悪をうむ世界
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カツカツカツ、と。
石畳を叩く靴音が近付いてくる。
振り返った先、格子の向こう側に立っていたのはよく知った顔。
「ああ、ロキ」
来てくれたのね、と囁いた声は掠れてしまったが、聞き取れてはいるだろう。
光の届かず薄暗いこの場では、美しく輝いているはずのプラチナブロンドが鈍くくすんで見える。
その表情のように。
「リリス姉様、一緒に逃げましょう。まだ間に合う」
格子にすがるように項垂れる弟の言葉に、ゆるく首を振る。
その瞳の奥に、私の知らない炎が灯っていることを見逃せはしない。
この炎を、燃え上がらせるわけにはいかない。
「いいえ、私は行けないわ」
政争に負けた私では、足枷にしかなれないのだから。
差し出された、偽造通行証とローブ。
それらの小道具を前にして、ただロキの少し幼い顔を隠す前髪を指でなぞる。
「貴方の未来を賭けられるほど、価値のある命ではないのよ」
少し震える唇から、細く深く、息を吐く。
声が震えないように、お腹に力をこめる。
「お父様は…閣下は私を切り捨てることにしたのでしょう」
尋ねなくても分かっている。
私の身が、この場にあることこそがその証左。
なれば、私が舞い戻れば、この子の地盤が危うくなる。
事の発端は、婚約者であったオーディニル殿下が子爵令嬢と懇意になったこと。
身分差故に結ばれることはない、と。
そのうち我に返るだろう、と放置したことがいけなかったのか。
二人の恋は瞬く間に燃え上がり、子爵令嬢が聖なる力に目覚めてしまった。
それをきっかけに、殿下の青い恋を嘲笑していた廷臣たちすら手の平を返し。
新たな聖女の誕生に、国が沸いた。
その奇跡の陰で誰が消えるのかなど、国民は誰一人として気にも留めない。
そうなると、流れは変わる。
前日まで私に恭順を示していた者たちが、聖女の足元に跪いていた。
学友たちにも距離を置かれ、無関心だった肉親からは叱責を受ける。
人の心とは儚いものだ、と身をもって学ぶことになったわけである。
邪魔なのは、婚約者であった私。
婚約者のいる殿方と懇意にしてはいけない、という倫理観に対する苦言が、何故か暗殺未遂へと姿を変え、訴えを起こされた。
閣下は家を守るために、娘である私を切り捨てることにしたのだろう。
家門からの助けは見込めず、無実の訴えは握り潰され、私は地下牢で終わりを待つのみ。
光は生まれ、影もまた生まれた──それは、世界の始まりのように。
聖女を讃えるために、悪役は必要だったのだろう。
聖女の家格が低いのであれば尚更。
信じていた高貴な義務が、聖女という奇跡の前にいかに無力で、滑稽なものに成り下がったとしても。
絶望など、ありはしない。
「あの人は家族よりも家名を選んだだけではありませんかッ!」
「領地を守るためには、致し方ないことよ」
私がいなくなれば、家門は汚名をそそぐために私を最初からいなかったものとして扱うだろう。
それでいい。私の名は泥に塗れ、歴史の隅で腐り果てても。
その代わり、ロキ。あなたの名は、陽光の下で清らかに響くように。
「そうしてオーディニル殿下のような不実の権化に膝を折り、支えろと?」
「嫌ならいいのよ。ロキは自由に生きて」
最期にロキの顔が見られた。
それだけで、もう十分だった。
ギリギリと指先が白くなるほどに格子を握り締める手を、そっと包み込む。
ぬくもりを分け与えるように。
「ただ、復讐は考えないで。私の分まで世界を見てきて」
幸せに、なって。
反対の手で、揺れる瞳から溢れ落ちる雫を拭ってやる。
隈が色濃く残る目元を、そっと撫でた。
「ねえさまっ、」
「ごめんね」
私が謝ったところで、ロキの心が晴れるわけではないと分かっていても。
謝ることしかできない。
私が生きるわけにはいかないのだから。
泣き虫だった弟が、今は世界を敵に回してまで私を救おうとしてくれているのは嬉しいけれど。
その願いを聞いてあげることはできない。
もし違う運命にあったなら、姉弟として笑い合っていたかったけれど。
「誰かに見られる前に戻りなさい」
「いやだ、ねえさま、おねがいだから、」
「ごめんね、ロキ」
素早く転移の魔法を発動させる。
名高い魔導士である弟よりも得意な魔法。
戦いや政争の場から逃がすために磨いた力だというのに。
まさかこんなかたちで役に立つとは。
ゆるり、と口角が上がる。
見回りの兵が来る前に、この子を家に戻さなければならなかった。
例え恨まれることになったとしても。
「ねえさまっ、なんでっ、」
「ロキ」
顔を上げたロキと目が合う。
ハッと息を飲んだ弟を呼ぶ。
「あいしているわ」
笑おう。心の底から。
ロキが生きていけるなら、それだけで幸せであると示そう。
弟の記憶に残る最期が、笑顔であるように。
伸ばされた震える指先に、キスをひとつ。
直後、発動を終えた魔法でぬくもりがとけて、静寂。
ロキが握っていた格子の鉄が、彼の体温で少しだけ温かくなっている。
あの子から溢れた涙が石畳に小さな染みを作っている。
「ああ、静かだわ」
魔法の残滓が消えた空間は、先ほどまでよりもずっと広く、冷たく感じられた。
夜会で浴びた耳を劈く賛辞や妬み。
あれほど賑やかで、そして空虚だった場所に比べれば、この死を待つ静寂の方がよほど私を安らがせてくれる。
常に背筋を伸ばし、王家に相応しい微笑を貼り付けていた冷えた日々を連想させる牢。
けれど、指先にはまだ、弟が流した涙の熱が残っている気がする。
指先を見下ろして、フッと笑みが零れた。
あの子は知らないのだ。
私がどれ程、あの子に救われてきたのか。
殿下の婚約者である重圧に押し潰されそうになっていた日々も、あの子の微笑みひとつで、私は何度でも立ち上がることができたのだ。
家族関係が稀薄なあの家で、慕ってくれた唯一無二の弟。
厳格な父も、多忙な母も教えてくれなかった、唯一の『家族』という実感。
かつて、まだ言葉も持たぬ赤子のロキが私の指を握りしめ笑ってくれた時、私は初めて『自分以外の誰かのために生きる』という、甘やかな祝福を賜ったのだ。
吸い付くような手のひらの柔らかさも、あたたかなミルクの香りも、私を彩る一因となり。
ただ生きているだけだったあの頃の私は、心をもった。
ロキの未来のために生きてきた。
それを守るためなら、私は喜んで泥を啜り、断頭台の露となろう。
最後くらい、私の手でその未来をこじ開けてやろう。
……我ながら、随分と歪んだ姉だと思うけれど。
「……それにしても、あの子は本当に泣き虫ね」
誰に聞かせるでもなく呟き、硬い石壁に背を預けた。
復讐をさせない。それが姉としての、最後にして最大の仕事。
殿下の愛も、聖女の奇跡も、国そのものも。
どうでもいい。
優しいあの子に未来があるのなら。
それをまもるのは、姉としての義務であり、権利だ。
「私の全ては──」
言いかけて、言葉を飲み込む。
誰に告げるわけでもないが、音にするほどでもない。
冷え切った空気に、ほぅっと息が溶けた。
最後に弟の涙をぬぐった指先を撫でる。
あの手の熱を絶やさぬこと、ただそれだけが願いだ。
──あの子がこれからを生きる世界は、きっと私がいた場所よりずっとうつくしい。
ゆっくりと瞳を閉じた。
それは、長く苦しかった義務からの解放であり。
最初で最後の、私のための選択。
遠くで、重苦しく開く扉の音が響く。
上階の向こうから、兵の足音が聞こえてくる。
死はすぐそこだ。
けれど今の私には、不思議と恐怖などない。
最後に見たあの子の顔が、触れた優しさが。
これからの暗闇を照らす松明のように、胸の中で温かく燃えているから。
──どうかロキが、世界に牙を剥くような人になりませんように
私は目を閉じたまま、穏やかな心持ちで、その時を待った。
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