第17話「影を呼ぶ花(沙良編)」
北塔は、王都の外れにひっそりとそびえていた。
朝の霧が石壁を薄く包み、まるでそこだけが時間から切り離されているように見える。
馬車が止まると、沙良は胸の奥がざわつくのを感じた。
(ここに……“なにか”がある)
ブローチに触れると、黒薔薇の紋がかすかに熱を帯びていた。
それは昨夜から続くもの――
そして、今はさらに強く脈打っている。
「お嬢様、足元にお気をつけて」
ルシアンがそっと手を添える。
だがその直後、別の影が沙良の前にすっと差し出された。
「お降りの際は、こちらを」
アレク・ヴァルトシュタイン。
王太子近衛副隊長であり、気品を纏う青年騎士だ。
琥珀色の瞳でまっすぐに見つめられ、
沙良は一瞬、息を飲んだ。
(……どうしてこの人、こんなに近いの?)
アレクは静かに沙良の手を取る。
「北塔は不穏な気配が濃い。
あなたを守るため、私も同行します」
「守る……?」
胸の奥がくすぐったくなる。
ゲームの中ではリディアの騎士だった人物が、
今は自分のために剣を抜くと言っている。
(こんな展開……前はなかった)
心臓の鼓動が跳ねた。
「……ありがとう、アレク。でも、無茶はしないで」
「無茶をするのは……あなたの方では?」
わずかに笑みを浮かべた彼の横顔に、
沙良の耳がじんと熱くなった。
ルシアンが咳払いし、落ち着いた声で付け加える。
「お嬢様は危険を承知で来られたのです。
我々はそれを支える立場にあります」
「……二人とも、頼りにしているわ」
沙良は頷き、北塔の扉へと向かった。
* * *
扉へ近づくたびに、胸の奥のざわめきが強くなる。
ひんやりとした空気。
苔むした石壁。
塔の中から漂う――懐かしいような、切ない匂い。
(……ここ、前にも来たことが……?)
思い出しかけた瞬間、胸が痛む。
(お姉ちゃん……)
前世の記憶が、ほんの一瞬揺れた。
沙良が扉に触れようとした時――
ブローチがぱっと光った。
「っ……!」
「ミレーヌ様!?」
ルシアンが駆け寄り、アレクが剣に手をかける。
だが、光はすぐに沈んだ。
「大丈夫……ただ、この塔の中に……何かがある」
何か――
“会わなければいけない誰か”がいるような感覚。
(……そんなはず、ないのに)
* * *
塔へ足を踏み入れると、
背中を押されるように心がざわついた。
階段を登る途中、アレクが小声で尋ねる。
「ミレーヌ様……怖くはありませんか?」
「怖いわ。でも、それ以上に……」
沙良は足を止め、振り返る。
「――知りたい気持ちの方が強いの」
アレクの瞳が驚きで揺れる。
ルシアンは静かに微笑んだ。
「お嬢様らしいお言葉です」
(……お姉ちゃんも、きっとそう言うだろうな)
胸が温かくなった瞬間――
塔の上からふわりと風が降りてきた。
“……り……ないで……“
女の子の声。
とぎれた、泣くような声。
沙良は息を呑んだ。
「今……聞こえた?」
アレクもルシアンも首を振る。
「なにも」
「気のせいかと」
(……私だけ?)
声は、理奈の記憶の名残ではなく――
もっと深いところに触れるような響きだった。
「この上です」
アレクが指し示した先には、
最上階へ続く古い扉。
扉の隙間から、白い光が漏れている。
沙良の胸元の黒薔薇もまた、同じ光に震えていた。
(この先に――“何か”が待ってる)
誰かの涙の気配。
誰かの祈りの残響。
手を伸ばすと、
扉がゆっくりと、軋む音を立てて開いていった。
* * *
その瞬間、塔の下の入口でも同じ音が響いた。
理奈が、ディランとレオンを伴って塔へ入ったところだった。
ほんの数十段。
ほんの数秒。
二人はまだ気づかない。
――同じ塔の中に、いま同じ“痛み”を抱えた者がいることを。
そして、次の階で、
ふたりの導かれた魂が
初めて“すれ違う”ことになる。




