第13話「黒薔薇の導き(沙良編)」
朝の風がロズベルク邸の廊下を抜けていく。
薔薇の香りに混じって、どこか遠い記憶の気配が残っていた。
沙良は、階段を降りながら胸元の黒薔薇のブローチをそっと押さえた。
――昨夜、一瞬だけ光った。
あれはただの錯覚ではなかった。
胸の奥がひどく騒ぎ、涙が込み上げそうになったのを、沙良はよく覚えている。
(誰か……“私以外の誰か”の感情が、流れ込んできたんだわ)
沙良は前世で誰よりも感が鋭い少女だった。
その直感は、この世界でも変わらない。
「ミレーヌお嬢様」
呼びかけられ振り返ると、ルシアンが立っていた。
彼は朝日を背にして立ち、どこか急いだ様子だった。
「教会から伝令が届きました。
“北塔で新たな神託が確認された”とのことです」
沙良は眉を寄せた。
「……北塔?」
「はい。聖女リディア様が昨朝調査された場所です。
神託の余波か、黒薔薇の刻印にも反応が出たらしく――」
その言葉に、沙良の胸がずきりと痛んだ。
(黒薔薇が……反応した?
じゃあ昨夜光ったのは、やっぱり……)
「……理由は分かっているの?」
「いえ。しかし“大司教ですら解読不能な揺らぎ”だったそうです。
むしろ――」
ルシアンは沙良を見つめた。
「……お嬢様の方が、何かご存知では?」
沙良は目をそらした。
(黒薔薇が光った時……
どこか遠くで、誰かが泣いていた。
苦しくて、懐かしくて……)
心の奥の痛みは、遠い記憶の欠片をゆさぶる。
“沙良、聞こえる?”
その声は、思い出の霧に沈んでいて、はっきりとは聞こえない。
でも確かに――あの夜、自分を抱きしめてくれた人の気配がした。
――お姉ちゃん……?
喉まで出かかった名前を、沙良は噛み殺した。
(お姉ちゃんは……もういない。
私だけが、生き残ったんだもの)
泣きそうになる心を押さえつけ、沙良は静かに顔を上げた。
「ルシアン。北塔へ向かう準備をしてちょうだい」
「危険です。
聖女派も“黒薔薇の巫女”を探しています。
お嬢様が行けば、疑いの目を向けられる可能性が――」
「それでも行くわ」
沙良は、はっきりと告げた。
「黒薔薇が動いたの。
なら、その先に“何か”がある。
放っておけないのよ」
ルシアンは深く頭を下げた。
「……承知しました。
必ず私がそばにおります」
「ありがとう。……助かるわ」
沙良は微笑もうとしたが、胸の奥がまたチクリと痛んだ。
(この痛み……
どうしてこんなに“誰かの涙”に似ているの?)
歩き出した廊下の先で、
朝日が黒薔薇のブローチを照らした。
ほんの一瞬だけ、
深紅の宝石がかすかに光を返した。
沙良は気づかない。
同じ時刻、
聖堂の片隅で祈る理奈のロザリオもまた、
淡い光を宿していたことを――。




