襲撃の結末
夏休みに入る前に一度だけ流月さんとドライブに出掛けたことがある。親に車を借りて、取り立ての免許証を財布に入れて二人でドライブに行った。特に行き先も決めずに気の向くまま、楽しく談笑しながら。
少し疲れて休憩をしたのは人気の無い場所だった。椅子の背もたれを倒して談笑しながら見つめあって。僕は流月さんにキスをしようと思って、顔を近づけたら、流月さんはその顔を手で押し返した。
「なんで?」
思わず聞いてしまった。恋人なんだからキスくらいと思っていたから。
「ごめんなさい。キスは……」
その時は価値観とか僕が何の前触れもなくキスしようとしたことに抵抗があったのかも知れないと思って、頬にキスするだけで終わった。
現在。
「私ね、吸血鬼なの」
そう言う流月さんの見慣れた背中にコウモリの翼が生えていた。
「耳を塞いで」
言われるまま耳を塞ぐと、流月さんが僕を抱き抱えて、そのまま物凄い勢いで夜空に舞い上がった。ほとんどが寝静まる町が遠ざかり、熊みたいな生き物の姿も見えなくなっていく。
「もう……大丈夫だよ」
風が吹き荒れる中で流月さんの声だけが妙にハッキリ聞こえた。その声はいつかの告白の時より悲しそうな声をしている。
「こ、これが……」
「そう。言わなきゃいけなかったこと……」
小柄で柔らかい体はいつもと変わらない。でも、僕を抱き締める力は苦しい程に強かった。もちろん、僕を離したり落としたりしないために力強く抱き締めているんだろうけど、その腕は震えていて、泣いているのがわかった。
その時、僕の視界に黒い影が現れた。
「流月さん!後ろ!!」
僕の警告は遅かった。現れたのはさっきの熊みたいな生き物。熊みたいな生き物は鋭い爪で流月さんの背中を切り裂いた。不意討ちを喰らった流月さんは僕を抱き締めたまま地面へと落ち始めた。流月さんの名前を呼ぶけど、気絶している。切られた跡を覗いてみるけど、傷自体は物凄い勢いで跡形も残らずに治っていく。こんな状況で少し安心した。
視線を熊みたいな生き物に向けると僕達に向かって突進してきた。物凄い勢いでその距離を詰めてくるのに対して、僕には何も出来なかった。
不意に僕を抱き締める力が強くなった。流月さんが気がついたようだ。
流月さんはコウモリの翼を広げて、急旋回すると熊みたいな生き物から逃げた。熊みたいな生き物も僕と流月さんを追って急旋回した。どこまでも追ってくるつもりらしい。
眼下に広がる寝静まる町が徐々に近づいている。流月さんの顔は見えないけど、どうやらさっき切り裂かれた痛みを引きずっているようだ。流月さんは僕を抱き締めたまま必死に逃げているけど、熊みたいな生き物との距離はだいぶ縮まってきている。
「ごめんなさい。私のせいなの……」
流月さんはまた泣き出しそうな声で呟いた。
その時、熊みたいな生き物の爪が再び流月さんを捉えた。片方の翼が切り裂かれ、流月さんは飛んでいられなくなり、僕を抱えたまま落ちていった。地面が見る見る近くなっていく。墜落直前流月さんは僕を庇いながらスニーカーをボロボロにしながら着地した。僕に怪我は無かった。
着地したのは誰もいない河川敷だった。街灯も離れた場所にある橋にしかなく、真っ暗な闇の中で流月さんの様子を確かめた。
「る、流月さん!!だ、大丈……夫?」
切り裂かれた翼は元の形へと治り始めている。でも、流月さんの様子は耐え難い痛みに耐えているようで、とても大丈夫そうには見えなかった。
近くに何かが落ちた音がした。暗くてもわかる。あの熊みたいな生き物だ。
「に、逃げて……私が食い止めるから、早く逃げて」
流月さんは僕を逃がそうと熊みたいな生き物と僕の間に立った。翼と両腕を大きく広げて、少しでも僕の盾になろうとしている。
「な、何言ってるんだよ!!」
「いいから逃げて!!早く……逃げてよ」
流月さんが泣いているのがわかった。僕自身恐怖が無い訳がない。でも、それは流月さんも同じだろう。こんな経験を日常的に体験しているとは思えない。そう思うと僕は"あの時"みたいに流月さんを抱えて、走り出していた。
「ちょっと!!放して!!一人で逃げて!!」
そんなことが出来るわけがない。
「一緒に逃げるんだ!」
まあ逃げ切れるとも思えないけどね。
騒々しい足音が僕と流月さんを追い掛けてくる。
抱き抱えた流月さんが何か叫んでいる。
河川敷ということもあって足元は石ころだらけで走りにくい。
躓きそうになるけど、少しでも前に進んだ。自動車にひかれそうになる時、時間がゆっくり感じるらしい。今がそういう状態なんだと思う。世界の何もかもがゆっくりで、一瞬の出来事が何倍にも膨れ上がって見える。
「何かあったら真っ先に俺を頼れって言っただろ?」
やけにハッキリと聞き覚えのある声が耳元で聞こえると突風が僕の横を通りすぎた。それに少し遅れて熊みたいな生き物の叫び声が聞こえた。僕は足を止め、振り向いて様子を確認すると僕達と熊みたいな生き物の間に"何か"が立っている。暗くてよく見えないけど、どうやら僕と流月さんを守るように間に立っているようだ。
熊みたいな生き物が"何か"に襲いかかった。しかし、その巨体は"何か"に軽々持ち上げられて、川のほうへ投げ飛ばされた。熊みたいな生き物は大きな水しぶきと苦痛の叫び声を上げている。
"何か"は川に入っていき、暴れまわる熊みたいな生き物の鎮圧に入った。叫び声。骨が砕ける音。肉を食いちぎる音。弾ける水しぶき。聞き慣れない音の数々が僕の聴覚を独占し、やがて静寂が訪れた。
暗くてよく見えないけど、近くを通りがかった車のライトに照らされて、現状が把握できた。川にはさっきの熊みたいな生き物の残骸が生々しく残り、それのすぐ近くに身長2メートルはあるだろう人影が見えた。しかし、その人影は人の形によく似ているだけで、人ではない。全身が灰色がかった体毛に覆われた二足歩行をする狼だ。
狼はゆっくりと川から上がり、全身を振るわせて水気を飛ばした。手には熊みたいな生き物の残骸を引きずっている。
「怪我は無いか?」
見たこともない生き物から発せられた声には聞き覚えがある。
「お、大神……なのか?」
「そうだ。……ああ、この姿じゃわからないか」
二足歩行する狼の体がほんの少し縮み、鍛え上げられた肉体を見せつける大神健人の姿が現れた。
「お、おい。どうなってんだよ、これ!?」
もう何が何だかわからなかった。いつも通りバイトを終えたと思ったら変な男に追い回され、追い回されたと思えば流月さんが吸血鬼で、狼の大神が現れて、もう頭が状況の処理を拒絶している。
「影宮……俺は事後処理がある。終わるまでに説明しておけ」
大神はその場を離れて、どこかに電話をかけている。その場に残された僕は黙って流月さんを見つめた。
「何から……説明すればいいのかな……」
流月さんは静かに語り始める。