第7話「聖の影に揺れる祈り(理奈編)」
夜の聖堂に、鐘が静かに鳴り響いていた。
昼間の熱の残る空気はすっかり冷え、
石畳を渡る風だけが、ひんやりと頬を撫でていく。
理奈は祭壇の前にひとり立ち、
胸のロザリオをそっと握りしめた。
蝋燭の淡い光が揺れ、
その横顔には深い疲れと、拭えぬ不安が滲んでいた。
「……黒薔薇の印。
女神が示したのは、やっぱりあれなのね」
昼間、大司教から告げられた神託が頭をよぎる。
『黒薔薇は都に根を張り、聖の光を試すだろう』
何度祈っても、胸のざわめきは消えなかった。
黒薔薇――
穢れの象徴、とされる花。
なのに、不思議とその名を聞くたびに胸が痛むだけでなく、
なぜか“懐かしさ”が滲む。
(……どうして?)
瞳を閉じると、
胸の奥に触れる“誰かの手”の温もりがよみがえる。
――光の中で抱きしめた、あの温かさ。
――涙越しに見た、あの優しい顔。
なのに、その名前は霧の奥でぼやけたままだ。
「……どうして……こんなに苦しいの?」
小さな声が、濡れた祈りのようにこぼれた。
その時――
ぎぃ……と聖堂の扉が軋む。
理奈が振り返ると、
白い外套をまとった銀髪の青年――ディランが立っていた。
月明かりに濡れた肩から、夜露が滴る。
「聖女殿……まだ起きておられたのですね」
昼間よりも柔らかい声だった。
彼もまた一日の調査で疲れているのだろう。
「少し……祈っていただけよ」
理奈が微笑むと、
ディランの瞳にわずかな安堵が浮かんだ。
彼は理奈のそばに歩み寄り、小声で続けた。
「黒薔薇の印の調査ですが……
追加の情報が入りました。
お伝えせねばと思い、参りました」
「追加の情報?」
「はい。
黒薔薇の印は、どうやら“組織的に”動いているようです。
そして――」
ディランは少し言いにくそうに視線を落とす。
「神託の二つ目の言葉……
あれが、どうやら彼らの目的に関わっている可能性が」
「二つ目……?」
昼間は告げられなかった言葉を、
ディランは静かに口にした。
「『その根は――聖の影より生まれる』」
理奈は息を呑んだ。
(聖の影……
それって……聖堂に属する誰か、ということ……?)
胸の奥に冷たい予感が走る。
「まさか……教会の中に、“黒薔薇”と繋がる者が?」
「断定はできません。
ですが、警戒すべきでしょう」
ディランは真剣な眼差しで続けた。
「聖女殿の“信じる力”を、神は試しておられるのかもしれません」
“信じる力”――
その言葉は、理奈のどこか深い場所に触れた。
――『大丈夫。わたしが、ずっと守るから』
幼い声が、耳の奥で響いた。
胸が熱くなり、涙がにじむ。
(誰……?
どうしてこんなに……恋しいの……?)
理奈は小さく首を振った。
ディランは立ち上がり、静かに告げる。
「明朝、北塔へ向かいます。
黒薔薇の痕跡が残っているようです」
「北塔……ええ、分かったわ」
青年は礼をして、月光の中へと消えていった。
扉が閉まると、
聖堂に再び静寂が落ちる。
理奈は祭壇に手をつき、震える声で祈った。
「……胸が痛い……どうして……」
涙がロザリオへと落ち、
小さな光の粒となって消える。
蝋燭の炎がゆらめき、
窓の外にはひときわ明るい月。
その同じ月を――
遠く離れたロズベルク邸のバルコニーで、
ミレーヌ・ド・ロズベルクも見上げていた。
言葉にはならないまま、
姉妹の祈りは静かに夜空で重なり――
ただひとつの光へと溶けていった。




