第18話「寄り添う影と光(理奈編)」
馬車が止まったのは、王都北端にある古い教会の裏門だった。
朝霧の残る空気は冷たく、吐いた息がすぐ白くなる。
理奈はロザリオを胸に握りしめながら、ゆっくりと馬車を降りた。
足元の石畳はまだ湿っており、光を吸うように沈んで見える。
「……ここが、黒薔薇の痕跡が見つかった場所なのね」
荷物を降ろしていたディランが振り返り、静かに頷いた。
「はい。聖女殿が向かわれると聞き、王城の調査許可を取っておきました。
危険があるため、本来なら衛兵隊が同行するべきですが……」
そこで言葉を切ると、彼は理奈の顔を見つめた。
「……あなたが、どうしても自分で確かめたいのだと理解しています」
理奈は驚き、目を瞬いた。
(どうして……そこまで分かるの?)
まるで、ずっと以前から自分を知っていたかのような言い方だった。
「ありがとう、ディラン。わたし……自分でも説明できないけれど、
この場所に来なきゃいけない気がして」
胸の奥の鈍い痛みがまた、小さく脈打つ。
塔に近づくほどその痛みは強くなる。
けれど、嫌な痛みではなかった。
たとえるなら――“誰かを思い出し始めている”ような、そんな感覚。
ディランは理奈の歩調に合わせて隣を歩いた。
「無理はしないでください、聖女殿。顔色が……少し白い」
「大丈夫、少し胸が締めつけられるだけなの」
理奈が微笑むと、ディランの表情が曇った。
彼は理奈の手元にそっと視線を落とし、かすかに眉を寄せた。
「……胸が痛むのは、神託の影響かもしれません。
黒薔薇とあなたの“光”は、互いに反応している可能性がある」
(光と……黒薔薇?)
言葉の意味は分からない。
けれど、胸の痛みはまるで答えるように強くなった。
塔の入口にたどり着いたとき、古びた扉が風に押されたように軋んだ。
理奈は思わず身をすくめる。
その瞬間――ディランがそっと理奈の腕を支えた。
「聖女殿。離れないでくれ」
その声は驚くほど柔らかく、胸の奥を掴むような響きだった。
理奈は息を呑む。
(どうして……こんなに心が揺れるの?
記憶がないのに……この声、どこか、懐かしい)
ディランは理奈の手をゆっくりと離し、軽く咳払いした。
「失礼。……扉の中は暗い。段差にお気をつけて」
塔の中はひんやりとして、足音が吸い込まれるように静かだった。
壁に灯したランプの光が揺れ、古い石の彫刻を照らす。
そして――
最上階へ続く階段を上りきった瞬間、胸の痛みが一段と強くなった。
「っ……!」
理奈は胸元を押さえ、思わず足を止めた。
「聖女殿!?」
ディランが慌てて肩を支える。
理奈は首を振り、必死に呼吸を整えた。
「だいじょう……ぶ。ここに……なにか、あるの」
祭壇の中央に刻まれた黒薔薇の紋章が、淡く光を帯びていた。
その光は理奈のロザリオと呼応するように震え、
まるで“誰かの感情”を伝えてくるようだった。
胸が熱くなる。
涙がじんわりと滲んだ。
(――おね……ちゃ……)
かすれた声が聞こえた気がした。
けれどそれは、自分の声ではなかった。
もっと幼く、もっと切実で――
“理奈が呼ばれている”感覚だった。
「どうして……わたし、泣いて……?」
理奈が震える声で問うと、ディランは優しく手を添えた。
「無理に思い出そうとしなくていい。
ただ……あなたの“光”が、何か大切なものに触れただけです」
「大切な……もの……?」
その意味を問おうとしたとき、塔の外から馬車の音が響いた。
ディランが眉をひそめ、外を見下ろす。
「誰か……来たようです」
理奈は涙をぬぐい、黒薔薇の紋章をもう一度見つめた。
胸の痛みは、先ほどよりもずっと穏やかだった。
(わたし……何を、思い出しかけているの……?)
やわらかな光が、祭壇の黒薔薇を照らす。
その光は遠く離れた屋敷の黒薔薇ブローチとも微かに呼応し、
運命の糸がまた静かに動き始めていた。




