだという。
ヴィオラはその女性を、開店準備中の花屋の店の休憩スペースまで連れて行って、休ませたり食事を与えたりした。
そしてその日は店に泊まるようにシルキィーに言って、ヴィオラは男爵家に戻ってきた。
そのことをジュリアに報告したヴィオラは、勝手に知らない人間を泊めてしまってすみませんと謝った。
しかし、ジュリアからは怒られるどころか、良いことをしてくれてありがとうと言われてヴィオラはとても驚いた。
するとそんな彼女にジュリアはこう言ったのだ。
「昔、家を出て放浪していた時、私も色々な人に助けてもらえたから、どうにかこうして生き延びてこられたの。
今度は私が、同じように困っている人に少しでも手助けをしたいのだけれど、今私はあまり自由に外へは出られないでしょう?
だから、ヴィオラさんが私の代わりに人に親切にしてくれて嬉しいの。
ねぇ、ヴィオラさん、私に代わってシルキィーさんの仕事を一緒に探して貰えないかしら?」
「ええ、もちろんです。でも、どんな仕事を紹介すればいいですかね? 女性を雇ってくれる所は少ないですからね」
「シルキィーさんに何か得意なことがあれば、探しやすいのだけれど」
「特技ですか? そういえばシルキィーさんが持っていたポーチの刺繍がとても素晴らしくて思わず見惚れてしまいましたわ。
あ、そうだ。お礼だと言ってハンカチを頂いてしまったのですが、それに刺された薔薇の刺繍がとても素晴らしいのです。まるでマダム・フローラの刺繍のように。
ジュリア様もご覧になって下さい」
ヴィオラから手渡されたハンカチの刺繍を見て、ジュリアは瞠目した。それは確かに見事な薔薇の刺繍だった。しかし、マダム・フローラというより、亡き母の刺していた薔薇に似ていた。
ジュリアは思わず泣きそうになった。しかし、ヴィオラに心配をかけたくなくて、必死に涙を堪え、笑顔を作ってこう言った。
「本当に素敵ね。これ程の腕があるなら『マダム・フローラ』で雇ってもらえるかも知れないわ。職人さんが足りなくて困っていると以前仰っていたから。一度お願いしてみましょう」
そして、その翌々日体調が良くなったシルキィーは、ジュリアの書いた紹介状を持参して『マダム・フローラ』の店へ面接しに行き、その場で採用が決まったらしい。
ジュリアがオーナーを務める『ジュリア・ガーデン』の話はお忘れの方も多いでしょうが、
『第六章 枯れ木令嬢の好きな食べ物』と、
『第七章 枯れ木令嬢と薔薇のドレス』
の中に出てきます。
プラント男爵家の王都の屋敷の料理長は、元々領地の屋敷の料理長だった。
しかし、農園の従業員を含む使用人全員の食事を作る職場は重労働で、年をとった身には辛くなってきたので、長男に料理長の座を譲り、本人は小規模な王都の屋敷の料理長になった。
因みに料理長と共に仕事をしているのは長男の孫。そして『ジュリア・ガーデン』の料理長は次男だという設定。
料理長には息子三人と男の孫ばかりなので、ジュリアを孫娘のようにかわいく思っています。
読んで下さってありがとうございました!




