24. 死の領地編
アリシアが、うつぶせに寝かせられたエヴァンの服を脱がし、背中を水で濡らした布で拭く。
「エヴァンは……」
「大丈夫よ。死ぬような傷じゃないわ」
手際よく巻かれていく、白い包帯が眼に痛い。
「本当に?」
顔だけ横に向けられたエヴァンの息は荒い。苦しそうに眉は顰められている。そして、なにより血の気のない顔。
「ええ」
アリシアが言葉少なに答える。
「アリシアに治療ができたらよかったのに」
カミラは思わずそうつぶやく。もともとたまっていたストレスの行き場がない。
「ねえ、どうしてこれまで本気出さなかったの?」
アリシアはあのとき、「本気を出す」と言った。それはつまり、
「本気出してなかったの?」
アリシアは答えない。
「もっと早くに本気を出していれば、こんなことにはならなかった」
イライラが収まらない。
「浄化しかできないくせに。治療なんてできないくせに。どうして本気出さなかったの?」
アリシアの顔がかすかに歪む。だが、もう止められない。
「どうでもいいんでしょ? たかが教会の依頼だもんね」
アリシアの平手が飛んだ。左頬に痛みが走る。
「カミラ。あなた今、自分が何を言ったのかわかってる?」
聞いたことのないほど、冷たい声。
「自分の部屋で休んできなさい」
「ここを離れろって言うの?」
エヴァンを置いて。
「そんなことできるわけが……」
「頭を冷やしてきなさいって言ってるのよ」
アリシアが人の話をさえぎるのは珍しい。
「冷静になりなさい」
「そんなこと言ったって……」
「今のあなたにエヴァンは任せられないわよ。何をしでかすかわかったものじゃないわ」
きつい言い方。だが、アリシアは間違ったことは言っていない。それも、わかっている。
「冷静になったと思ったら戻ってきてちょうだい」
「え?」
「言いたくないけれど、私も疲れているのよ」
エヴァンに気を取られていて気づかなかった。アリシアもひどく顔色が悪かった。
神の力を使うのは疲れる。アリシアは前にそう言っていた。ただでさえ常に邪気から身を守っているのだ。そこにさらにあれだけの力を使えば疲れるに決まっている。
おそらくアリシアは、自分が倒れなくて済むように、本気は出さないでいたのだろう。いざというときに、使えるように。
冷静になった。そう自分では思っているが、きっとアリシアから見ればそうじゃないのだろう。
「わかった」
カミラはエヴァンに背を向け、部屋を出た。
エヴァンはうっすら目を開けた。背中が痛い。だが、目の痛みと頭痛はおさまっていた。
「あ、起きた?」
「ああ……」
痛みをこらえながら、ゆっくり体を起こす。
「ちょっと、寝てなきゃダメだって」
「いや、あの体勢だと首が痛い」
ベッドに腰かけて座る。
「他に痛むところは?」
「背中……だな。後は大丈夫だ」
「熱はまだありそうなんだけどね」
カミラが額に手を当てる。その手が冷たくて気持ちがいい。
「どれくらい経った?」
「一日と半分くらい。今昼前だから」
「そうか」
思ったより時間は経っていなかった。怪我の大きさからして、もう少し目覚めないかと思っていた。
「何か食べられそう?」
「いや、いい」
腹は減っていない。
「アリシアは?」
「休んでると思う。疲れたって言ってたから」
「まあ、あれだけの力を使ったらな」
あれはすごかった。ぼんやりとしか覚えていないが、邪気が一気に消え、聖気に変わったのだ。
「カミラは、怪我してないな?」
「私より自分の心配してよ。私もアリシアも大丈夫だから」
「ならよかった」
「それは私のセリフだよ」
カミラがあきれ半分、安堵半分の声で言う。
「どれだけ心配したか。ほんとによかった」
「悪かった」
「そこはありがとうって言ってほしいんだけど」
カミラがエヴァンの横に腰かける。
「ありがとう」
「うん」
カミラがエヴァンに顔を近付ける。テレパシーが繋がっていないため、エヴァンは顔を背けない。
エヴァンにも表情が読み取れるくらい、顔を近付ける。
「ねえ、そこまでして戻りたい?」
「え?」
「死んじゃうかと思ったんだよ」
不安そうな声。
「倒れて、血が出て、死ぬのかと思ったんだから」
「……悪かった」
「謝ってほしいわけじゃないの」
カミラがエヴァンの左手を取り、カミラの頬に添えた。ちょうど、カミラがエヴァンと一緒に行きたいと説得したときと同じように。
「死んでほしくない。死んでほしくないの」
駄々っ子のような言い方が、妙に胸に響く。
「目が治った方がいいのはわかってる。だけど、それで死ぬのかもしれないのなら、それは嫌。死んでほしくないの。生きててほしいの」
「カミラ……」
何て言えばいいのかがわからない。ただ、カミラの頬をなぞった。ぼやける輪郭を確かめるように。その体温を感じるように。
その手に、水滴が触れた。
カミラが、泣いている。
「今だって何とかなってるじゃない。普通とは言えないかもしれないけれど、生きているじゃない。そこまでして、もとに戻りたい? ねえ、死なないでよ」
ぽろぽろと涙をこぼす。
「死んじゃうかと思ったんだから」
小さくしゃくりあげるカミラを、胸に抱く。あやすように背中をさする。
「ごめんな、そんな思いさせて」
カミラがそこまで思ってくれているとは、思っていなかった。
「だけど、俺は戻りたいと思ってる」
「でも……」
顔を上げようとするカミラの頭をなでる。
カミラの顔が、また胸に沈む。
「カミラに会う前、俺は死ぬ気だったんだ」
誰にも言わなかった話。
「え?」
「この目が危険なものだってことは、俺が一番わかってる。いつか、人を殺すんじゃないかって思って、怖かった」
カミラが顔を上げる。今度は引き止めなかった。
「そうなる前に死のうと思った。ろくに見えないのも、怖かった。このまま自分が奪われて、何も感じなくなるんじゃないかって思った」
「うん」
「ダンジョンにもぐって、ほとんど外に出なかった。死にたくても、自分で死ぬのは怖かったんだ。だから、魔物に殺されようと思った」
「うん」
静かな相づちが心地良い。
「だけど、死ねなかった。この目は、強かった。眼帯を取らなければいいって思ったけど、それもできなかった。魔物が見えたら、眼帯を取ってた」
「うん」
「今思えば、無意識に生きようとしてたのかもしれない。だけど、そんなことは思えなかった。人を傷つける前に、死にたかった」
それほどまでに、病んでいた。
「だから、最初にカミラの声を聞いたときも、助けようとは思わなかった。人と関わりたくなかった」
「それなのに、助けてくれたの?」
「頭の中に、声が聞こえた。テレパシーだったんだろ。それで、助けないといけないって思った。何でかはわからないけど」
その直感に従ったのだ。ただ、それだけだった。
「カミラにバディになってほしいって言われて、最初は嫌だった。カミラを傷つけると思った。そんなことになったら、自分も二度と立ち直れないって」
「うん」
「だけど、テレパシーの話を聞いて、また見えるんだって思った。耳が聞こえなくなっても、音を感じられるんだって。それが、嬉しかった」
「うん」
あのときの感覚は、今も覚えている。
「それから、久しぶりに人としゃべって、楽しかった。こんなに楽なんだって思った。しゃべっている間は、気が楽になった」
「うん」
「ほっといたら、お前がまた死にそうで。それは嫌だった。お前が笑ってくれるのが、楽しかった。もう独りにはなりたくなかった」
「そっか」
病んだ自分に、光が差したようだった。
「アリシアに、目が戻る方法があるって言われて、それにかけたいって思った」
「それはあのときも言ってたよね」
「生きていたいって、思ったんだ。目が戻ったら、また普通に生きられるんじゃないかって。だから……」
言葉が続かない。
「今は、生きてたいって思ってる?」
「ああ」
カミラが、エヴァンの胸に顔をうずめた。
「ごめんね。そんなこと思ってたの、気づかなくて」
「いや、気づかれないようにしていたからな」
こんな自分を知られたくなかった。
「そのときに、エヴァンが死んじゃわなくてよかった」
カミラの背中をなでる。
「無理しないでよ。ほんとに心配したんだから」
「ごめんな」
「謝ってほしいわけじゃない」
カミラは、また泣いていた。服が少し湿る。
震える細い肩を抱く。
「死なないでよ。お願い」
「うん」
「心配したんだから」
「ごめんな」
それ以外に、言えなかった。
アリシアが部屋に入ってくる。エヴァンは口の前に人差し指を立てた。
「あら、寝てるの?」
「ああ。さっきまで起きてたんだけどな」
泣き疲れたのか、カミラはエヴァンの胸の中で眠ってしまっていた。
「目が覚めたのね。よかったわ」
「心配かけたな」
アリシアが近づいてくる。
「体は起こして大丈夫なの?」
「この方が首が楽なんだよ」
「そう。だけど、寝てたほうがいいわよ。体が休まらないわ」
椀を差し出される。
「薬湯か?」
「ええ。包帯に塗ろうかと思ったんだけど、飲めるのなら飲んでちょうだい。痛み止めと、眠くなるものも入っているから、飲んだら寝ちゃって」
「わかった」
空いている右手で受け取り、ゆっくり喉に流す。
「苦いな」
「薬湯だもの」
空になった椀を返す。
「あのあと、魔物は大丈夫なのか?」
「ええ。まったく出てこないわ」
「それはよかった。が、何であんなに出てきたんだろうな?」
アリシアが肩をすくめる。
「何か異常があったのは確かでしょうけど。もしかしたら、ランベのときのように、ユリシーズが何かしたのかもしれないわね」
「やりかねないな。あいつなら」
テントに入ったところに追い打ちをかけないのも、あの男らしい。
「それは推測にすぎないわ。けれど、今異常が起きていないことは事実ね」
アリシアがカミラを見る。
「起こした方がいいか?」
「悪いけど、そのまま休ませてあげて」
アリシアが困ったように微笑んだ。
「カミラはね、私が何回代わるって言ってもそこにいたのよ。だから、あなたが倒れてから一睡もしてないの」
「そう……か」
「誰かが見ていればいいんだからって言ったんだけどね。聞かなかったの。よほどあなたが心配だったんでしょう」
それは、さっきのカミラの様子からもわかる。
「申し訳なかったな」
「そう思うなら、さっさと治してちょうだい。無理はしないこと。軽い怪我じゃないから、少し治ったからって言って動かないのよ」
「……はい」
釘を刺される。
「じゃあ、おやすみなさい。何かあったらそこのベルを鳴らしてちょうだい」
ベッドの横には、ベルが置いてあった。今まで気づかなかった。
アリシアがドアの前で振り返る。
「心配したわよ。意識が戻ってよかった」
謝ろうとして、カミラの言葉を思い出す。
「ありがとう」
はっきりとは見えなかったが、確かにアリシアはほほえんでいた。




