美月
真っ暗な暗闇の中に私はいる。
でも、確かに見える。細くて無数に枝分かれした管を脈打つ金色に輝く赤い水脈。
喉は焼けるように渇いて、目の前を脈打つ水が飲みたくて、その欲求を抑えられない。ううん。抑える必要なんてない。だって、ただ水を飲むだけだもの。どうして誰かの許可が必要なの。どうして我慢する必要があるの。
そんな必要なんてない。
「うるさいの~……」
名無島に到着してすぐに僕は僕史上最大の危機に直面した。流月の発作が始まったのだ。
流月は必死に吸血衝動と戦うように浜辺でもがき苦しんだ。砂浜に頭を打ち付けたり、転がっている岩に体をぶつけたり。とにかく痛みで衝動を抑え込もうとしているようだ。
でも、僕には何も出来ない。何かしたいと思う気持ちはあるけど、僕には手が出せない。ここには真祖・美月がいて、彼女を殺せば流月が人間になる可能性がある。その前に僕が死んでは意味が無い。
「ごめん、流月!!」
僕は苦しむ流月を残して島の奥へと進もうとした。流月が衝動を抑え込もうとしている内に美月を探し出して、殺そうと考えた。終わった後に流月と合流して、皆の所に帰ろう。そう考えていた。
でも、事態はそんなに甘くなかった。
島の奥に進もうとした瞬間から後ろにいるはずの流月が静かになった。嫌な予感というか、背筋が凍るような感じがして、全身に鳥肌が立ち、冷や汗が噴き出した。
振り向くと、真っ赤な瞳を光らせる流月が今までに見たこと無いくらい楽しそうな笑みを浮かべている。流月ってこんな顔もできるんだって素直に驚いた。ここまで来れたこと自体奇跡みたいなものだったんだ。もう少しだったけど、もう無理かも。
「流月……僕がいなくなっても、幸せになってね」
その瞬間、流月は鬼のような形相で僕に襲いかかってきた。吸血鬼だけにね。
「うるさいの~……」
聞き慣れない声だった。でも、美しくて、聞いてるだけで魂を抜き取られるような声だ。次の瞬間、流月と僕の間に誰かが現れて、流月の額に指を当てた。
流月は気絶するかのように砂浜に倒れて、慌てて駆け寄ったけど、流月は気持ち良さそうに眠っているだけだった。流月の安否を確認して改めて、僕の前に現れた人物に視線を向けた。
僕は綺麗な人はある程度見た経験はあるつもりだ。もちろん、テレビとか写真ぐらいだけど。でも、絶世の美女という人は見たことが無い。世界三大美女と呼ばれる人や、傾国の美女。三大悪女と呼ばれる美女も、もちろん、見たことは無い。でも、これだけは断言できる。目の前にいる彼女より美しい女性は誰一人存在しない。薄明かりの中で紅く煌めく長い髪。形容しがたい白い肌。整った顔立ち。浴衣を着ているが、かなり着崩して露出が多くて、目のやり場に困る。
「そんなに誉めちぎっても何も出ぬぞ?小僧」
「え?」
僕は確かに目の前の美女を見て、どんな特徴があって、どれくらい綺麗か表現したけど、声に出していた覚えは無い。
「心が読めるのじゃよ。何百年と生きているからの」
「じゃあ、やっぱり貴女が……」
「そうじゃ。お前が探している真祖・美月は妾じゃ」
探す手間が省けた。
「流月に何をしたんですか?」
「ああ、我が愛娘には少し幻を見てもらっている。血を吸う幻じゃ。じきに目を覚ます」
愛娘というのは、たぶん同族としての愛娘という意味だろうけど、今は流月が幻を見て、吸血衝動が落ち着いているというのも不思議だ。
「不思議がることはなかろう。そうだと錯覚すれば、それは事実なのじゃからな」
例えばお腹が空いた時にガムを噛むと満腹中枢が刺激されて、満腹感を覚える。そんなことだろう。
「我が愛娘は激しい禁断症状に苦しんでいるようじゃな。理由は話さなくても良い……"わかっておる"。砂浜での立ち話も一興じゃが、場所を変えよう」
美月は優雅に歩き、僕は流月を抱えて後を追った。
島はそれほど大きくはない。その大半を草木が覆っている。でも、自分勝手に植物が生い茂っているわけではない。ちゃんと人の手が加えられていて、目の前に広がる森には道があった。ちゃんと歩きやすいように石も埋められている。
「やることが他にないのでの。妾が手入れをしている」
美月が植物の手入れをしている姿は想像できなかった。むしろ、想像したくない。
「妾とて、かつては畑で働いていたのじゃぞ?」
「畑仕事!?」
全然イメージ出来ない。
心を読まれているから会話が出来ないし、こちらの考えが筒抜けというのも警戒のしようがない。それよりも驚いたのは美月の人間性だ。
「想像していたより、ずっと普通なんですね」
「どんなのを想像しておったのじゃ?もっと悪女か?それとも、この島のどこかで眠っていると思ったか?」
「ええ、まあ……」
「それは期待外れで残念じゃったの」
美月は笑う。驚くほど無邪気に笑う。
「ん……」
「流月?」
「あ、あれ?ここは?」
腕の中で流月が目を覚ました。
「名無島だよ。流月が連れてきてくれたんだ」
流月はまだ状況を把握できないように酔ったような顔をしている。
「さっきまでいっぱいチをすってたんだ~……エヘヘ」
どうやら本当に禁断症状も落ち着いているようだ。ただ、状態としてはあまり望ましいとは言えない。だって、完全に酔っている。血を大量に吸うとこうなるのか、それとも幻覚の副作用なのか。どちらにしても、僕には流月を人間にする方法を実行しなきゃいけない。
「確かに我が娘の状態は、幻覚の副作用と言ってもよかろう。当然、何度も使ってよい手段ではない」
前を歩く美月が僕の思考を読んで話しかける。
美月さんに案内された先には小さな家があった。日本昔話にでも登場しそうな家だ。
通された居間で、僕達は美月と向き合った。もっとも流月はまだ大量の血を吸った幻覚で夢心地のようで、猫が甘えるみたいに僕の膝に頭を擦り付けた。
「随分と好かれているのだな、人間」
「ええ、僕も大好きです」
「だから、ここに来たのじゃな?」
「そうです。僕の心が読めるなら、僕が何をしようとしているかわかりますね?」
美月は自分で用意したお茶を一口飲み、深呼吸をすると紅い瞳で僕を見つめた。
「妾は殺して、我が愛娘を人間に……か……」
当然のように読まれていた。でも、ここで僕は大事なことに気がついた。殺す方法も殺すために必要な武器も持っているけど、僕には美月をどうやって殺したらいいのかわからなかった。真っ向から立ち向かっても勝ち目は無いだろう。寝込みを襲おうと思っていたけど、それまでは待てないだろう。なら、いっそのこと「殺されてください」とお願いしてみようかとも考えたけど、そんなことで殺される訳がない。
「人間……人間はなぜこうまでした?」
「…………なんででしょうね?」
美月の質問に対しての答えがすぐに出せなかった。「愛のため」って答えれたらいいのかも知れなかったけど、ちょっと違う気もした。そもそも愛自体、僕には正直よくわからない。
「妾は…………人間のような男を知っている……」
「美月さんの"運命の人"ですか?」
美月は視線を居間の外に向けた。
「お前は似ておるよ……ああ、忘れもせぬ、あの男に……」
居間に突然光が溢れだし、目が開けられないほど輝いた後、周囲は昼間になり、外には桜の花びらが舞っていた。
「少し、昔話に付き合ってくれ」