喫茶店
ともすれば見すごしてしまいそうな、こじんまりとした喫茶店だった。
駅前からのびるメイン通りから一本奥まった、小規模なビルや商店がたちならぶにぎやかで雑多な通り沿いの一画に、その店はひっそりと建っていた。
白灰色の外壁に細長い小窓が五つ、一列に並んでいる。
扉は自動ではなく、こういった場所にしてはいまどき珍しい、手で開け閉めする木の扉だった。
大ぶりのノッカーが付いたレトロなデザインの扉。小さな窓ガラスにはアイリスを象ったステンドグラスが嵌め込まれ、外から射し込んでくる陽を受けて淡く光っていた。開閉のたびにドアに取り付けられた小ぶりの鐘がからん、と澄んだ音を響かせている。
ドアを開けると、正面に飾られた季節ごとの花々が最初に視界に飛び込んでくる。
今日は春の花――スイートピー、デルフィ二ウム、薔薇、かすみ草、そしてピンクのチューリップが店内に清楚な彩りをそえていた。
店内に足を一歩踏み入れると、全身を心地よい空気が包みこむ。一瞬、甘い花の香りがあたりをふわりと漂い、次いで珈琲の濃厚な香りにとってかわった。外の喧騒が嘘のような静けさだった。
優奈にとって、この喫茶店は特別な場所だった。
やわらかな光を投げかける間接照明や、ところどころに配置されたキャンドルの炎がほのかに揺らめくさまを眺めていると、こういうのを癒しの空間っていうんだろうな、とつくづく思う。
かすかに耳にとどく音楽もがやがやとうるさい流行歌などではなく、モーツアルトやショパン――とはいえ優奈にはひとくくりにクラシックに分類されるのだが――でちょっぴり優雅な気分を味あわせてくれる。
チェーン展開のされていない、美味しい珈琲を飲ませてくれる本格的な喫茶店だった。
手書きのメニューに書かれているのはいくつもの種類の珈琲と紅茶、軽食はやっておらず、ゆいいつ手作りのチーズケーキが二種類あるだけだった。
珈琲や紅茶はもちろんだがケーキも絶品で、優奈はこの店に来るたびにどちらのケーキにするか悩むのだった。
カウンターの奥に飾られたそれぞれ違うデザインのいかにも高価そうなコーヒーカップやティーカップを眺めながら、今回はどのカップで運ばれてくるのかしら、と優奈は想像をふくらませる。
まえにちらっと、客の雰囲気に合わせたカップで出されると聞いたことがあるけれど、それは本当だろうか。
優奈の今日の服装は、薔薇のコサージュがアクセントを添えたクリーム色のニットにピンクのスカートというもので、足元の茶色のショートブーツと合わせ、すべて先週新調したばかりのものだった。
脱いだばかりの白いハーフコートをあいた椅子に置くと、優奈は腕時計に目をやった。
1時42分――正章はまだ来ていない。
優奈は携帯電話をテーブルに出した。
メールはまだ来ていない。
優奈はかすかに眉をしかめた。遅れるのなら連絡くらいして、と何度言ったかしれないが、いっこうに改善される気配はなかった。正章はどうしてこう時間にルーズなのだろう。
とはいえ遅刻について文句を言うのは今日はやめておこう、そう優奈は思った。
今日はなにしろ優奈の二十八回目の誕生日なのだ。
三年前の正章との初デートで最初に入ったのが、偶然みつけたこの喫茶店だった。
それ以来、この喫茶店は二人にとっての『特別な場所』になった。
この店の雰囲気はもとより、珈琲もケーキもとても気に入っていたが、優奈は正章としかこの場所に足を運ぶことはなかった。
正章が到着したのは、二時を少し過ぎたところだった。
その間、メールも電話も、なんの連絡すらなかった。いつものこととはいえ、気分のいいものではなかった。
「待った?」
正章は悪びれたふうもなく笑みを見せた。
洗いざらしのシャツと色抜けしたジーンズにスニーカーという、いつもの休日のくだけた服装。ジャケットだけは新品で、黒やグレーを好む正章には珍しく薄い色合いのものだった。
スーツを着ているのときの正章はちょと冷たい印象だが、普段着だとどこかのんびりした雰囲気になる。
優奈とのデートでは遅刻の常習者なのに、会社で遅刻することはないらしい。
「三十分の遅刻」
「ごめん、家出るのが遅くなってさ」
「もういいわよ。これからはちゃんと連絡してね」
「……ごめん」
気まずい沈黙を破るように正章はメニューを広げた。メニューを一通り眺めてから、ちらりと優奈を見た。
「なにをたのんだの?」
「キリマンジャロ」
「俺は、じゃあ、ブレンドで」
注文をとりにきた店員に優奈はいっしょにレアチーズと珈琲のお代わりを注文すると、口を開いた。
「今日はどうする?」
「え? うん、そうだなあ……」
はっきりしない正章に、優奈は首を傾げた。
いままでの誕生日では平日はすぐ食事、休日なら夕方まであちこちぶらぶらしたり映画を見たりして時間をつぶし、それから予約しておいた店に行き、ちょっと豪華なディナーというのが定番だった。
ディナーまでは、時間はまだたっぷりあるはずだ。
優奈は届けられた二杯目のキリマンジャロをひとくちすすった。
「どうしたの?」
優奈の問いに、正章はふと我にかえったのかコーヒーカップを手に取った。
出された珈琲を飲みもせず、もう必要ないはずのメニューを眺めていたのだ。とはいえ熱心に、という感じでもなかった。
「どうしたの? なんか今日、へん」
「そんなことないよ」
ふだんは饒舌なはずの正章だが、今日はみょうに口数が少ない。さっきから心ここにあらず、と言った雰囲気だった。
「ふーん。ねえ、もうすぐゴールデンウィークでしょ、久しぶりに旅行でもしない?」
「旅行? いま会社が忙しいから、ちょっと難しいな」
「全然休み取れないの?」
「うん」
「えー、ゴールデンウィークだよ。近場に一泊でもいいから行こうよ。二日くらいなんとか都合つけて、ね? 実は、パンフレットもいくつかもらってきちゃったの」
優奈は水の入ったグラスと、赤い薔薇の飾られた一輪挿しを丸テーブルの端へ押しやった。
次いでケーキの皿とコーヒーカップを移動する。テーブルの半分のスペースを空け、ハンドバッグから二つに折り畳んだ旅行会社のパンフレットを並べた。
「適当に持ってきたんだけど、正章は行きたい場所ってある? 軽井沢あたりなら近くていいかなと思うんだけど」
軽井沢と明るい緑の文字で印字されたパンフレットを正章の方に押しやり、その顔を覗きこんだ。
浮かない表情だった。
「どうかした?」
にっこりと優奈は笑った。優奈はフォークを手に持った。いただきまーす、と言ってチーズケーキに飾られたミントの葉を手でどかす。それから言った。
「見てよ。ね?」
正章はのろのろと手を伸ばし、パンフレットを手に取った。気のない仕草で中身をぱらぱらめくる。
いやいやといった雰囲気がにじみでていた。お義理ていどに中身を見て、数秒後にはパンフレットをテーブルに戻した。
「いろいろ忙しくてさ」
いったん言葉を濁したものの、意を決したように正章はくちを開いた。
「旅行には行けない」
「なあに、そんなに仕事が忙しいの?」
「ちがう、仕事は関係ないんだ」
「どういうこと?」
「あのさ、俺たち、終わりにしないか?」
正章の唐突な言葉に、その意味をはかりかね優奈は聞きかえした。
「終わりにって、なにを?」
「だから別れようってこと」
「なにそれ」
まだひとくちも食べないまま、中途半端な位置でさまよっていたフォークを優奈は皿にもどした。
ケーキ用の華奢なフォークは静かな店内に思いのほか大きな音を響かせた。
軽い驚きと羞恥が優奈の胸のうちを波立たせる。耳障りな不協和音が後をひき、やがて波がひくように消えていった。
「なによそれ」
納得できるはずもなく優奈はくりかえした。
そうすることで正章が「冗談だよ」と言ってくれるのをなかば期待してもいた。
けれど望んでいる言葉が正章のくちからでることはなかった。
正章は胸ポケットから煙草を取り出すとクリスタルの灰皿を引き寄せた。
上半身を斜めにずらし、優奈から距離をとるように椅子の背もたれに寄りかかる。
たちのぼる白い煙は、二人の間を遮断する壁のようだった。タバコの煙は正章をより遠いものに感じさせた。
「いきなり別れ話なんて、どうして?」
水分が不足しているみたいに、喉がつまった。
うまく喋れない。声の震えをどうすることもできなかった。
「理由なんてないよ。ただ別れたいだけだ。マンネリっていうか、このままずるずる付き合ってても、いいことないしさ。お互い自由になるのがいいんじゃないかな」
「急にそんな話されても納得できないよ」
隣のテーブルで談笑していた二人の女性の会話が、いつのまにか止んでいた。
女性達が互いに目配せしあうのに優奈は気づいた。
「俺、もう帰るから」
「え? どういうこと? いま来たばかりじゃない」
「あまり時間がなくてさ。それにいつまでもここで話してても、もう意味ないだろ」
「そんな! 今日は誕……」
その後につづく言葉を飲み込んだ。
最悪の誕生日だった。お祝いのケーキもプレゼントもない、ほんとうに最悪の誕生日。付き合いだして三年目の、二十八歳の記念すべき、最悪の誕生日だ。
節目だと、ほんとうは期待していた。
しゃれたレストランのディナーの席で、食後の珈琲を飲んだあとで、正章がポケットから小さなビロードのケースを取り出すのを密かに夢みていた。
きらきら光るダイヤのリング。
その透きとおった輝きをイメージしながら、そのときに交わすロマンチックな会話を想像していた。
馬鹿みたいに。なんて滑稽なんだろう。
二ヶ月前の正章の三十歳の誕生日にはイタリアンのレストランを予約して、ワインをあけて祝った。そのときプレゼントした腕時計は今日の正章の腕には見当たらなかった。
代わりに腕にあるのは、見たことのない新品の腕時計だった。
その意味に、優奈はふいに思い当たった。
優奈の疑惑をうらうちするように、ふいに音楽が流れ出した。
最近あちこちで耳にする流行歌だった。
能天気な、場違いなほどに明るい電子音が、聞きなれたフレーズをくりかえす。
正章はジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。
「もしもし」
電話口の向こうから微かに声が漏れてくる。
予想の通り、女の声だった。そういうことか、と優奈は泣きたい思いで理解した。
優奈は立ち上がった。コートを手に取ると、千円札を一枚テーブルに置いた。
電話を終えた正章が呆然と見上げてくるのを、優奈は静かに見おろした。
「帰るわ」
声を荒げるでもなく、優奈は告げた。
他に言うべきことはなにもなかった。何か言えば、自分が惨めになるだけだ。
正章はまだ、ぐずぐずと座ったままだ。優奈が背を向けて歩き出して、ようやく立ち上がった。
「え? おい! 優奈」
ここにいても意味がない、そう言った当の本人がなぜか慌てふためいている。
追いすがって、泣きながら「捨てないで」と言うとでも思ったのだろうか。
「私の分はそこに置いたわ。お釣りはいらないから。じゃあ、さよなら」
「待てよ、優奈!」
静止の声にかまわず優奈は喫茶店を後にした。
背後で正章が何か叫んでいたが、無視した。
優奈は一度も振り返らず、逆に足を速める。
うつむき、足下に視線を落としたまま人混みを抜け、早足で信号を渡る。
目の前のデパートに飛び込んだ。
いくつかの売り場を横切り、人をかきわけるようにして奥に進み、トイレに入った。
トイレの個室に入ってドアを閉め、そのドアに寄りかかる。
ようやく優奈は号泣した。