第8話「黒薔薇の残響(理奈編)」
夜明け前の王都は、薄い霧に包まれていた。
冷たい空気の中、聖堂の鐘が一度だけ鳴り響く。
理奈は外套のフードを深くかぶり、
静まり返った石畳を踏みしめながら歩いていた。
向かう先は――教会の北塔。
昨日、ディランが言っていた。
「黒薔薇の印の痕跡が残っている」と。
その理由は分からない。
ただ、胸の奥がざわついて、落ち着かない。
(どうして……こんな気持ちになるの?)
* * *
北塔の前に着き、理奈は扉へ手を触れた。
ひんやりと冷たい。
けれどその奥に、温かい何かが潜んでいるような気がした。
扉を押し開けると、
古びた石造りの階段が、月光を受けてぼんやり浮かび上がる。
壁には女神の紋章と並んで、
ほとんど消えかけた“黒薔薇”の彫刻。
理奈はその花弁をそっとなでた。
「黒薔薇……呪いの象徴だって聞いていたのに」
どうしてこんなにも胸が痛むのだろう。
まるで――涙を流した誰かを思い出しそうな、そんな痛み。
* * *
「聖女殿」
静かな声に振り返ると、ディランが立っていた。
松明を掲げた彼の顔は、少し緊張を帯びている。
「ここは長く封印されていました。
“聖なる光の影”を閉じ込めた塔……そう言われています」
「影……?」
ディランは頷いた。
「古文書には、こうあります。
『光が生まれるとき、その影もまた芽吹く』と」
理奈は目を細め、彫刻に視線を戻した。
(影……黒薔薇……)
胸の奥で、何かがかすかに震えた。
* * *
最上階へ続く扉を開くと、
古い祈りの祭壇がひっそりと残されていた。
中央には――
欠けた黒薔薇の印。
理奈は膝を折り、そっと手を重ねた。
その瞬間――
(――お……ね……ちゃ……)
風のように柔らかい声が、胸の奥で響いた。
理奈は思わず息を呑んだ。
(だれ……?)
聞き覚えがないはずなのに、
胸が痛くて、熱くて、泣きそうになる。
続けて、もう一度。
(――お……ね……ちゃ……い……)
泣いているような、必死に呼んでいるような声。
それは、言葉になる前に霧の中へ溶けていった。
理奈の指先が震え、
気づくと涙が頬を伝っていた。
「聖女殿!? 本当に大丈夫ですか!」
ディランが慌てて駆け寄る。
理奈は小さく首を振り、涙を拭った。
「……うん、大丈夫。
ただ……今の声……すごく懐かしくて……」
「声……ですか?」
「誰だか思い出せないの。でも――」
胸に手を当てる。
「大切な人の……泣き声のような気がしたの」
自分でも理由が分からない。
けれど、それだけは確かだった。
* * *
朝の光が塔の窓を染め始める。
黒薔薇の印がわずかに光ったように見えたが、
理奈は気づかず立ち上がる。
「……わたし、まだ知らないことがある。
大事な何かを忘れてる」
ディランは黙って頷き、
彼女の歩みのあとを静かに追った。
同じ時刻――
遠く離れたロズベルク邸でも。
ミレーヌの胸の黒薔薇のブローチが、同じ光を放っていた。
二つの光は、まだ互いの存在を知らないまま――
同じ朝へと、静かに目を覚まそうとしていた。




