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霧雨市怪奇譚

霧雨市怪奇譚 家

作者: 野崎昭彦

 実話怪談を意識して書いた、微妙なシリーズです。

 今回から一話が少し長くなります。

 前々回は通学路、前回は校舎内で話が展開しましたが、今回の舞台は家です。

 現代日本に多い、二階建ての、決して広くもない、普通の住宅。

 当然、逃げ場なんて……ねぇ?


 なお、黒田の師匠がひょこっと出ます。

 荒木薫あらきかおるが今の家に引っ越したのは半年ほど前のことだった。

 その当初から奇妙な気配を感じることはあったものの、新しい家にまだ慣れていないからだろう、と思っていた。

 ひと月もすると、今度は家の中で時々、ぴしっ、とか、ぱしっ、という何かが弾けるような音がするようになった。

 薫と姉は気味悪かったが、家族は古い家にはよくあること、と相手にしなかった。

 それからひと月、ふた月は何事もなく過ぎた。

 音にも慣れてきた三月めのある夜。

 薫はリビングのソファーでテレビを見ていた。

 流行りのアイドルが主演の、話題性しか取り柄のないドラマだ。


「薫、チャンネル変えるよ」


 姉の美智みちが入ってくるなり、リモコンを取り上げて無遠慮にチャンネルを回す。

 画面がアイドル主演のドラマからお笑い芸人が司会を務めるバラエティ番組に切り替わった。


「あ、おねーちゃん、ずるい」

「だったらあたしより偉くなってみな」


 美智は薫の隣に座り、持っていたスナック菓子の袋を開けた。

 テーブルの上に置くと、すかさず薫が一掴みかっさらった。


「あっ、なにすんの」

「チャンネル変えたから、迷惑料」

「こいつー」


 他愛のないやりとりだった。

 その最中、薫はふ、と視線を感じた。

 そちらに目をやると、廊下に出るドアが半開きになっていた。


「おねーちゃん、開けっ放しにしないでよ」

「私じゃないよ。ちゃんと閉めた」

「じゃあ、お母さん?」

「お母さんは台所でしょ」


 台所は、廊下とは反対側にあって、出るにはリビングを抜けなければならないが、そうであればリビングにいる二人にわかるはずだ。


「じゃあ、お姉ちゃんしかいないじゃん」

「私はちゃんと閉めましたー」


 なんだか泥仕合になりそうだったので、薫はソファから立ち上がり、ドアを閉めようと近付いた。

 その時、ドアの隙間から見える、暗闇の廊下に何かが動いたような気がした。

 黒い、何かの塊。

 薫は一瞬躊躇した。

 一回深呼吸すると、恐る恐るノブに手をかける。

 わずかに力を込めて捻る。

 なにか、いるのか。

 それとも、

 なにも、いないのか。

 すう、ともう一度息を吸って、

 ひと思いに


 開けた。


 廊下は夜の闇に満たされて、しん、と静まりかえっていた。

 手探りで電気を点けるが、どこにも変わったところはなく、いつも通りの廊下だった。


「なに、なんかあったの?」


 美智が廊下に出てきた。


「別になにもないよ」

「あ、そう。じゃ、トイレ行ってくるからチャンネル戻さないでよ」

「う、うん」


 リビングに戻った薫は浮かない顔でソファーに座った。

 テレビでは、数組のお笑い芸人がくだらない内輪話で盛り上がっていた。

 以来、家にいると誰もいないはずの場所から視線を感じるようになった。

 とはいえ、人間不思議なもので、たったそれだけであれば、しばらくすれば慣れてしまうのであった。

 それからまたひと月、ふた月とたった夜。

 薫が部屋の電気を消して床に入ると、しばらくしてずず、と床を這いずるような音が聞こえてきた。

 音はどうやら、枕元の方から聞こえてくるようだった。

 そちらを見ようと顔を上げたが、何も見えなかった。


「な……なに?」


 薫は音から逃れようと布団を頭まで被った。

 音はそれでも枕元を行き来していたが、やがてベッドの周りを回り始めた。

 その音が気になって、薫は明け方まで眠れなかった。


 ***


「……ってわけなんだよね。それが毎晩。最近、さすがに怖くなってきてさ」

「だからって、どうして僕に話すかな」

「だって孝美たかみ、こういう話好きじゃん」

「好きって言っても、集める専門だからなぁ。僕自身は霊能者でもなんでもないんだよな」


 数日後の昼休み、薫は意を決して友人の一人に相談することにした。

 文芸部のホラー担当にして、自称歩く妖怪図鑑、黒田孝美くろだたかみ


「大体、神社とかお寺に相談するのが筋じゃないの?」

「でもウチ、わかんないよ。お寺も神社も縁がないし」

「まあ、現代はそうだろうね」


 孝美はお手上げのポーズをした。


「科学万能、科学万歳。科学の力に限界はない。科学の光はいつか世界を照らし尽くすだろう。科学の力ってすげー」

「孝美……?」

「ま、そうやって大事なものを捨ててきたんだ。今になってその大事だったものから掌返しを食らっても、それは自業自得というものさ」


 孝美は皮肉たっぷりの口調で言った。

 薫はそんな孝美についていけず、目を白黒させるばかりだった。


「ま、このまま放っておいて命に関わっても寝覚めが悪いし、調べてみようか」

「えっ?」

「知識があれば最悪の事態は避けられるからね。霊能者に頼るのは最後の手段として、まずは現状でどうにかできないか考えよう」


 孝美は鞄から『怪奇事件簿』と題されたノートを取り出した。


「えーと、怪現象が起こり始めたのは今の家に引っ越した半年ほど前から、だっけか」

「あ、うん。その頃はまだ、何かがいる、ような気がすることが時々あるくらいだったんだけど」

「気がする、じゃなくて本当にいるんだろうね。で、放っておいたらひどくなった、と」


 孝美は薫の話をノートにまとめた。


「なるほどね……。これだけじゃ特徴がなさすぎて判別し難いな」

「判別?」

「うん。日本には大体千種類くらいのお化けがいる、っていわれてるのは知ってる?」

「せ、千種類……?」

「地方による呼び名の違いやその他細かい差異を含めるともっと増えるだろうね。まあ、それだけいれば、今一般的に霊とかUMAとか呼んでいるものも大抵は既存のお化けのどれかの亜種だろうってな具合に判別できる。判別できればうまく共存する方法だって見つかるかも知れない」

「そういうものなんだ……」


 そもそも、霊の分類なんて、薫は考えたこともなかった。

 薫にとって霊はあくまでフィクションの中の存在だったから、ということもあるし、そこまで妖怪というものに興味があったわけでもないからだ。


「今のところ、出てくるのは家の中限定だとすると、このあたり、かな?」


 感心する薫をよそに、孝美はページの下の方に『座敷童、黒坊主、ゴブリン、キキーモラの類?』と書き足した。


「僕はゴーストバスターじゃないからね。相手の類推まではできるけど、確定はできない。だから、あまり期待しないでくれると助かるな」


 孝美はそう言うと、ノートを閉じた。


「荒木の話から分かるのはここまで。確か茶道部だったよね」

「うん、そうだけど?」

「じゃあ、終わったら昇降口で待ち合わせようか。一人で帰るのは不安だろ?」


 そういうことになった。


 ***


 その日の放課後。

 薫が後片付けを終えて作法室の鍵を職員室に返しに行くと、担任の木下秀子きのしたひでこ先生が見覚えのない女生徒と話していた。

 まるで人形のような美貌で、生きて動いているのが信じられないほどだ。

 あんな人、いたっけ?

 薫の脳内に疑問符がわき出す。

 学年が違うとしても、あれほどの美人ならなんらかの形で話題に上がるはずだ。

 だが、本当に心当たりがないのだ。

 と、女生徒がこちらを向いた。

 彼女の視線を受けた途端、薫はその場から動けなくなった。

 いや、動きたくなくなったという方が正しいか。


「よっ、荒木。部活終わったんか?」


 木下先生が薫に気付いて声をかけた。


「えっ、あ……はい! 今、作法室の鍵を返しに来たところです」


 薫はわけもなく緊張しながら職員室に入ると、木下先生に鍵を返した。

 その時、薫の耳に小さな笑い声が聞こえた。

 見ると、彼女が小さく笑っていた。


秀子ひでこ、この子は?」

「ん? あぁ、俺の生徒だよ。ほら、荒木。挨拶しな」


 木下先生に背中をぽん、と叩かれて、薫は背筋を伸ばした。


「荒木薫……薫です! えっと、あ、はじめまして!」

「はい、はじめまして。私は羽柴藤はしばふじよ」


 藤は薫の目を見てにっこりと微笑んだ。

 天使というものがいるなら、きっとこういう笑い方をするのだろう。


「あなた、つかれてるのね」

「えっ?」

「心当たり、ないかしら?」

「いいえ、とくにないです。けど、疲れてるって……わかりますか?」

「ええ。言葉にし辛いのだけれど、こう、精気がない、とか言えばいいのかしら? とにかく、動きがワンテンポ遅れているような感じね」


 藤は顎に手を当て、考えなら答えた。

 一々の動作が、薫には非常に魅力的に思えた。

 不意に、藤の目が遠くを見るように細くなった。


「この感覚……さびしい、ひもじい? それから、外に出たい……? 縛られているのはどうして?」

「え、あの、私寂しくなんかないし、ひもじ……くもないです」

「あなたじゃないのよ、そう言ってるのは」

「え、私じゃ、ない?」

「そう、あなたはただ、遊び相手が欲しいのね。でも人々は気味悪がってすぐに逃げてしまう……」


 藤は一人で呟くと、薫の肩に手を乗せた。


「薫、あなたも大変な家に住むことになったわね。早く適切な手を打つべきだわ」

「どういうことですか?」

「あら、さっきも言ったじゃない。憑かれてる、って。」


 藤は木下先生に振り返ると小さく手を振った。


「私はこれで帰るわ」

「またなんか見えたのか?」

「そうね。まさか今時この手のモノに出会うなんてね」

「この手の、モノ?」

「ええ、そうよ、薫。あなたには何の縁もないけれど、たまたまそういう家に引っ越してしまったのが悪かったのよ。それとも」


 藤は楽しそうに口角を吊り上げた。


「モノが気付いて欲しくて次々に人を呼ぶのかしら。まあ、どちらにしても今は同じね。じゃあ、私は帰るわ。後は秀子にお願い」


 藤はそう言うと、さっと身を翻した。


「あ、あのっ、また会えますか?」


 薫は藤の背中に思わずそう呼びかけてしまっていた。

 出会ったばかりだというのに。

 名前しか知らないのに。

 まるで恋い焦がれる相手との別れを惜しむように。

 心にもないことを。

 なぜそんなことを言ってしまったのか。


「そうね、全てを解決したらその根源と一緒においでなさいな。決して悪いようにはしないわ」

「解決……? それには、どうすればいいんですか?」

「知識を求めなさい。知識は無力なあなたたちが私たちと同じ舞台に上がるための唯一の手段なのだから。そうすればいずれ活路は開けるでしょう」


 藤は口元に手を当て、さも楽しそうに笑いながら職員室を出て行った。


「あっ、待って」


 職員室の外の廊下は、何故か電気が点いておらず、暗闇になっていた。

 その闇に半ばけるように、藤の後ろ姿が見える。

 薫は藤を追って走り出した。

 だが、大した距離ではないはずなのに、いつまで経っても追いつけない。


「待ってください……羽柴さん!」


 薫の呼びかけにも答えず、藤は角を曲がって消えていった。

 薫も続いて角を曲がると、電気の明かりに照らされた。

 急なことで目が眩んだ薫は孝美と出会い頭の衝突をする羽目になった。


「あっ痛た……気を付けてよ、荒木」

「ごめん、孝美。そうだ、羽柴さん見なかった? えっと、黒髪の綺麗な人なんだけど」

「いや、見なかったな。羽柴って、ひょっとして藤姉さまかな?」


 孝美は不思議そうに首を傾げた。


「えっと、さっき職員室で会ったんだけど……」


 藤のことを話すと、孝美はうん、とうなった。


「そっか。あの人がそう言うなら、とりあえず今日明日にどうこうなるってわけではなさそうだ。多分、この現象を起こしている何か、に対する知識を集めて対抗手段を考えるくらいの時間はあるはず。でも、対抗するには何をどうすればいいのか。僕には見当も付かないな」


 孝美は腕を組んで考え始めた。

 と、そこに職員室の方から木下先生が出てきた。


「おい、黒田、荒木。そろそろ鍵閉めるぞ。帰らないなら見回り付き合え」

「じゃあ、大人しく帰ります。あ、そういえば藤姉さま、来てたんですか?」

「あー、まあな。もっとも、何の用だったのかは知らね。しばらく俺と話してたんだが、荒木が来たら何か一言二言話して行っちまった。ったく、マドウクシャって奴はよくわからん」

「マドウ、クシャ?」


 薫がたずねると、孝美がさらり、と答えた。


「この辺に伝わる民間宗教者さ。漢字表記だと確か、魔法の魔に道、く……は供、供えるだったかな。魔道に供える者、で魔道供者マドウクシャ。元々はよくある山神の生け贄伝説から来ているみたいだね」

「へぇ……そうなんだ」


 孝美の説明に、薫は素直に驚いたが、木下先生は難しい顔でこめかみに手を当てているだけだった。


「あれ、先生?」

「お前な、それだけ勉強する意欲があるんだったらもう少し一般的な日本史にも振り分けたらどうだ?」

「あはは、すみません先生。努力します」


 孝美はぺろり、と舌を出した。


「さ、帰ろっか」

「あ、うん……」


 孝美は薫を促すと昇降口に向かって歩き始めた。


「ねえ、孝美って、羽柴さんと知り合いなの?」

「家が近所なんだよ。小さい頃から遊んでもらったし、色々教えてもらった」

「そうなんだ。なんだかうらやましいな」

「藤姉さまに魅入られた人は大抵そう言うよ。しきたりとか、結構面倒なんだけどね。ところで、荒木の家って、縄筋なわすじの途中に建ってたりしないよね?」

「縄筋?」

「近年の自称霊能者は霊道って言い方もするかな。とにかく、向こうのモノが通るとされる道だよ」

「え、そんな道があるの?」

「うん。地域によってはナオ筋とかナメラ筋、なんて呼び方もされるらしい。どの呼び方でも蛇の道、といった意味合いだよ。大体、先が見えないほど細長い一本道だと言われてる」

「そ、そうなんだ」


 薫は孝美の話に付いていけず、目を白黒させた。


「それで、その縄筋の途中には建ってないよね?」

「うん、多分」

「だから、僕は色々な可能性を考えたんだ。家に憑くモノ、人に憑くモノ、家系に憑くモノ、ってね。でも、気配を感じ始めたのは今の家に引っ越してからだ。だから、家に憑いている可能性が高い。そうすると、まず考えられるのは、座敷童か、ゴブリンか、ってとこだね」

「なんか、極端。昼間も思ったけど、ゴブリンって家に憑くの?」

「うん。イギリスやドイツの民話だとゴブリンやコボルドなんかは小鬼みたいな役回りなんだよね。それで、中には家に住み着いてイタズラしたりする話もあるわけ。でも、今のところ何も害になることはやってないよね。気配を感じるというだけで、特に致命的なことは起こってないし、物理的な現象も起きていない。だから、ゴブリンの可能性は低い」


 孝美はそう言うと、ポケットから飴玉を取り出した。


「まあなんであれ、霊能者に言わせれば霊、UFOビリーバーに言わせれば宇宙人ということになるさ。妖怪っていうのはそういうものだから」


 そして、飴玉を口に放り込んだ。


 ***


 その夜、薫は部屋で宿題をしていた。

 スタンドの明かりが室内灯よりも強い光を投げかけている。


「ん、んー……」


 伸びをすると、堅くなった筋肉がほぐれて心地よい。

 そのまま眠りたくなってしまうのを我慢して、もう一度ノートに向き直る。


「孝美は一応、すぐには心配ないって言ってくれたけど、どうなんだろ?」


 そう思った時だった。


 ことり。


 目の前の壁、その向こうから小さな音が聞こえた。

 向こうは姉の美智の部屋だ。

 だが、美智はサークルの飲み会とかで今日はまだ帰っていない。

 一瞬、親が何かの用事で入ったのかとも思ったが、確か出かける時に鍵をかけていたはずだ。


「おねーちゃん、帰ってきたのかな?」


 それにしては様子がおかしい。

 薫は部屋を出て美智の部屋のドアノブに手をかけた。

 だが、ノブは途中で止まり、それ以上は動かなかった。

 やはり、鍵がかかっていたのだ。


「じゃあ、何の音だったんだろ?」


 と、もう一度音がした。

 確かに、美智の部屋から聞こえた気がする。

 静かな闇の中に、その音は意外に大きく聞こえた。

 薫はそっとノブを戻すと、静かに自分の部屋に戻った。

 それを待っていたように、美智の部屋に面した壁がどん、と鳴った。

 誰かが向こう側から壁を叩いたような音。

 突然のことに、薫は思わず一歩下がった。

 音は二度、三度と続いた。

 まるで邪魔するな、とでも言いたいように。

 薫は震える手でスマートフォンを掴むと、部屋を飛び出し、階下のリビングに駆け込んだ。


「薫、どうしたの?」


 リビングでは、両親がお笑い芸人司会のクイズ番組を観ていたが、血相を変えて飛び込んできた娘に驚いた様子だった。


「お、お母さん、なんか、おねーちゃんの部屋で変な音が……」

「またそういう話? 気のせいだって言ってるじゃない」


 母親はもううんざり、という風に頭を振った。


「もう引っ越して半年も経つんだぞ。いい加減この家にも慣れたらどうだ?」


 父親が缶ビール片手に言った。

 この二人に何を言ってもだめだ。

 そう思った薫はスマートフォンを操作して通信アプリケーションを立ち上げた。


『今部屋で変な音した』


 簡潔なメッセージだったが、送信するや、反応があった。


『なに、ストーカー?』

『泥棒じゃない?』

『こわ・・・』

『一人で様子見に行っちゃ駄目だよ』


 友人たちの反応は様々だったが、少なくとも両親よりは当てになった。

 だが、孝美からのメッセージはない。

 薫としては、一番頼りたい相手からのメッセージがないことに強い不安を覚えた。


「どうしたの、薫?」

「あ、ううん、なんでもない……」


 薫は空いたソファに座ると祈るようにスマートフォンを握りしめた。

 すると、その祈りが通じたのか、スマートフォンが振動した。

 慌てて画面を見ると、孝美からの着信だった。

 薫は逸る気持ちを抑えて廊下に出ると、通話ボタンをタッチした。


『荒木、大丈夫?』

「あ、うん。音がしただけだから」

『それなんだけどさ、音って具体的にどんな音? 今までのラップ音とは違うの?』

「もうなんか、壁をどんどん叩くような感じで……」

『なるほど。ひょっとして、その壁の向こうに何かあるのかもしれないな』

「何かって、お姉ちゃんの部屋だよ? 今日は留守だけど、普通に住んでるんだよ?」

『うーん、そっか。一度現場を観てみたいけど、今はちょっと無理そうだな』

「え、来てくれるの?」

『ちょっと、妙な可能性に気付いてね。まあ、詳しくは明日学校でね』

「あ、うん」


 孝美との会話はそれで終わった。


「妙な可能性って、なんなんだろ?」


 リビングから漏れてくる笑い声が、薫には妙に空々しく聞こえた。


 ***


 翌日、薫が寝ぼけ眼を擦りながら登校すると、すでに孝美が待っていた。


「おはよ。あれから、何かあった?」

「変化はないけど、音が止まなくて、ちっとも寝られなかったよ」


 薫は大きなあくびをした。


「そうか。じゃあ、授業始まるまででもいいから寝た方がいいね。家の話は後だ」

「ごめん……」


 薫は自分の席に突っ伏すと、そのまま眠りの世界に引き込まれていった。

 深い眠りの中で、薫は夢を見た。

 薄暗い部屋の隅で、一人の少女が膝を抱えて俯いている。

 よくわからないが、歳は大体五、六歳くらいだろう。

 元は白かったらしいワンピースは垢で汚れ、背中まで伸びた髪は脂とフケが浮いていた。

 しかし、何よりも薫の目を引いたのは、骨と皮ばかりにやせ細った手足だった。

 少女は泣いていた。

 何かを訴えているのかも知れないが、薫には聞き取れない。


「ねえ、どうしたの……?」


 薫が声をかけると、少女は蚊の鳴くような声で答えた。


「おかあさん、かえってきたの?」

「え……?」

「おなかすいたよぅ……」


 少女の声は今にも消え入りそうなほど小さい癖に、はっきりと聞こえた。


「私はあなたのお母さんじゃ……」

「おかあさん、さびしかったよぅ……」


 少女はゆっくりと顔を上げた。

 その目はひたすら黒いばかりで白目は全くない。

 人では、ない。

 薫は背中に冷たいものが流れるのを感じた。


「ねぇ、おかぁさん……」


 少女が立ち上がった。

 ほっそりした手足で、小さな体を支えようとするが果たせず、床に転ぶ。


「あっ……!」


 思わずあげた自分の声で、薫は目が覚めた。

 教室は、朝の騒がしさに包まれていた。


「大分うなされてたみたいだけど、変な夢でも見た?」


 孝美が隣の席に腰掛けて待っていた。


「なんかね、狭い部屋の中にすごくやせた女の子がうずくまって泣いてた。それで、どうしたのって聞いたらその子にお母さんって呼ばれて、そこで目が覚めたの」

「ふうん。女の子、か」


 孝美は難しい顔をして数枚のコピー用紙を鞄から取り出した。


「はい、これが君の家に関係するだろう事件のあらましだよ」

「え?」


 それは古いニュースサイトの記事を印刷したものだった。


「女児行方不明? 起きたのは……十年前?」

「僕はまだ小学生だったからよく分からなかったけど、当時は情報提供を呼びかけるポスターが貼り出されたりしてたみたいだよ。テレビや新聞でも盛んに取り上げてたってさ」


 記事によれば、十年前の夏、この街に住んでいた六歳の女の子が行方不明になったらしい。

 警察は当初事件・事故の両面から大規模な捜索を行ったが、なんら手がかりが得られぬまま年月が経ち、いつしか女の子の両親もこの家から引っ越してしまってうやむやになったようだ。


「家族に聞いたんだけど、荒木の前にも一組、家族が入居してしばらく住んでいたみたいだね」

「あの家に?」

「うん。でも、怪奇現象とかの噂は特になかったらしいよ。古い家だし、ラップ音くらいはしたみたいだけどね」

「それ、昨日も言ってたけど、ラップ音って何?」

「なんというかな、家が軋むような音を立てることがあるじゃない。ぺきっ、とかぱきっ、とかさ。それだよ。古い家は木材を多く使ってるから、昼夜の温度差でそういう音がするんだ」

「それって、心霊関係ないんだ」

「まあ、そういうことになるね。でも一概にどう、とは言い切りたくないな、僕は。ケース・バイ・ケースであって欲しいと思うよ」

「じゃあ、ラップ音がするだけじゃお化けがいるって限らないんだ」

「うん。でも夢にまで出てきたんだから、間違いなくクロだろうね。その子は今でもあの家にいるんだよ」

「でも、行方不明になったんじゃないの?」

「そうだな。本当は殺害して遺体を遺棄したのに知らぬ顔で捜索願を出していた、なんて事件もあるけど、さすがに家の中に遺体が遺棄されていたら異臭がするだろうし、前に住んでいた家族が気付かないはずはないよな」

「それに、前の家族は特に何もなかったんでしょ? それっておかしいと思う」

「いや、わからないよ。なにしろ、半年くらいで出て行ったみたいだから」


 薫と孝美は顔を見合わせた。

 その時、ちょうど予鈴が鳴った。


「おっと、そろそろ戻らないと」


 孝美は自分の席へ戻っていった。


 ***


 放課後。

 薫と孝美は連れ立って帰っていた。

 薫の所属する茶道部は活動が一日おきであり、孝美の所属する文芸部に至っては「部誌の原稿さえ間に合えば顔を出さなくてもよい」ということになっている。

 そのため、孝美は現場検証と称して薫の家に寄ることにしたらしい。


「でもさ、孝美ん家って反対方向だよね?」

「ん? んー、まあね。でも、一回は現場を見ないと分からないことがあってさ」

「分かんないこと?」

「ほら、都市伝説でよくあるじゃない。塗り込められた壁の向こうに部屋があって……って」

「冗談キツいよ、それ。本当にあったら警察沙汰だよ」

「まあね。でも、最近の事件を見てるとあながちあり得ない話じゃないって思えてくるんだよね。本当、嫌な世の中だ」

「そう、だね」


 何もなければいい。

 このまま、単なる気のせいで終われば一番いい。

 しかし、薫はどこかでそれが願望に過ぎないことを悟っていた。


「やれやれ、荒木、君の家、こんなに遠かったんだ?」

「えっと、そんなことないと思うけど、どうして?」

「いやね、もう大分歩いてる気がするんだよな」


 言われてみれば、いつもより歩いているような気がする。


「ここらで一息つこうか」


 孝美はそう言うと、道ばたに腰を下ろしてしまった。


「ちょっと、孝美?」

「少し休んだらすぐ出発するから」


 スマートフォンを取り出していじりだした。


「ま、まあ少しだったら……」


 薫は孝美の隣でブロック塀に寄りかかった。

 そのタイミングで、薫のスマートフォンが振動した。

 画面は、家からの着信を告げている。

 通話ボタンを押すと、砂を流すようなノイズが聞こえてきた。


「もしもし……?」


 薫の呼び掛けに反応はなく、ただノイズだけが流れ続ける。


「もしもし、おかーさん?」


 無機質なノイズが、奇妙に不安を駆り立てる。


「おねー、ちゃん?」


 返事は、ない。

 さぁーっ、とノイズ音だけが流れ続ける。


「ん、どうした?」


 その様子を不審に思ったか、孝美が顔を上げた。


「家から電話来たんだけど、なんか様子が変」

「変って、具体的には?」

「なんか、さーって音がしてて、誰も出ないの」

「砂嵐か。確か、ノイズは多く報告される現象の一つだね。だから、アマチュア制作のホラービデオなんかでもよくお化けが画面に映ってる時だけノイズ加工されてたりする」

「で、どうすればいいの?」

「さあ。電話を切ってみればいいんじゃないかな。根本的な解決にはならないだろうけど、ひとまずつながりは切れるから」

「じゃ、じゃあ切るよ……」

「うん。なるべく早くね」


 孝美は何かを見つけたような顔だった。


「でないと、僕には対処できなくなるかもしれない」

「え?」


 薫は思わず孝美の視線を追った。

 追ってしまった。


 そこに、いた。


 こちらに背を向けてうずくまる、みすぼらしくやせ細った少女。

 今朝、夢に見たあの少女だった。


「た、孝美……」

「荒木が夢で見たっていうのはアレか。なるほど、ゴブリンの類じゃないらしいや」


 こちらの声が聞こえたのか、少女はゆっくりと動き出した。

 骨と皮ばかりにやせ細った腕を使い、体を引きずるようにして近付いてくる。


「……おかぁさん」


 恨みの籠もった黒い目が薫を見据える。


「おかぁさん、おなか、すいたよ」


 ゆっくりと、ゆっくりと。


「わたしね、いいこにしてたよ? なのに……」


 這いずってくる。


「どうして?」


 薫の方に向けて、少しずつ。


「荒木っ!」


 孝美の鋭い声で我に返った薫は通話を切った。

 途端に少女の姿が霧散した。


「あの子……」


 薫はしばらく少女がいた辺りを見つめていた。


「さて、時間的な猶予は多くなさそうだぞ」

「あのさ、孝美」

「ん?」

「あの子、なにか言いたかったのかな」

「そうだろうね。大体、言いたいことがなければあんな風におどろおどろしい姿では現れないよ」

「そっか、そうだよね……」


 薫は何度も頷いた。


「さて、どうも僕は嫌われているらしい。というわけで僕は帰ることにするよ。荒木はどうする?」

「どうするって、なにを?」

「家が嫌なら家に泊まりに来てもいいよ。ああ、そうすると着替えが必要だから、どっちにせよ一度は家に帰る必要があるのか」

「でも、明日学校だし」

「関係ないよ。そうやってくだらない使命感で命を危険にさらすのはどうかと思う」

「でも、家にはお姉ちゃんもいるし、大丈夫だよ」


 薫が言うと、孝美は小さく息を吐いた。


「そうか、なら仕方ないな。僕はその決断を尊重しよう。でも、何かあったら絶対に連絡するんだよ。場合によっては家族を見捨ててでも避難すること。いいね?」

「う、うん……」


 孝美はそう念を押すと、自分の家の方向に足を向けた。

 薫はその孝美の後ろ姿を見ながら、小声で謝った。


「ごめんね、孝美。私、やっぱりあの子が気になるんだ。だから、何があっても、家から離れたくない」


 ***


 孝美は角を曲がると、そっと薫の様子を窺った。

 薫は孝美に見られていることなど想像もしていない様子で歩いている。

 孝美は薫に気取られないよう、物陰から物陰へ移動するようにして後をつけた。

 やがて、薫は一軒の建て売り住宅に入っていった。

 表札を確かめると、『荒木』とある。

 ここが薫の家で間違いなかった。

 孝美は家の外観をそれとなく確認した。

 比較的よく見る、何の変哲もない二階建ての住宅。

 二階のベランダに設置された物干しには鳥避けのCDが吊され、ちらちらと光を反射している。

 孝美はスマートフォンを取り出して、事前に取り込んでおいた写真と薫の家を見比べ、同じ建物であることを確認すると、今度は本当に家路についた。

 その途中、交差点で信号待ちをしていると、横にいた車の後部座席の窓が開いた。


「孝美、どうしたの? 家とは逆方向じゃない」


 藤だった。


「多分、藤姉さまと同じ理由ですよ。荒木の家で起きてる怪現象について」

「そう、薫はあなたを頼ったのね。妥当な判断だわ」

「まだ輪郭しか見えないけど、多分僕の判断で間違いはないと思います」

「そう。じゃあ、解答を教えてちょうだい?」

「座敷童、ですね」

「そう。あなたにはそう見えるのね」

「見えるんじゃなくて、考えたんですよ。姉さまと違って猫の目は持ってませんから」

「あら、ただの人は不便ね」

「本当ですよ。で、乗せてはくれないんですか?」

「ええ。これから寄るところがあるの。ごめんなさいね」


 藤がしれっとした顔で言った途端、信号が変わった。

 藤の車はすかさず発進して行ってしまった。


「ちぇ。どうせ方向は一緒なのに」


 孝美は舌打ちした。

 それにしても、と思う。

 どうして急に藤姉さまが現れたのだろう。

 魔道供者が動き出したということは、歴史の暗部に関わってくることなのかもしれない。

 孝美も以前、魔道供者としての藤に世話になったことがあった。

 その時に言われた言葉が脳裏に蘇る。


『いい、孝美? 世の中にはあなた達にはどうしようもないことがあるものよ。だから、私は存在するの』


『因習の撲滅。私の第一の存在意義はそれよ。そして、すべての因習が過去のものになった時、私も消えるの』


 藤は遠い、寂しそうな目をして、赤い唇からそんな言葉を紡ぎ出したのだった。

 幼い日の甘く切ない記憶。

 以来、孝美は精力的に知識を集積し、藤の第一の協力者となるべく努力した。

 そして、気が付けば周囲から引かれるほどの妖怪マニアになっていた。


「つまるところ、僕も藤姉さまに魅入られた一人なんだろうな」


 孝美はそう結論付けた。

 少しして、思考の方向性がずれていたことに気づいた孝美はもう一度藤が出てきた理由を考えてみたが、まったくわからなかった。


 ***


 ザシキワラシ【座敷童】

 東北地方を中心に伝わる童子姿の妖怪。

 家に憑くとされ、これが憑いた家は非常に栄えるが、出て行く時には家も絶えてしまうと言われる。

 もっともよく知られる事例が『遠野物語』に見られる山口孫左衛門家の盛衰であろう。

 また、**県の***神社は座敷童の修行地で、格の低い座敷童はここで修行するのだとされている。

 座敷童には格のようなものがあり、一般に知られる座敷童は格の高いものだという。格の低いものは幸運を呼ぶどころか、夜中に床下から現れて家の中を這いずり回る、不気味なだけの妖怪らしい。


 ***


 孝美は家に帰ると、本棚から妖怪辞典を引っ張り出した。

 座敷童の項目にはすでに付箋が張り付けてあり、すぐに開くことができる。


「それにしても、発生の原因が結びつかないんだよな。間引きなんて現代の日本では考えられないし、事件とも合致しない。第一、座敷童だとしてもあの家は建てられてから二十年ほどだし、座敷童がいるような家族が建売の賃貸物件なんかに入居するかな」


 一人考え込む内に内容を言葉にして漏らしていた。

 そんな孝美を影の中から見つめる一対の目があった。

 右の目は黄色く、左の目は青い。

 そして、その瞳は縦長の楕円形になっている。

 猫の目だった。

 なんのことはない。

 一匹の黒猫が孝美の影の中に丸まって、主を見上げているのだ。


「にゃあ……」


 猫が小さく鳴いた。


「ん、あぁ、ごめんフジ。来てたんだ」


 孝美は猫の存在に気付くと、机の引き出しに隠していたキャットフードを引っ張り出した。


「ほら、おやつだよ」


 餌皿にあけてやると、猫は億劫そうに近付いてきた。

 本来なら餌は決まった時間にやるべきなのだろうが、藤から預かったこの猫は基本的に食べたい時に食べたいものを食べたいだけ食べる。

 かなり野生に近い嗜好らしく、どこからかむかでを狩って来ることもあるが、基本的には孝美が出すキャットフードで満足のようだ。


「ねえフジ。姉さまは一体何を考えてるんだろうね」


 なんとなく語りかけると、猫は一瞬ちらり、と孝美の方を見た。


「にゃあ……」


 何か言いたげな目をしている。


「ん、どうしたの? 何か言いたいことでもある?」


 孝美が訊くと、猫はぴょい、と机の上に飛び上がり、妖怪辞典の隣に丸くなった。

 尻尾の先で器用にページをめくり、ある項目を指し示す。


「え、なにそれ? それが姉さまの出てきた理由?」

「にゃあ……」


 猫が指していたのは『コトリバコ』と題された項目だった。

 コトリバコ、即ち子取箱。

 ネット怪談が発祥とみられる怪伝承だ。

 それを読んだ途端、孝美はなぜか「これだ」という感触を覚えた。


 ***


 薫は部屋で漫画雑誌をめくっていた。

 しかし、それはただめくっているだけであって、内容は少しも入ってこなかった。

 さっきから聞こえてくる奇妙な音が気になって仕方なかったのだ。

 これまでのような音ではない。

 明らかになんらかの意思を伴った音だった。

 例えるなら、押入やクローゼットの中をいじくり回している、その音が壁越しに聞こえてくるような感じ。

 薫の部屋のクローゼットは音のする壁とは別方向にある。

 となると、やはり美智の部屋だろうか。


「お姉ちゃんに訊いてみようか」


 薫は意を決して美智の部屋に行った。

 美智は部屋の真ん中に置かれた小さなテーブルでノートパソコンに向かっていたが、薫が入ってくると顔を上げた。


「ノックしなって言ってるでしょ」

「あ、ごめん」

「で、あんたさっきから何がたがたやってんの?」

「え……?」


 美智の部屋のクローゼットは薫の部屋に面した壁に作られている。

 だが、今はその扉は閉まっている。


「レポートの提出期限近いんだからあんまり気が散るようなことしないでよね」

「あ、うん、ごめん……」


 薫は釈然としないながらとりあえず謝った。

 その時だった。


 ごとり。


 クローゼットの中から、重い音がした。


「あ、なんか落ちたみたい」


 美智が立ち上がり、クローゼットの扉に手をかける。

 今、開けてはいけない。

 薫は直感した。

 開けたら、まずいことになる。


「だめっ!」


 咄嗟に声を上げたが、遅かった。

 クローゼットが全開になった瞬間、部屋の電気が消えた。

 バッテリー電源に切り替わったパソコンの画面だけが光源となって部屋の中を薄明るく照らしている。


「ちょ、停電かよ、ついてないなー」


 美智はすぐにパソコンの前に戻るとデータの保存を始めた。


「薫、ちょっとブレーカー見てきてよ」

「なんで私が?」

「だって、おとーさんはまだ帰ってきてないし、おかーさんはスマホないから真っ暗だと身動き取れないでしょ。であたしはレポート仕上げなくちゃ。だからあんたしかいないの」

「……わかったよ」


 薫はスマートフォンのライトを点灯させると、廊下に出た。

 足下を照らしながら、そっと歩く。

 配電盤は一階、脱衣場にある。

 そのため、薫は階段を降りなければならなかった。

 足を踏み外さないように注意しながら、少しずつ、少しずつ降りていく。

 最後の一段まで降りきった頃、上階から何かを引きずるような音が聞こえた。


「お姉ちゃん……だよね?」


 薫はスマートフォンを階段の上に向けた。

 しかし、ライトに照らされるのは壁と天井だけ。

 音の正体らしきものは見えなかった。

 薫はふ、と息をつくと、脱衣場の方に向き直った。

 停電で真っ暗になった家の中は、不気味な静寂に包まれていた。

 その静けさの中を、薫は注意深く進んでいく。

 時折引きずるような音が背後から聞こえるが、もう振り向かない。

 振り向いても何もいないに違いない。いや、違いないと思いたいのだ。

 観測しなければ、存在しない。

 そんな、量子論のような理屈を盾にして、薫は平静を保っていた。

 それほど長くない廊下を歩き、脱衣場に到着する。

 配電盤に端末を向けると、案の定ブレーカーが下がっていた。


「よっ……と」


 爪先立ちになってブレーカーを上げようと手を伸ばすと、ぬるり、とした感触が指先に触った。

 驚いて手を見ると、赤黒い、ぬらりとした液体が指先についている。

 鉄錆のような匂いが鼻をついた。


「これ、血?」


 薫は頭から冷水を浴びたような心地になった。

 どうしてこんなところに血が?

 頭の中に疑問が湧き出してくる。


 ずるり。


 背後からまた、引きずるような音がした。

 音は始めに聞いたときより明らかに近くなっている。

 また、音がした。

 重たい、水気を含んだ何かを引きずる、嫌な音。

 洗濯が終わったばかりでまだ脱水していない衣類を引きずれば、そんな音がするだろうか。

 その音が少しずつ、近付いてくる。

 やがて、音は脱衣場に入ってきた。

 幽かな、本当に幽かな息遣いまで聞こえてくる。

 そこに何がいるのか、振り返らずとも分かった。

 振り向いちゃ駄目。

 薫は必死で自分に言い聞かせ、もう一度ブレーカーに手を伸ばした。

 ぬらり、とした嫌な感触。

 力を込めて押し上げるが、指が滑ってしまい、うまくいかない。

 気配はゆっくりと近づいてきて、もう薫のすぐ後ろにいる。


「……っ」


 薫は全身の震えを感じながらも、もう一度ブレーカーに手を伸ばす。

 ぬらり。

 もう一度。

 ぬらり。

 四度目に挑戦しようとした時、足首を掴まれた。


「ひっ……」


 思わず声が漏れる。


「おかぁさん、でしょ? ねぇ……」


 足下から少女の声が聞こえてきた。


「ち、違う……」

「おかぁさんでしょ?」

「違う、違うの……」

「おかぁさん、ここからだして」

「私は……っ、私はお母さんじゃないっ!」


 薫は喉の奥から絞り出すような声で叫んだ。

 足首を掴む手が緩んだ。

 その隙に、薫はもう一度ブレーカーに手を伸ばす。

 堅い感触とともに、回路が繋がった。

 人工の灯りが闇を駆逐すると、背後の気配も瞬く間に消え失せる。

 薫は思わずその場にへたり込んでしまった。


「終わった……の?」


 見れば、配電盤にべっとりと付いていたはずの血はどこにもなく、薫の手もきれいなものだった。

 しかし、気のせいというにはあまりにもリアルな感触だった。


「何だったんだろ……」


 足首には、まだ掴まれていた時の不気味な感覚が残っていた。


 ***


「おはよ、昨日はなんともなかった?」


 翌朝、教室で待っていた孝美が訊いてきた。


「別に、何もなかったよ」

「嘘。顔色悪いよ」

「……ん、分かったんだ。実は昨日、寝てなくて」

「やっぱりね。で、詳しく聴かせてくれる?」


 昨晩の出来事を話すと、孝美はふむ、と首を傾げた。


「じゃあ、やっぱりそれはお姉さんの部屋から出てきたわけか」

「うん。なんとなくそんな気がする」

「お姉さん、今日は家にいるの?」

「え、どうして? 多分いると思うけど。休講って言ってたし」

「よし、じゃあ放課後、行ってみようか」

「ね、ねえ孝美、それで何かわかるの?」

「ああ、まあね。僕の推測が正しければ、あれは、このまま放っておいちゃいけないものだ」


 薫が訊くと、孝美は真剣な顔で言った。


「ねえ、あの子、なんなの……?」

「そうだな、差し詰め、座敷童と言ったところかな」

「座敷童ってあの、幸せを運ぶっていう?」

「うん。どうやら、それはたくさんある座敷童のパターンの一つにすぎないみたいなんだ。他に、不気味な妖怪もまた座敷童の亜種だとされてる。例えば臼をつくような音をさせるとか、部屋の中を這い回るとかね」

「それってつまり、家に出るあの子も座敷童かもしれないってこと?」

「まあ、そういうこと。元々、間引いた子の死体は普通に埋葬しないで、瓶に入れて家の周りや土間に埋めることが多かったらしい。家の周りにいればまたいつか生まれてこられるってね。でもまあ、罪悪感もあったんだろう」

「それじゃあ、やっぱりあの子はまだ……でもどこにいるの?」

「荒木の部屋とお姉さんの部屋が現象の中心なら、その二部屋の間の壁の中だろう」

「壁の中……か。でも、どうやって?」

「お姉さんの部屋のクローゼットさ。バールか何かでこじ開けられるんじゃないかな」

「でも、そんなことお姉ちゃん許してくれないよ」

「じゃあ、別の理由を考えよう。とにかく、猶予は確実になくなりつつあるんだ」


 孝美は腕を組んだ。


「とにかく、君の部活が終わるまでに何か考えておくよ」


 ***


 薫は部活の後、孝美と待ち合わせて下校した。

 時間的にやや薄暗くなってはいたが、ぽつぽつと街灯が立っているから道に迷うことはない。


「あ、そうだ。ちょっと帰りコンビニ寄っていいかな?」

「急にどうしたの?」

「ちょっと、必要な物があってね」


 二人が通りにあったコンビニに入ると、カウンターに髪を肩口で切り揃えた、大人しそうな店員が入っていた。

 歳格好は薫とそう変わらなく見える。

 孝美はその店員に声をかけた。


石田いしだ先輩、お願いしたもの、とっといてありますか?」

「確か赤飯のおにぎりが二つと書道の半紙に折り紙だっけ。でも何に使うの?」

「んー、取材活動の一環、ですかね」

「熱心だねー。じゃあ、今度の原稿は期待してもいいかな?」

「ええ、まかせてください」

「ねえ、孝美。知り合い?」

「部活の先輩だよ。主に少女小説を書いてる」

「少女小説って?」

「んー、なんていうか、可愛い美少女同士の友情を描いたもの、かな。本当はもう少し複雑なんだけど、聴きたい?」

「え、あ、いえ、その……」

「もう遅いんでその話はまた今度ということで」


 孝美が助け船を出すように話を打ち切ったので、薫はホッとした。

 この手の人間は一度話し始めるとなかなか止まらない。

 そんなのは孝美だけで十分だ、と思った。

 孝美は駐車場の隅っこに陣取ると、さっき買った半紙の袋を開けて一枚取り出し、人型に切ると今度は筆ペンで呪文のようなものを書いた。

 それから、赤と青の折り紙で紙雛を作る。

 よほど手慣れているのか、一連の作業が終わるのに五分とかからなかった。


「ねえ、なにそれ?」

「まあ、魔除けの呪いみたいなものだよ」


 薫の質問に軽く答えると、孝美はさっさと歩き出した。

 そのまましばらく歩くと、不意に辺りが暗くなった。

 今まで薄ぼんやりとしていたのだが、急に真っ暗になったのだ。

 そんな中で、電柱に設置された街灯だけがぽつり、ぽつり、と脚光のような灯りを投げかけている。


「ありゃ、早速のお迎えか」


 孝美が冗談めかして言った。


「え、お迎えって」


 どういうこと、ときこうとした口は、途中で止まってしまった。

 暗闇の中から、ひぐらしの鳴き声が聞こえ始めたのだ。

 一匹が鳴き出すと、それを追うように二匹、三匹と鳴き出す。

 その声は次第に増えていき、最終的にはかなかな、という鳴き声が辺りを圧していた。

 薫の記憶が正しければ、この辺りに異常な数の蜩が止まれるほどの森はなかったはずだ。

 森どころか住宅地のど真ん中である。これほどの蜩が鳴いていれば住民が様子を見に出てきてもおかしくない。

 しかし、そんな様子は今のところなかった。


「そんな、どうして……」

「そういうものだよ。僕は勝手にトワイライト・ゾーンって呼んでるけどね。さ、急ごう」

「あ、うん」


 孝美に促されて、薫は家に向かって急ぐ。

 二人は蜩の大合唱の中を家に急いだ。

 やがて、行く手にコンビニの看板が見えてきた。


「あ、あれ? あんなところにコンビニあったっけ?」


 さらに近づくと、駐車場を掃除している石田先輩の姿が見えた。


「……やられた!」

「ど、どうしたの?」

「おそらく、感覚を狂わされたんだ。こういう時は落ち着かないと」


 孝美はそう言うや手近な縁石に腰を降ろした。

 仕方なく薫も従う。


「それにしてもこれじゃあまるで狐か狸だ」

「そうだね。で、孝美にはなんか解決策あるの?」

「まあ、これが解決策かな」


 孝美がそんなことを話している内、蜩の声が収まった。

 心なしか辺りも明るくなった気がする。


「やれやれ。じゃ、行こうか」


 孝美は立ち上がって歩き出した。


「ねえ、さっきのって」

「狐や狸がよく使う手だよ。今度の場合は来て欲しくない人間を足止めしようとしたんだろうね」

「足止め……」

「そう。僕は言ってしまえば、藤姉さまの一番弟子だからね」


 薫の中に、不思議な気持ちがざわついた。

 藤にはあれ以来一度も会っていない。

 だというのに、藤の顔を思い出す度に不思議と胸の奥がざわつくのだ。


「ねえ、羽柴さんって、どういう人?」

「そうだな、僕からすればただのねこ好きのお姉さんだよ」

「ねこ?」

「うん。金目銀目の黒猫でね、いつも可愛がってるんだ。この頃はしょっちゅう僕の部屋におやつ食べに来るよ」

「へぇ……」


 金目銀目、というのはよくわからなかったが、とにかく孝美が藤と特別な関係にあるような気がして、薫にはとても腹立たしかった。

 そうこうする内、薫の家の前に着いた。

 だが、不思議なことに灯りが着いていない。


「お姉ちゃん、出かけたのかな?」

「さあ、どうだろうね」


 薫が鞄から取り出した鍵を鍵穴に差し込むと、右に回した。

 がちゃり、と重い音がした。

 ドアノブに手をかけて引っ張ると、少しだけ開いた。

 次の瞬間、ドアは内側から強い力で引っ張られた。

 思わず手を離すと、ドアは元のように閉まった。


「どうした?」

「うん、なんか誰か内側で引っ張ってるみたい」

「じゃあ、二人で引っ張ってみようか」


 二人で引っ張ると、確かに強い抵抗があったが、数回押したり引いたりを繰り返すと突然抵抗がなくなった。

 大きく開いたドアの向こう、闇に満たされた廊下の奥に白い腕が吸い込まれていくのが見えた。


「なに、今の……?」

「さてね。とりあえず、行ってみよう」


 孝美に促され、薫は恐る恐る家に上がった。

 スマートフォンのライトを点けて廊下の奥を照らすが、人の気配はない。


「ただいまー」


 返事はない。


「おねーちゃん?」


 一歩、奥に向かって歩みを進める。


「おかーさん?」


 答える者のない呼びかけ。

 それでも、薫は繰り返した。


「ねえ、いないの?」


 廊下はしん、と静まりかえったままだ。


「荒木、灯りは後だ。とにかく、お姉さんの部屋に行こう」


 階段の前まで来たところで、孝美が薫の肩を叩いた。


「え、いいの?」

「うん。どうせ配電盤のところまで行っても灯りは点かないだろうから」

「そうかな」


 薫は首を傾げながらも二階に上がる階段に足を掛けた。

 後ろから孝美のライトが足下を照らす。

 深海のような暗闇の中を二筋の灯りだけを頼りに慎重に進む。

 そんな中、小さな音がした。

 どこかのドアが開いたのか、軋むような音が続いた。


「二階は何があるの?」

「えっと、私の部屋とお姉ちゃんの部屋と、それからトイレと和室かな」

「じゃあ、まっすぐお姉さんの部屋を目指そう。きっとあの子はそこにいるよ」

「わかるの?」

「うん。仮にいなかったとしても、怪異の核になっているものはあるだろうからね」

「核になってるって、どういうこと?」

「あの子に関わる何か、だよ。亡骸かもしれないし、形見の品かもしれない。でも、それをどうにかしてあげればこの怪現象は収まるはずだよ」

「どうにかって、どうするの?」

「供物を捧げて祭文を唱えて神として祭り上げる……のが本式らしいけど、僕が藤姉さまに教わったのは、説得して大人しくしてもらう方法だったよ」

「大人しくしてもらうって、それは根本的な解決にならないじゃない。もっと何か」

「ないよ。僕みたいなただの人に、あっち側のものをどうこうできるような力なんてありはしないんだ」

「それじゃあ……それじゃあ、何のために今まで調べて来たの? まさか、単なる好奇心とかじゃないよね?」


 薫は否定の言葉を期待したが、返ってきたのは肯定だった。


「単なる好奇心、か。確かにそれはあるかもね」

「それはあるかもって、つまり好奇心で心霊探偵ごっこをしてたってわけ? つまり、私をだましてたとか、そういうこと?」

「最初に言ったよね。僕はゴーストバスターじゃないって。君はそれでもいいとすがりついてきたじゃないか。だから僕は持てる知識を総動員して事に当たったんだ。僕には藤姉さまみたいに猫の目も狼の牙も持ち合わせない、ただの妖怪マニアだってのにさ」

「……ごめん」

「謝んないでよ。僕だって半分好奇心で首突っ込んだんだから、さ」


 孝美が言い終わった時、ようやく美智の部屋の前に着いた。

 部屋のドアは開いている。


「入ってくれって」

「う、うん」


 薫が警戒しながら部屋に入ると、パソコンの画面がぼう、と光った。


『おかあさんここからだしていいこにしてたでしよさびしいよおなかすいたよおかあさんここからだして……』


 勝手に画面上に文字が並んでいく。

 薫が画面に気を取られていると、クローゼットの扉が開いた、堅い音がした。

 警戒しながらそちらを向くと、開いた扉につかまり立ちするようにして少女がこちらを覗いていた。


「あ、た、孝美……」

「君が、ハルナちゃんか」

『それ、わたし……の、なまえ』


 少女の口が動いた。


「そう。竹中陽菜たけなかはるな。それが君の名前だね?」

『あなた……だ、れ?』

「僕は孝美。黒田孝美だよ。藤姉さまの使いで来たんだ」


 孝美はコンビニの袋から赤飯のおにぎりを二つとも取り出すと封を開けて少女の前に置いた。


「さ、これをお食べ」


 少女は頷くと手を伸ばしておにぎりを手に取った。


『たべて、いいの?』

「うん。喉につかえないようにゆっくりお食べよ」


 夢中でおにぎりを頬張る少女を孝美は優しい顔で見つめていた。


「ね、孝美。あれってただのおにぎりだよね?」

「うん。そうだよ。座敷童は赤飯が好物だからね」

「やっぱり、座敷童なの?」

「さあね。ただ……」

「ただ?」

「この子も生きていれば僕たちの同級生になっていたかもしれないんだと思うと、ちょっとね」

「あっ……」


 十年前に六歳で行方不明になった少女。誕生日の都合によってはそうなっていてもおかしくなかった。

 薫はそれまで恐怖の対象でしかなかった目の前の少女に対して、初めてそれ以外の感情を抱いた。


「藤姉さまは悪いようにしない、と言っている。だから一度、会ってごらんよ」


 孝美は少女がおにぎりを食べ終わったところで声をかけた。


『ほんと?』

「うん。姉さまは絶対に嘘をかないから、きっと君のありたい形になれるよ。君はそんな姿にならなかったら、どうしたかったんだい?」


 少女はしばらく考えていたようだったが、やがてクローゼットの中に潜ると、小さな寄木細工の箱を持って出てきた。

 少女の手のひらに収まるような、小さな箱だ。


『これ……あたしの……』


 孝美が受け取ろうとすると、少女は身をかわした。


『やっぱり、だめ……さわったら……』

「大丈夫だよ。お守りがあるから」


 孝美は人型に切った半紙を見せる。

 それを聴いて納得したのか、少女はおずおずと箱を差し出した。


「うん、ありがとう」


 孝美は箱に直接は触らず、新しい半紙を三枚重ねて受け取った。

 そのまま半紙で箱を包むと、その上から呪文のようなものを書き、紙雛を添えるように折り目に差し込んだ。


『おねえちゃん、ありがと……』


 少女の姿が闇に融けるようにして消えた。

 すると、唐突に部屋が明るくなった。

 電気が点いている。


「えっと……?」

「さて、これで一般人の認識で言う『除霊』は完了だ」


 孝美は箱の包みを慎重に鞄にしまった。


「この子は今度の週末、藤姉さまのところに連れて行くよ。それまでは僕が責任を持って預かろう。じゃ、急ぐからこれで」


 そう言うと、孝美はさっさと帰ってしまった。

 一人残された薫は虚脱感に襲われ、玄関で孝美を見送ったままぼーっとしていた。


「なにやってんの?」


 不意に声をかけられ、我に返ると手にコンビニの袋をぶら下げた美智が不思議そうな顔をしていた。


 ***


 週末の土曜日。

 孝美に呼び出された薫は学校で待ち合わせて藤の屋敷を訪れていた。

 町外れの山の中に立てられた瀟洒しょうしゃな洋館。


「こんな家があったんだ……」


 使用人に通された応接間で、薫はきょろきょろと辺りを見回しては感心していた。

 壁に掛かっているのは複製とはいえ美術の資料集に載るような名画だし、調度品も手の込んだ装飾がなされている。

 テーブルの上には二人分の紅茶がこれまた高級そうなティーカップに注がれ、芳醇な香りを放っている。


「あら、ずいぶんお待たせしたようね」


 そんな応接間に目を泳がせている内に、藤が入ってきた。

 前に会ったときは制服姿だったが、今はフリルで飾りたてた豪奢な衣装を着ている。


「お気に召すようなものがあったかしら?」

「あっ、い、いいえ、えっとその……」


 しどろもどろになる薫に藤は柔和な笑みを浮かべた。


「藤姉さま、これが箱です」


 それまで黙っていた孝美が緊張した面もちで箱をテーブルの上に置く。

 箱には、薫の家で施したのよりも厳重な封印がなされていた。


「あ、あのっ、その箱、なんなんですか?」


 薫が訊くと、藤は細い指で封印の表面を撫でながら答えた。


「これはね、呪いの箱よ。コトリバコって聞いたことはない?」

「聞いたことあります。ネット怪談で広まったやつですよね。確か、子供を殺してその遺体を箱に詰めるとか……」

「そうよ。それが、これ。今時新しくこんなものを作るなんて、この子の両親はよほど強い恨みを持っていたんでしょうね」

「強い恨み……」

「まあ、『人を呪わば穴二つ』……箱が家に残されてた以上、呪いは不発に終わったと見るべきでしょうね。両親の失踪は呪詛返しの影響かしら」


 藤が淡々と話すのを聞いて、薫は背筋が寒くなった。

 世の中には、知るべきでない闇があるのだ。

「まあ、これは私が然るべき処置をしておくわ。まだしばらくは呪いが続くでしょうけど」

「……きつかったですよ。本人の意思と関係なく風が吹くんですから。何度身代わりを作り直したことか」


 孝美が口を尖らせると、その口に藤の人差し指が当てられた。


「駄目よ、孝美。薫が不安がってるじゃない」

「あっ、ごめん」

「うふふ、根はいい子なのよ。仲良くしてあげてね」


 二人の間に入りづらい何かを感じて、薫は黙って頷くことしかできなかった。


「そ、そういえばあの子はどうなるんですか?」


 何か言おうとしてようやく出てきたのが、その言葉だった。

 藤はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。


「本人次第、ね。彼岸あちらへ還るか、もう少し此岸こちらに留まるか……それはこの子の選択だわ」


 再び、箱を封印した半紙を撫でる。


「留まるって、どういう……?」

「有り体に言うと、一種の幽霊ね。孝美は座敷童って呼んでいたようだけど、つまりはそういう系統の神霊として留まるの」

「はぁ……」


 そんなことができるのだろうか。

 薫は初めて聴く話に半信半疑だったが、前に孝美がそんなことを話していた気がしたので、それ以上踏み込むのはやめた。

 きっと、これ以上悪い方向に転ぶことはもうないのだろう。

 箱の話はそれで終わりになって、後はしばらく取り留めのない話をした後、屋敷を出た。

 麓の住宅街で孝美と別れ、薫は一人自転車を漕いでいた。

 顔に当たる風が気持ちいい。

 薫はこころなしか肩が軽くなったような気がしていた。

 箱との関わりが切れたせいだろう。

 爽快な気分で街を駆け抜けていった。


 ***


 コトリバコ【子取り箱】

 **県の山間部に伝わるとされる伝承。

 一種の呪具であり、女性と子供だけに影響を及ぼす。

 見た目は組木細工の箱だが、中には間引かれた子供の体の一部が封印されており、触れただけではらわたが千切れ、死に至るという。

 その呪力の強さは中に封じられている子供の数で変わってくるとされ、一般にはチッポウ|(七宝)といって、七人を封印したものが最も強力であるとされる。

 というわけで、黒田の師匠、藤姉さまがひょっこり出る話でした。


 箱から解放されたあの子が一体、どんな選択をしたのか?

 それは、まあ別のお話ということで。


 いずれそんな話を書くまでお付き合い頂ければ幸いです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] オチが良いなあと思いました。ただ怖いだけじゃなく、ほんのり切なさを感じさせるラストのため、物語に深みが出ていました。 文章も綺麗で読みやすく、変な癖などもないので安心して読むことができまし…
2020/05/13 10:25 退会済み
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