第16話「揺らぐ光(理奈編)」
理奈は記憶喪失のまま、黒薔薇の気配に惹かれ北塔へ向かう回
聖堂の鐘が、澄んだ朝の空気に溶けていった。
理奈は祈りを終えると、胸元のロザリオをそっと握りしめた。
ほんのわずかに――
昨夜から続く温かさが残っている。
(……誰かが、泣いていた気がするの)
目覚めてからというもの、
知らぬ誰かの感情が胸を締めつけるような瞬間が増えていた。
大司教の言葉が思い返される。
“黒薔薇は聖の影より生まれる”
聖なる存在であるはずの自分が、
なぜ影に心を引かれるのか、理奈には分からなかった。
そこへ、ディランが書簡を抱えて近づいてきた。
「聖女殿。北塔にて“異質な魔力の揺らぎ”が確認されました。
本日、同行し調査を進めたいと思います」
「……北塔」
その名を聞いた瞬間、胸がチクリと痛んだ。
昨夜沙良の胸にも走ったのと同じ痛み。
理奈は胸の前で手を重ね、息を整える。
「行きましょう。
気になる……何かが、あそこにある気がするの」
ディランは深く頷く。
「かしこまりました。
馬車をご用意しております」
外へ出ると、冷たい朝の風が髪を揺らした。
ふと胸元のロザリオが光を返す。
理奈はその光に指を重ねた。
(あの光……昨夜、もっと強く揺れた気がする。
誰かの心に呼ばれたような……)
思い返すだけで胸が熱くなった。
* * *
馬車に乗り込むと、
王宮近衛の騎士が護衛として同行することが告げられた。
「……護衛?」
「黒薔薇の動きが活発だと、内務局より通達がありました」
ディランが視線で示すと、
馬車の横に立つ青年が一礼した。
「王宮近衛隊第一席補佐、レオン・アルヴェインであります」
金色の髪、深い青の瞳。
騎士らしい端正な所作に、理奈は思わず胸が高鳴った。
(なに、この感じ……知らないはずの人なのに)
「聖女殿が危険に晒されないよう、命をかけてお守りします」
その言葉に、理奈の胸が不思議にざわめいた。
(……誰かにも、こんなふうに守られたことが……?)
思い出しかけると、胸に痛みが走る。
「ありがとう、レオン。頼りにしているわ」
レオンの頬がかすかに赤く染まった。
「……光栄です」
ディランが視線を逸らし、小さく咳払いをした。
「では向かいましょう。
黒薔薇の気配は、北塔の内部……最上階から感じられます」
馬車がゆっくりと動き出す。
理奈は揺れる景色を見つめながら、
胸の奥で鍵がカチリと噛み合うような感覚に身を震わせた。
(誰かが……待っている気がするの)
胸元のロザリオがわずかに光った。
その光に――
同じ道へ向かう沙良のブローチが、また応じて揺れたことを、
理奈はまだ知らない。
* * *
北塔が見えてきた。
黒くそびえる塔を前に、理奈は息を呑む。
(ここ……前にも来たことがあるような……)
胸に刺す懐かしさと痛み。
レオンが馬車の扉を開け、手を差し伸べる。
「足元にお気をつけて、聖女殿」
その手は温かい。
けれど、その温もりに重なるように――
どこかで聞いた誰かの声が、胸の奥で揺れた。
“だいじょうぶ。わたしが守るから”
誰の声?
理奈の手が震えた。
(……誰?あなたは、誰?)
思い出せないのが苦しい。
でも、会わなければいけない気がする。
塔の階段を見上げる。
光と影が交差するその場所で、
新たな運命が待っている――
理奈はそんな予感を抱きながら一歩踏み出した。
沙良もまた、この塔へ向かっていることを知らぬまま。
二つの魂が、いよいよ最初の“接触”へ近づいていく。




