第3話「聖女の使命(理奈編)」
鐘の音が、遠くで三度鳴った。
修道服の少女――マリアが小走りで戻ってくる。
白いフードが揺れ、息を整えながら小さく会釈した。
「リディア様。大司教さまがお呼びです。
女神より“ご神託”が下りました」
理奈は胸元のロザリオをそっと握りしめた。
掌の中に、かすかな温かさが広がる。
「……わかった。案内して」
* * *
聖堂中央。
七色の光が色ガラスを透かして床石に散っていた。
大司教は祈りを結び、静かに顔を上げる。
「聖女リディアよ」
「……はい」
「王都南区で、原因不明の熱病が流行している。
女神は“ひとつの灯”を授けてくださったが……
同時にこう告げられた。
『黒き薔薇は、都に根を張りつつある』」
黒き薔薇――。
胸の奥が小さく脈打った。
遠い夜の雨音の記憶がかすかによみがえる。
「行って、祈ります。
少しでも……助けになれるなら」
「危険を伴う。護衛を付けるつもりだが――」
「必要ありません。
……いえ、必要以上には」
自分でも驚くほど強い声だった。
大司教は短く頷き、
深い青の珠をあしらったロザリオを差し出した。
「“碧滴のロザリオ”。
熱と穢れを鎮める加護がある。
身を守りなさい」
ロザリオの金具は冷たいのに、
触れた途端、胸の奥が懐かしいほど温かくなる。
(……どうして……)
答えは霧の向こうにあるままだった。
* * *
王都南区――
川沿いの細い路地は、湿った木と薬草の匂いに満ちていた。
戸口に座り込む母親が、
理奈を見て泣き崩れる。
「聖女様……どうか、息子を……!」
布団の上で幼い少年が浅い呼吸を繰り返していた。
額には赤い火照り、痛々しくこわばった指。
理奈はそっと膝をつき、少年の手を包む。
「お水と……清潔な布をお願いします」
マリアが駆ける。
目を閉じ、胸元のロザリオに意識を預けた。
胸の奥で灯る小さな炎のような温もりが、
じわりと指先に広がる。
――どうか……
祈りは静かに流れ、
少年の熱をすこしずつ和らげていった。
眉間の皺がほどけ、
呼吸が落ち着き、
細い肩が緩んでいく。
「……あったかい……」
かすれた声が落ちた。
母親の嗚咽は、安堵の涙へ変わった。
(……よかった……)
胸の深いところで、
風鈴のように透明な音が鳴った気がした。
誰の声かも分からないのに、
その“ぬくもり”だけは確かだった。
「眠っていいよ。
もう大丈夫だから」
少年は静かに目を閉じた。
マリアが戻ってきて報告する。
「南区だけではありません。
東区にも同じ症状が広がっているようです」
「川筋で繋がっている……
原因の根を断たないと、また広がる」
言葉が、不思議なほど滑らかに出た。
知らないはずの地図が、
頭の中で自然に結びついていく。
「次の家へ行こう」
* * *
夕刻。
三軒目に向かう路地で、男たちが道を塞いだ。
黒い刺繍の入った外套。
薔薇の紋章が袖口に光る。
(……薔薇……?)
胸がわずかに縮む。
「通行はここまでだ。
ここはロズベルク公爵家の倉庫街。
立入は禁止だ」
ロズベルク――
聞いたことがある。
けれど記憶は霧の中。
「病が出ています。中を確認させてください」
「命令書は?」
「女神の名のもとに――」
言い終える前に、
柔らかい声が割り込んだ。
「聖女殿に無礼はやめなさい」
人垣が割れ、
銀縁の眼鏡の青年が歩み出た。
胸元には王城文官の証印――
規律と権限を示す印章。
「本日付で、王都の衛生調査への協力を求める通行証が発行された。
ここにある。異議はあるまい」
男たちは反発しつつも、退いた。
青年が軽く頭を下げる。
「王城文官のディランと申します。
以後は私が同行します」
理奈は礼を返し、倉庫の扉に向き直った。
錠前が湿り、鉄の匂いが鼻を刺す。
扉が軋むと、むっとした温気が流れ出た。
「……腐ってる……」
積まれた木箱。
黒く沈む水染み。
湿気で腐った薬草から甘い悪臭が漂う。
「川が増水した日に、水が入ったのでしょう」
ディランが眉をひそめる。
「これが市に出れば、熱を悪化させます」
理奈は箱に手をかざし、目を閉じた。
冷たい影の底に、
細い光の糸のような“あたたかさ”が辿り着く。
祈りが、穢れを吸い上げていく。
「……ここはひとまず浄めたけど、
上流の倉庫も確かめる必要がある」
「手配します」
ディランは素早く書記板に記す。
「聖女殿、治療はあなたにしかできません。
ご無理は禁物です」
「……そうみたい。
少しだけ、胸が重いけど……大丈夫」
疲労は確かにある。
それでも胸の奥で、
誰かから渡された“細い灯”が燃えている。
(……この灯だけは、落としたくない……)
* * *
日が沈み、路地に灯がともる。
理奈は最後の家を出て、
冷たい風の中に立ち止まった。
遠くで子どもの笑い声が響く。
それが胸の奥をそっと叩いた。
(……よかった……)
名を呼びたい衝動が喉まで上る。
けれど、言葉にはならない。
理奈は小さく微笑んだ。
「――明日も、行こう」
夜の鐘が四度鳴る。
黒薔薇の影はまだ息を潜めている。
けれど灯は増えている。
ひとつ、またひとつ。
理奈はロザリオを握り、
静かに歩き始めた。




