第19話「揺れる予感(沙良編)」
ロズベルク邸の応接間には、午後の光が静かに差し込んでいた。
重厚なカーテン越しの陽射しは柔らかく、室内の調度を淡く照らしている。
沙良はソファに腰を下ろし、胸元の黒薔薇のブローチを無意識に指でなぞっていた。
(……また、だ)
ほんの一瞬。
けれど確かに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
理由は分かっている。
今朝、教会の北塔へ聖女リディアが向かったという報告を聞いたときから、
この違和感は消えなかった。
「……向こうで、何かが起きてる」
小さく漏れた呟きは、誰にも届かない。
沙良はこの世界のことを知っている。
物語の流れも、登場人物も、そして――
“聖女と悪役令嬢が、決して相容れない存在として描かれること”も。
それなのに。
胸の奥で疼くこの感覚だけは、
ゲームの知識にはなかった。
「ミレーヌ様」
静かな声に顔を上げると、ルシアンが控えめに立っていた。
「王都より知らせが。
聖女殿下が北塔で調査を行ったとのことです」
沙良の指先が、ぴくりと震える。
「……無事なの?」
問いは自然と口をついて出ていた。
ルシアンは一瞬だけ間を置き、頷く。
「はい。大事には至らなかったようです。
ただ……少々、体調を崩されたと」
その言葉を聞いた瞬間、胸が強く痛んだ。
(……やっぱり)
理由は分からない。
会ったこともないはずなのに、
顔すら知らないはずなのに。
まるで――
自分の一部が揺さぶられたような感覚。
沙良は立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
外では、黒薔薇の庭が風に揺れている。
「ルシアン。
わたし、しばらく王都に滞在するわ」
「……理由を、お聞きしても?」
沙良は一瞬、言葉に詰まった。
理由はある。
けれど、それを口にするには曖昧すぎた。
「確かめたいことがあるの。
それが“何か”は……まだ分からないけれど」
ルシアンはそれ以上問わず、静かに頭を下げた。
「承知しました。
お嬢様のご意思のままに」
その忠誠に、沙良は小さく微笑む。
(……物語では、ここから破滅へ向かうはずだった)
けれど今の自分は、
ただ流れに身を任せるつもりはない。
黒薔薇のブローチが、微かに温かくなる。
その温もりは、
北塔で感じた“光”と、どこか似ていた。
「聖女リディア……」
その名を口にした瞬間、
胸の奥で何かが、静かに応えた気がした。
沙良はそっと目を閉じる。
(もし、物語が決まっているのなら――
わたしは、その“外側”から選びたい)
光と影。
聖と罪。
その境界線が、今、確かに揺れている。
窓の外で風が吹き、
黒薔薇の花弁が一枚、地に落ちた。
それは終わりの合図ではなく、
新しい章が始まる前触れのように、
静かで、確かな音だった。




