胸騒ぎがして
日が沈み、街灯もないこの場所ではお互いの顔も見ることも出来ないほど暗い。でも、僕には流月さんが助手席で幸せそうに微笑んでいるのがわかる。流月さんが幸せそうな顔をするときは本当に幸せそうで、見ているこっちも幸せな気持ちになれる。
暗がりでよくは見えないけど、流月さんが手を伸ばして僕の頬を撫でた。
「ねえ……なんで?」
「え?ああ、なんか靴ばっかりに夢中だったから、イタズラしたくなって……」
「ううん、そうじゃなくて……」
暗がりでよくは見えないけど、流月さんは少し不安げな顔をしている。僕の頬を撫でる手も少し震えている。僕は流月さんが何を聞きたいのかわかった。
「ああ、『なんで、吸血鬼と知っても普通でいられるか?』ってこと?」
暗がりで流月さんの頭が縦に動いた。
「昨日の夜、大神にも同じことを聞かれたよ」
昨日の夜、流月さんは僕と大神より先に帰宅した。残った僕に大神は今、流月さんの代わりに言った質問と同じことを聞いてきた。だから、今も同じ答えを言おうと思う。
「流月さんは僕の血を吸ったりしないって信じてる。だって、そのつもりなら、今までいつだって吸う機会はあったでしょ?機会だけの問題じゃない。その気になれば拉致してってことだって出来たはず。でも、しなかった。だから、僕は流月さんを信じてる。おかしいかな?」
大神はおかしいって言った。
「おかしい……かな?」
流月さんは戸惑いながらもおかしいと思っているようだった。
「だって、今は我慢できるけど、いつか……いつか吸血しちゃうかも知れない」
「確かに死ぬのは恐いよ。でもね、恐いのは嫌いになる理由じゃないし、吸血鬼の流月さんが恐いわけじゃない」
「私が吸血鬼でも恐くない。恐いのは死ぬことだけ、嫌いにはならない?」
「うん」
僕には迷いがなかった。現に今、流月さんのことが恐いかと聞かれれば「恐くない」と言えるし、嫌いかと聞かれれば「大好き。愛してる」って言える。
流月さんが僕の上に乗ってきた。
「い、今ここで吸血することもできるんだよ?」
流月さんが何を考えているかわからない。でも、たぶんまだ信じられないんだと思う。だから、僕は流月さんの背後に手を回して、壊れるくらい抱き締めた。
「信じられないなら、今はそれでもいいよ。でも、僕は流月さんに嘘を言ってないっていうことは知っていてほしい。僕は流月さんのことが大好きで、愛していて、そんな言葉じゃ言い足りないくらい愛してるっていうことは知っていてほしいな」
「……う、うん!」
「あ、でも、いつまでも信じてもらえないってのも辛いな」
「ううん、信じる!!私も君のこと大好き!!」
流月さんが僕を抱き締める力が強くなった。苦しいくらい強く抱き締められた。下手をすれば骨が折れるかも知れない。でも、それでもなんか抱き締められている感覚が凄く嬉しくて、骨が折れる可能性なんてどうでもよかった。
「愛してるよ、流月さん」
そう言うと流月さんの抱き締める力が弱まって、僕から少し離れた。
「ねえ、覚えてる?君が初めて私に声をかけてくれた時、私のことなんて呼んでいたか」
「初めて?えっと、高校の熱中症で倒れた時だよね?確か……」
あの時だけじゃない。高校時代に流月さんのことを呼ぶ時は「影宮さん」と名字で呼んでいた。そういえば、「影宮さん」が「流月さん」になったのはいつの頃だったろうか。
「高校の時は確か影宮さんって……」
「流月さんって呼ぶようになったのは、大学初日。オリエンテーションの後に声をかけた時だよ」
そう。あの時は流月さんがいることが嬉しくて嬉しくて、つい思わずうっかり下の名前で呼んでしまった。でも、今は恋人同士。名前で呼んでも問題じゃない。むしろ、当たり前のことだ。
「そ、それがどうしたの?」
「えっと、そ、そろそろ……流月って、呼んで、ほしいなって」
流月さんは顔を赤く染めて僕から視線を反らした。ひょっとしたら流月さんにはこの暗がりでも僕の姿がちゃんと見えているのかも知れない。
まあ、そんなことより呼び捨てにしてほしいというのは僕にはなかなかハードルの高い要求だった。今まで女性を「〇〇さん」「〇〇ちゃん」としか呼んだことがないのにいきなり呼び捨てにしてほしいと言われても対応しきれないと脳が訴えている。
「る、流月……?」
背筋が痒くなる。
「もう一回」
「流月」
痒みの範囲が広がる。
「もっと呼んで」
「る、流月……さん、ごめん、ちょっと無理」
これ以上言ったら拒絶反応で全身が痒くなる恐れがある。それに対して、流月さんはどうやら不満のようだ。馬乗りになったまま唸りながら体を揺らした。
「な、慣れるまで時間がかかるんだよ」
「慣れたら呼ぶ?」
「もちろん!」
今度は嬉しそうに微笑みながら僕に抱きついてきた。そのまま黙ってしまったから、僕は流月さんの頭を撫でた。流月さんは嬉しそうに僕の胸に顔を押し付けて何か言っていたけど、何を言っていたかは聞こえなかった。
デートから数日が経ったある朝、彼からのメールが届いてなかった。いつもなら、アルバイトを終えた時と家に帰って寝るときの二回は連絡が来るはずなのに、今朝はその両方が届いていなかった。
でも、ひょっとしたら疲れて連絡できなかったのかも知れないし、今はまだ寝てるかも知れないから、もう少し待ってから連絡しようと思った。そう思って、読書を始めて、それから数時間経って、そろそろ連絡しようと電話をかけた。
『お掛けになった電話は現在電波の届かないところにあるか、電源が入っていないかでかかりません』
スマートフォンの向こうから聞こえてきた無機質な声に胸騒ぎを覚えた。だって、彼がスマートフォンの電源を切ることは考えられなかった。いつでもどこでも私からの連絡に気づけるように電源は常につけているって言っていた。
その時、電話がかかってきた。知らない電話番号だ。
「も、もしもし……」
『影宮流月か?大神だ』
「え?なんで大神さんが?」
教えてもいない連絡先が大神さんに知られているのが少し恐かった。
『そんなことどうでもいい。それよりアイツはどこだ?』
アイツと言われて、思い浮かべるのは彼しかいない。
「わからない。昨日の夜からの連絡が無いの。今、電話を掛けたけど、繋がらなくて」
電話の向こうで盛大な舌打ちが聞こえた。
『アイツを監視させていた部下が全滅させられて、俺の実家の前に飾られてた。ご丁寧に匂いまで消されてた』
心当たりはない。
『全員、狼に変身できない人間だ。全身には吸血された跡がある』
そこまで言われたら吸血鬼の仕業だとわかる。
「わ、私じゃありません」
『わかってる!犯人も!!俺達の仲間に裏切り者がいたんだ!!俺も今、アイツを探してる。悪い。手を貸してくれ!』
大神さんのことは彼からもたまに聞いてた。「悪い奴じゃない。友情に篤い良い奴だ」って彼は言っていた。でも、私は正直大神さんも人狼も苦手。だけど、嫌いじゃない。何よりも今、彼が行方不明になっているのを教えてくれて助かった。
「もちろんです!!」
私はすぐに動きやすい服に着替えて、彼からのプレゼントを履いて、窓から飛び出した。