第四十九章 枯れ木令嬢の両親とパパとママ
この章は、ジュリアの幼かった頃を回想していたハーディスが、現在に意識を戻したところまでの話です。
品行方正で生真面目、人から頼まれると嫌だと断われなかったハーディス=ウッドクライスが、親友ジェイドの叱咤激励のおかげで少しだけ変わった。
彼にとって何が一番大切なのか、失いたくないものは何なのか、それを遅まきながら悟ったからだった。
ハーディスは何があろうと、月に数日休暇をとって必ず家へ帰るようになった。
そしてその度に三人で外へ出かけて、『妻が、妻が……』とやたら言葉にし、自分達は家族なんだということを、彼は態とらしくアピールをした。
マーガレットが妾だと噂されていることを初めて知ったハーディスは、それを一掃するために躍起になった。
ハーディスは妻子と過ごせる幸せを噛み締めながら、親友夫妻に感謝した。彼らがいなければ、とうの昔にこの家庭は失われていたはずだから。
だからこそ、娘ジュリアの『パパ』呼びを贈呈してやる! とハーディスは歯ぎしりをしながら思ったのだ。
そうなのだ。
ジャイドから背中を押されて港町の家へ急いで帰ったあの日、久しぶりに会った娘からハーディスはこう呼ばれた。
『おじさん、だあれ?』
おじさんという言葉に胸を抉られながらも、必死に笑顔を浮かべたハーディスに、ジュリアはその薄茶色の大きな瞳をさらに大きく見開くと、彼の顔を覗き込んできた。そしてこう彼に尋ねた。
「わたしのおとうさまですか?」
それを聞いた時、ハーディスは感極まって娘を抱きしめて号泣した。娘に忘れられていたわけではなかったのだと。しかし、それは単なる彼の幻想だった。
ジュリアの四歳の誕生日パーティーの日を思い出す度に、ハーディスの心はズタボロに切り裂かれるのだ。
ハーディスはその一月前から、娘の誕生日には何があっても休暇を取ると、声高らかに宣言し続けていた。
そしてその誕生日の前日、仕事が終わると彼はすぐさま、友人一家と共に寝台列車に乗り込んだ。
ハーディスは本当は親子三人水入らずで祝いたかった。しかし、今までずっと友人一家に祝ってもらっていたから、ジュリアがそれを楽しみにしている、とマーガレットに言われて諦めた。
それに、これまで娘に寂しい思いをさせまいと気を使ってくれた友人夫婦に、もういいよだなんて、そんな恩知らずで勝手なことは言えなかった。
ところが、翌日の昼にハーディスが港町の家に到着した途端、ジュリアは大喜びで客人達に向かって走って来て、まず最初にジャイドに飛び付いたのだ。
しかも、
「ジャイド・パパ!」
と呼びながら。
ジュリアにとって『パパ』とはジャイド=ルードルフ侯爵のことであった。
成人男性を見る度に『パパ』呼びする娘に困った母親は、『パパ』と呼んでいいのは一人だけ、特別な男の人なのだと教えた。
するとジュリアは、彼女にとって一番大切なジャイドを『パパ』と呼ぶようなってしまったのだ。ちなみに『ママ』はリアナ夫人のことである。
それはもちろん、リアナ夫人のことを実の母親より好きだからというわけではなく、『パパ』と『ママ』がセットの言葉だと、ジュリアが近所の友達を見て自然にそう思っていたからである。
マーガレットはこれには驚いて正直困ったとは思ったが、娘の気持ちは大切にしたかった。
顔も覚えていないし、一緒に過ごした記憶もないのに、いくら実の父親だからといって、ハーディスが貴女にとって一番大切な男の人でしょ、とは強要できなかったのだ。
そしてありがたいことにルードルフ侯爵夫妻は、その傍迷惑な呼び名を受け入れてくれたのだった。
とはいえ、ジュリアには実の父親のことは認識させなければならない。
そこでマーガレットはジュリアにハーディスの姿絵を見せながら、この人が貴女のお父様ですよ、と語り続けることは忘れなかった。
その結果、あの日、息を切らして玄関に立っていたハーディスを見たジュリアは、
「おじさん、だあれ?」
と思わず口にした後で、あの姿絵を思い出してこう言ったのだ。
「わたしのおとうさまですか?」
と。
しかしそれは、ジュリアがハーディスを父親なのだと認識したわけでも、彼に対する思慕の気持ちが籠もっていたわけでもなかった。
例えて言うとするなら、生まれて初めて実際に馬と遭遇して、その動物が絵本の中に出てくる馬と同じだとわかって、あれは馬ですか? と確認しようとしたようなものだった。
まあ、その後まもなくして、ようやくジュリアもハーディスを父親だと認識するようになった。
しかし、今さらハーディスを『パパ』呼びするのも躊躇われ、ジュリアは一度もそう呼ぶことはなかった。
そのため、ハーディスにとってこの『パパ』呼びは永遠の憧れとなり、それと同時にトラウマにもなっていた。
✽✽✽✽✽
そしてあれから十三年後の今、またあのハーディスにとって忌々しいトラウマが蘇ったのだ。
ハーディスは王城の一室で十か月振りに会った娘から、長年の恨みつらみ?いや文句をぶつけられていた。
三年近く前に再会してからも、彼は娘と会話する時間がほとんど持てなかった。
それでも娘が婚約してからは、その相手であるロマンド経由で、この半年はようやく手紙のやり取りができるようにはなっていた。
せめてその手紙の中で怒りや悲しみなどが綴られていたら、多少はハーディスにも免疫がついていたかも知れない。
しかしそんなことは書かれていなかった。だから、初めて娘から直に文句を言われたハーディスは、気が動転していた。
しかも彼女の素直な感情が表れた言葉には、かなり迫力があった。
もちろんハーディスだって、ジュリアから怒られ罵られ軽蔑されても当然だと思ってはいたし、むしろそうしてもらいたいと考えていた。
しかし実際目の前で、愛する娘からこうも激しく厳しく容赦なく、怒涛のような勢いで責め立てられて、情けなくも彼は狼狽えた。
ハーディスはこの国最強の男だ。これまで人ならざるものや極悪人に対峙しては、恐れたことなど一度もなかった。
しかし本来彼は育ちのいい貴族であり、紳士だった。
そして彼の身近な女性と言えば、淑女の鑑と呼ばれた母親や妻のマーガレットくらいだった。兄嫁とは表面的な接触くらいしかしていなかったし。
それ故に実の娘の明け透けな物言いに、彼は度肝を抜かしたのだ。
まるで可憐な花のように儚げに見える娘が、棘のあるきつい言葉を次々と自分に放ってきたのだから。
しかもそれは全て真実、且つ的を射ていたので、反論、いや言い訳できることが何一つなかった。
ハーディスは満身創痍状態で、ただソファーに力無くへたり込んだ。
そして呟くような小さな声で、『すまなかった』という言葉をただ繰り返すことしか彼にはできなかった。
そんなハーディスの姿を、ロマンド達はただ痛々しい目で見つめていた。一切口出しをせずに。
ロマンドやロバート、そしてルフィエは、ジュリアがこれまで散々辛い思いをしてきたことを知っていた。
しかもこれまで彼女がその想いをずっと一人で溜め込んで、誰にも不満一つ漏らしてこなかったことも。
彼女がわずかに感情を露わにしたのは、父親からの手紙が処分されていた真実を知った時と、デビュタント用のドレスの製作秘話を聞かされた時だった。
そしてヴィオラが暴力を振るわれたことに対してだけだった。
ジュリアはいつだって、自身が受けた理不尽に対しては、悲憤慷慨することはなかった。
しかし、一度くらいは溜め込んだ恨みつらみを、彼女は外へ吐き出すべきなんだ、と彼らは思っていたのだ。
いや……むしろそうしなければ彼女は、一生実の父親と本当の関係を結べないのではないか……三人は期せずして、皆そう思ったのだった。
だから彼らはあえて口を挟まなかった。
しかし、そんな窮地に陥ったハーディスに対して、救いの手を差し伸べた人物がいた。
「ジュリア、君の気持ちはわかるが、そろそろそのへんで許してやってはくれないか……
いくらなんでも我が国の防衛統括大臣のそんな情けない姿は、人様に見せたくないからね」
部屋に入って来た上品な一組の夫婦のうち、夫の方がそう言った。その声にジュリアは反応して振り向き、パッと顔を輝かせた。そして、
「ジャイド・パパ!、リアナ・ママ!」
と叫ぶと、彼女はルードルフ侯爵夫妻に駆け寄って勢いよく抱きついたのだった。
十年振りの再会だったが、二人のことはジュリアの頭と心の中にしっかりと刻み込まれていた。父親とは違って。
まさしく三つ子の魂百までというが、幼い時受けた純粋な愛情と思い出は忘れないものなのだ。
ハーディスは改めてそれを思い知り、敗北感に苛まれたのだった。
「ジュリア、ジュリア……
よく顔を見せて…
すっかりレディーになったわね。なんて綺麗なの。
マーガレットに全く似ていなくて、ハーディス様に瓜二つなのが悔しいけど」
ジュリアの顔を、白くて細い優しい手で包み込みながら、リアナは涙を滲ませながら呟いた。
それを聞いたジュリアはクスッと笑った。
「リアナ・ママったら、またそんなことを言って」
幼い頃、リアナはジュリアのフワフワほっぺを両手で包み込みながら、その少女の父親に向かってよくこう言っていたのだ。
「ハーディス様のことを嫌いになりたいけれど、ジュリアとそっくりだから嫌いなれないわ。悔しいことに」
「私が似ているのではなく、ジュリアが私に似ているんです、リアナ夫人……」
「シャーラップ!」
かつて二人は、そんなやり取りをよくしていたなと、ジュリアは懐かしく思い出した。
そしてそんな時、母はとても幸せそうに微笑んでいたなと。
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