5.「だから猫は嫌いなんだ。」
絶体絶命というのは、このような状況をいうのだろう。
「あらら、行き止まりだねー、お嬢さん」
にへら、と男が笑う。道路工事なんて、しなくていいのに。こんなことを計画した責任者をぶん殴りたい。だけど問題は、そのためには生き延びなければならない、ということだ。
「お嬢さんも災難だよね。俺の顔みたために、死ななきゃならなくなるなんてさ。見てなければ、逃がしてあげたのに」
「いま逃がすっていう選択は?ほら私、忘れっぽいですし」
「ないよー、ないない!てか、お嬢さん、おもしろいねー」
男はますます、笑みを深める。気持ち悪い。吐き気がする。
「そろそろ人を殺してみたいと思ってたんだよね。お嬢さんみたいな、おもしろい子なら、なおさら楽しみだな。あー、
お嬢さんは、どんな悲鳴を聞かせてくれるのかな」
男が、哂った。
ぞくり、と鳥肌がたつ。おかしい。どうしてこの男の笑みは、これほど生理的嫌悪感が勝るのか。あの青年の微笑は、普通だったのに。
ああ、そうか。
あの青年には、理由があった。この男には、ない。
だから、これは、私とは違うモノ。
「ねえ――」
ハッとした。気がつけば、目の前の男は、ナイフを振りかざしている。男が動けば、私は一瞬にして死ぬ。逃げなきゃ――だけど、後ろは行き止まりだ。どこへ――どこへ?
「よそ見してちゃ、」
どこへ、逃げればいい?考えろ。後ろへは行けない。なら、前だ。この男の隙をつければ。
「駄目だよ?」
隙?どうやってつけと?いや、やってみるしかない。さあ、動け、私。
「おじさんみたいな人に――」
動け。動け動け動け動け。
「殺されちゃうんだよ?」
動け、ない?
その時やっと、自覚した。私の体が、恐怖で固まっていることを。
でも、遅すぎた。
男がナイフを振り下ろすのが、ゆっくりと感じられる。一刻、一刻と。
私は――殺される。
みゃあ。
気が抜けるような声。私と男は、同時に横をみた。
ブサイクで、デブな猫。どちらにとっても唐突な出現だったが、その存在が見知ったものだったために、動いたのは私のほうがはやかった。
「――ッ!」
手にもった鞄を横にふる。ナイフを持ったまま固まっていた男に、もろにぶつかった。
「猫ッ」
呼んだ――けど、あの猫を抱えて走ることはできない。猫もそれを承知していたのか、私にはついてこなかった。
男はついてきた、と思う。無我夢中で走ったから、どんな道を通ったかさえ、よく覚えていない。
ただ、ああいうときに呼ぶ名前は、確かに必要だな――と、そう考えた気はする。
「あ、刑事さん?お久しぶりです」
あの事件のときに知り合った刑事さんに事情を話すと、「またですか?」と呆れられてしまった。私だって、好きでこんな目に合っているのではないのに。
家にくるというので、住所を教えて、電話を切った。ふとテーブルをみると、いつの間にか猫が陣取っていた。
ありがとう、というのも変な話だ。猫は助けようと思ってやったわけではないのだろうから。
私は黙って夕食をつくると、黙々と食べ始めた。
刑事さんは、あと数十分もすればくるらしい。それまで我慢しているのは、ごめんだ。あの時は、食べれられなかったけれど。それを考えると、慣れてきている気がする。……困る。
からん。
涼やかな音がして、ふっと前をみると、スプーンが転がっていた。その先には、
「猫ッ!お前また、私のデザート食べて!」
ヨーグルトで口周りを丸くした猫は、にゃあ、と鳴いた。それは助けてやっただろう、と恩をきせるようなものではなく、むしろ、子供が駄々をこねるようなものに感じられる。
「まったく――だから猫は嫌いなんだ」
嘘つき、と猫が言った。
ねえ、猫。私はそろそろ、私を赦してもいいんだろうか。
遅れました……申し訳ありません。
これにて完結です。
これまで付き合ってくださって、ありがとうございました。




