表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/24

第8話「黒薔薇の残響(理奈編)」

夜明け前の王都は、薄い霧に包まれていた。

冷たい空気の中、聖堂の鐘が一度だけ鳴り響く。


理奈は外套のフードを深くかぶり、

静まり返った石畳を踏みしめながら歩いていた。


向かう先は――教会の北塔。


昨日、ディランが言っていた。

「黒薔薇の印の痕跡が残っている」と。


その理由は分からない。

ただ、胸の奥がざわついて、落ち着かない。


(どうして……こんな気持ちになるの?)


* * *


北塔の前に着き、理奈は扉へ手を触れた。


ひんやりと冷たい。

けれどその奥に、温かい何かが潜んでいるような気がした。


扉を押し開けると、

古びた石造りの階段が、月光を受けてぼんやり浮かび上がる。


壁には女神の紋章と並んで、

ほとんど消えかけた“黒薔薇”の彫刻。


理奈はその花弁をそっとなでた。


「黒薔薇……呪いの象徴だって聞いていたのに」


どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。


まるで――涙を流した誰かを思い出しそうな、そんな痛み。


* * *


「聖女殿」


静かな声に振り返ると、ディランが立っていた。

松明を掲げた彼の顔は、少し緊張を帯びている。


「ここは長く封印されていました。

“聖なる光の影”を閉じ込めた塔……そう言われています」


「影……?」


ディランは頷いた。


「古文書には、こうあります。

『光が生まれるとき、その影もまた芽吹く』と」


理奈は目を細め、彫刻に視線を戻した。


(影……黒薔薇……)


胸の奥で、何かがかすかに震えた。


* * *


最上階へ続く扉を開くと、

古い祈りの祭壇がひっそりと残されていた。


中央には――

欠けた黒薔薇の印。


理奈は膝を折り、そっと手を重ねた。


その瞬間――


(――お……ね……ちゃ……)


風のように柔らかい声が、胸の奥で響いた。


理奈は思わず息を呑んだ。


(だれ……?)


聞き覚えがないはずなのに、

胸が痛くて、熱くて、泣きそうになる。


続けて、もう一度。


(――お……ね……ちゃ……い……)


泣いているような、必死に呼んでいるような声。

それは、言葉になる前に霧の中へ溶けていった。


理奈の指先が震え、

気づくと涙が頬を伝っていた。


「聖女殿!? 本当に大丈夫ですか!」


ディランが慌てて駆け寄る。


理奈は小さく首を振り、涙を拭った。


「……うん、大丈夫。

ただ……今の声……すごく懐かしくて……」


「声……ですか?」


「誰だか思い出せないの。でも――」

胸に手を当てる。

「大切な人の……泣き声のような気がしたの」


自分でも理由が分からない。

けれど、それだけは確かだった。


* * *


朝の光が塔の窓を染め始める。


黒薔薇の印がわずかに光ったように見えたが、

理奈は気づかず立ち上がる。


「……わたし、まだ知らないことがある。

大事な何かを忘れてる」


ディランは黙って頷き、

彼女の歩みのあとを静かに追った。


同じ時刻――


遠く離れたロズベルク邸でも。

ミレーヌの胸の黒薔薇のブローチが、同じ光を放っていた。


二つの光は、まだ互いの存在を知らないまま――

同じ朝へと、静かに目を覚まそうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ