第五十一章 枯れ木令嬢の父と緑の精霊王
ハーディスは人前だというのに涙を溢した。再び自分の愚かさを思い返していたたまれなくなったのだ。
兄が亡くなった時、父親がなんと言おうと、妻と子供を王都に連れて行こうとハーディスは思っていた。
しかし、自分が家に帰れない状態はそれまでとは何も変わっていなかったのだ。
だからもしマーガレットを屋敷に迎え入れていたとしたら、たった一人で伯爵夫人として社交をし、家の家政まで取り仕切らなければならなかったのだ。
それは彼女にとって、どれほど大きな負担になっていたかわからない。
結局あの時二人が家を出ず、屋敷に来てくれていたとしても、自分はマーガレット、そしてジュリアを幸せにすることはできなかったのかも知れない。
以前のウッドクライス家なら、母親がしっかりと使用人教育を施していたから、屋敷はスムーズに回っていた。
しかし母親が亡くなり、兄と結婚したあの女が女主として家政を任された後は、まともな使用人教育がなされているはずがなかったのだ。
母親の死後、仕事が忙しかったことも相まって、ハーディスはほとんど実家へは寄り付かなかった。
だからあの家がどんな状態だったのか、彼には見当もつかなかった。いや、そもそも気にもしていなかったのだ。そしてそれは当主になった後も変わらなかった。
しかし、それを言い訳にしてはならなかった。家のことは家長の責任なのだ。
まずは自分自身の環境を変えなければいけなかった。それができなければ、二人を幸せにはできなかったのだから。
今頃になってその考えに思い至って、ハーディスは愛娘の前で痛嘆したのだった。
✽
「まあ、昔の君の家はうち同様に優秀な使用人ばかりだったからな。そんな悪辣な者がいるなんて想像もできなかっただろうな。
しかしそれは君の母上がしっかりと家政を取り締まり、使用人に気を配っていたからこその話だ。
君の父親はそれを見落としていたんだな。確かに彼は愛妻家だったのかも知れないが、彼は自分の妻としての役割しか見ていなかったんじゃないのか?
妻が夫の留守中にいかに一人で伯爵家を采配していたのか、その努力や苦労なんて、これっぽっちも気付いていなかったんだろう。
だからあんな身分や容姿だけが取り柄の女を、平気で跡取りの嫁になんかしたんだ」
ジャイドの言う通りだとハーディスも思った。
確かに父親は当主として失格だった。その上妻の死後、恐らく彼は真の意味で『緑の精霊使い』ではなくなっていたのだろう。
自分がなまじ『緑の精霊使い』だったために、愛する妻を大切にできなかった。
その罪悪感と喪失感で心を閉ざし、精霊との触れ合いを拒否したのだろう。
精霊は、一度人間と契約を結ぶと、その契約相手が亡くなるまでその契約を破棄することができない。
とはいえ、心が通じ合わなくなった相手とは、当然のことながら距離を置くし、関心も失くす。当然人間を助けようとするはずもない。
父は母の死後暫く経っても気力を無くしたままだったので、自ら当主と役職を退き、長男に全てを丸投げした。
そのくせ息子達の結婚に対しは、自分の要望を強制したのだった。
息子であるハリスとハーディスは、そんな無責任な父親ゴードンに内心腹を立ててはいたが、彼らにはそれを指摘して諭す余裕がなかった。
だから息子達は父親にただこう言ったのだ。
「『緑の精霊使い』の仕事はもうしなくていい。だからせめて亡くなった母が守ってきたこの屋敷のことだけは、しっかりと管理してくれ」
と。
それなのに結局父親のゴードンが、屋敷の管理を今度は執事のバージル=ハントに丸投げした結果がこのざまだ。
✽
今になってハーディスは、兄ハリスと共に自分達の精霊に相談をすれば良かったと後悔している。
そして彼らに協力してもらって、もし父親の精霊とも語り合えていたら、もしかして父親を変えられたかも知れないと。
しかしあの頃は、精霊の感性はどうせ人間とは違うのだと勝手に諦めていた。
彼らは感覚を大事にするので、言語があまり得意ではない。
それ故に、人間の言葉の裏に含まれる思いなど知りようがないし、頓着もしない。
当然精霊は、自ら人の仲立ちをしようなんてお節介な発想はないし、頼まれもしないことを進んでしようとはしない。
彼らに説明してもどうせ人の気持ちなど理解してもらえないだろうと、ハーディスは勝手にそう思い込んでいた。
だから人間同士のもめ事を精霊に相談しようなどという発想が、全くなかったのだ。
しかし、精霊は決して冷たいわけではないし、人間に関心がないわけでもない。
もし関心がなかったら、そもそも精霊が人のためにその力を貸して下さるはずがないのだから。
西の国でやらかした時、ハーディスのバディであるフィラムとのやり取りで、彼がずっと自分を心配しながら見守ってくれていたことにようやく気が付いたのだ。
何故それまでそのことに気付けなかったのか……
何故『緑の精霊使い』であるその根本を忘れてしまっていたのか……
本来精霊使いに選ばれた者達は、できるだけ心を込めて、自分の言葉や気持ちを優しく精霊に伝える努力をすべきだったのだ。
そしてそれは、実際に伝わるか伝わらないかは別の問題だったのに。
昔の精霊使い達は皆そのことを絶えず認識していたはずだ。
それなのに、一体いつから自分達は、そんな肝心なことを忘れてしまったのだろうか……
やはり働き過ぎで、みんなの心に余裕がなくなってしまったせいなのだろうか。
昔は人々の身近に存在していた『緑の精霊』と『緑の精霊使い』が、いつしか国の最大秘密事項になってしまった。
そのせいで、大切な家族や友人にも自分の悩みを大っぴらに相談できなくなった。
そう、我々『緑の精霊使い』は仲間内か高位貴族の友人に嘆息するか、酒を酌み交わすくらいしか、発散の手段がないのだ。
他の国の精霊使い達もきっとそうなのだろう。
その上、西の国では『黒の精霊』や『黒の精霊使い』へ対する畏敬や尊敬、感謝の気持ちを呈しなかったというのだから、そりゃあふざけるなって思うよな。
だからと言って、一般国民に影響を与えるような犯罪を犯すなんて論外だが。
こんな過酷な状況にあっても、自分はまだ恵まれていたのだとハーディスが気付いたのは、やはりあの西の国の砂漠の、例のやらかした直後だった。
茫然自失となって、思わず君が止めてくれれば……と八つ当たりの言葉を呟いたハーディスに、相棒の緑の精霊王フィラムが言ったのだ。
溜め込んだものを、一度全部吐き出させてやりたかったのだと……
その慈愛の籠もった言葉は、ボロボロになって、まるで砂漠のように乾き切っていたハーディスの心に、スッとしみ込んでいった。そして温かなものが溢れて、頬を流れ落ちていった。
妻のマーガレットを失くしてから、初めて味わった慈しみ深い言葉だった。
ハーディスはフィラムのことを相棒で親友だとは思っている。もう三十年以上の付き合いなのだから。
しかし最初の頃はほとんど会話が成立しなかった。それこそ感覚だけで繋がっていた感じだった。
それでもそのうちに少しずつ話しかけに応じてくれるようになり、やがてタメ口もきくような間柄になって、名前も教えてもらった。
だからフィラムが緑の妖精王になったと聞いた時は、心底驚いて腰がぬけそうになった。
そしてあの時に思ってしまったのだ。
自分は単なる使い手なのだから、『緑の精霊王』様とはきちんと一線を引かないといけない。
『緑の精霊王』様はこの国を守って下さる特別な方なのだから、私的に彼の力を使ってはいけない。自分のプライベートな悩みなんかを相談してはいけないのだと。
読んで下さってありがとうございました!




