第5話「二つの祈り(理奈編)」
聖堂の鐘が、夜空に静かに響いた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、
石畳を渡る風だけが、冷たく頬を撫でていく。
理奈は灯りの消えた聖堂にひとり立っていた。
祭壇の燭台に小さな火をともすと、
柔らかな光がゆっくりと空気に滲んでいく。
「……今日も、無事でありますように」
誰に向けたわけでもないその祈りを、
胸の奥にそっと沈めた。
指先がふるりと震える。
昼間、病に伏した子どもの手を握ったとき――
少しだけ熱が引いたその瞬間。
あの温もりが、
どこかで“自分が守れなかった誰か”の感触に重なった。
理奈は静かに目を閉じる。
“光の中で抱きしめた、あの人”。
“名前を呼んだはずの声”。
思い出そうとすると、
胸の奥に柔らかな痛みが走る。
「……どうして、こんなに懐かしいの……?」
祈りの言葉は、夜風の中に吸い込まれていった。
聖堂の扉が小さく軋む。
振り返ると、外套を羽織ったディランが立っていた。
肩には夜露が落ちている。
「聖女殿……まだ起きておられたのですね」
「少しだけ、祈っていました」
理奈は微笑むが、
その笑顔の影に疲れが滲んでいることを、ディランは見抜いた。
「南区の調査は順調です。
ただ……黒薔薇の印を持つ者が倉庫街を移動していると」
「黒薔薇……」
その言葉を聞いた瞬間、
理奈の胸が強く脈打った。
どこかで聞いた。
夢か、物語か――
断片的な映像だけが浮かぶ。
けれど、掴もうとすると霧のように逃げていく。
「黒薔薇って……どんな形なの?」
「五枚の花弁に、中央に赤い宝石。
……ロズベルク公爵家の古い紋章に似ていると言われています」
ロズベルク――
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
(……誰か……この名前を……)
記憶の端に触れたようで、けれど思い出せない。
「……ロズベルク……」
つぶやいた名は、祈りよりも小さかった。
それでも、深く心に沈んだ。
***
聖堂を出ると、月が真上に浮かんでいた。
雲の切れ間から落ちる白い光が、石畳を淡く照らす。
理奈はそっと空を見上げる。
――どこかで、同じ夜空を見ている気がした。
――その人もまた、誰かの無事を祈っている気がした。
指先を重ね、目を閉じる。
「どうか……あなたが、無事でありますように」
誰に向けた祈りなのかは分からない。
けれど胸の奥の灯だけは、確かに温かかった。
***
そのころ、遠く離れたロズベルク邸――
窓辺に立つミレーヌ・ド・ロズベルクが、
同じ月を見上げていた。
両手を胸の前で重ね、
静かに祈るように目を閉じる。
「どうか……あの光が、消えませんように」
二つの祈りは夜風に乗り、
見えない場所で――静かに重なり合った。
まるで、互いの存在を知らぬまま、
同じ記憶の欠片に手を伸ばしているかのように。




