第20話「静かな余波(理奈編)」
北塔から戻ったその夜、
理奈は聖堂の自室で一人、ベッドに腰かけていた。
窓の外では、王都の灯りが静かに瞬いている。
昼間の出来事が、まだ胸の奥で微かに脈打っていた。
(……まだ、少し熱が残ってる)
額に手を当てると、ほんのりとした熱。
けれど、動けないほどではない。
ロザリオを手に取ると、指先にほのかな温もりが伝わってきた。
北塔で感じたあの光――
胸の痛みと一緒に、確かに“何か”が残っている。
コンコン、と控えめなノック音。
「……どうぞ」
扉を開けたのはディランだった。
昼間よりも少しくだけた装いで、手には湯気の立つカップを持っている。
「聖女殿。
医師の許可は出ていますが……無理はなさらぬようにと」
そう言って、テーブルにカップを置いた。
「ありがとう。気を遣わせてしまって……」
「当然です」
即答だった。
理奈は少し驚いて、ディランの顔を見る。
彼は視線を逸らし、わずかに咳払いをした。
「あなたは、この国にとって大切な存在ですから」
“国にとって”。
その言葉は正しいはずなのに、
なぜか胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(……それだけ、なのかな)
カップに口をつけると、温かな香りが広がる。
その優しさに、思わず肩の力が抜けた。
「北塔で……何か、見えましたか?」
ディランの問いは静かだった。
理奈は少し考え、正直に答える。
「はっきりとは、分からないの。
ただ……誰かが、とても悲しんでいる気がした」
言葉にした瞬間、胸が締めつけられた。
「助けたいのか、思い出したいのか……
それすら分からなくて」
ディランは黙って聞いていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「分からなくていい。
あなたが“感じた”という事実だけで、十分です」
理奈は顔を上げた。
「……そう、なの?」
「はい。
あなたの光は、理屈で動くものではない」
その言葉は、妙に心に残った。
(光……)
自分が、そんなものを持っているなんて、
まだ実感はない。
それでも――
誰かの声を感じ、誰かの痛みに共鳴してしまうこの感覚は、
確かに自分の中にある。
ディランは立ち上がり、扉の方へ向かう。
「今夜は、ゆっくり休んでください。
明日は……来訪者があるかもしれません」
「来訪者?」
「ええ。
あなたに会いたい、と望む者が増えています」
理奈は小さく息を呑んだ。
(……また、新しい人と出会う)
それが少し怖くて、
同時に、なぜか胸がざわついた。
「……分かったわ」
ディランは扉の前で一度だけ振り返り、
柔らかく微笑んだ。
「おやすみなさい、聖女殿」
「……おやすみなさい」
扉が閉まり、静寂が戻る。
理奈はベッドに横になり、天井を見つめた。
(わたしは……何者なんだろう)
記憶はない。
過去も、前の自分も分からない。
それでも――
誰かのために胸が痛むこの感覚だけは、
どうしても否定できなかった。
目を閉じると、
遠くで、黒髪の誰かがこちらを見ている気がした。
顔は見えない。
名前も分からない。
けれど、その視線はとても切なくて、
なぜか、懐かしい。
(……あなたは、誰?)
答えは返ってこない。
ただ、胸の奥で、
黒薔薇と光が静かに呼応する感覚だけが残っていた。
その夜、
理奈は久しぶりに、夢を見なかった。




