第10話「王太子の訪問(理奈編)」
朝の光が聖堂のステンドグラスを通り抜け、
床に七色の影を落としていた。
理奈は祈りを終え、静かに立ち上がる。
けれど胸の奥では、まだ夜明け前の記憶がざわついていた。
(……おね……ちゃ……)
あの断片的な声。
誰かが必死に呼ぶような、泣きそうな声。
思い出そうとするほど胸が痛み、
霧の中に沈んでしまう。
「……どうして……こんなに、苦しいの」
胸元のロザリオを握りしめたその時――
聖堂の扉が静かに開いた。
「聖女リディア殿、よろしいでしょうか」
マリアが息を弾ませて駆け込んでくる。
「王城より使者が参りました。
王太子殿下がお越しです」
「……王太子殿下?」
突然の知らせに理奈は目を瞬かせた。
嫌な予感ではなく、
むしろ胸の奥で何かがふっと震えるような不思議な感覚。
* * *
中庭に出ると、
白馬にまたがった青年が荷馬車を従えていた。
陽光の中に立つ姿は、まるで絵画の一場面のよう。
「お初にお目にかかる、聖女リディア殿。
セオドア・アスティリア王太子だ」
整った金髪、澄んだ翠の瞳。
穏やかな笑みを浮かべながら、青年は深く礼をする。
「殿下が……私に、何のご用でしょうか?」
「病の鎮静化の働きに感謝するため……
そしてもうひとつ」
彼は馬を降り、ゆっくりと理奈へ歩み寄った。
「“黒薔薇の印”の件について、直接話をしたくてね」
理奈は息を呑む。
「殿下も……黒薔薇の噂を?」
「もちろんだ。
王都中に広まっている。
そして――」
セオドアは理奈の目を真っ直ぐ見つめる。
「黒薔薇の動きは、聖堂だけでは対処できない。
王家としても調査を進めている」
その真剣な眼差しに、
理奈の胸が不意にざわついた。
(この人……どこかで……)
初対面のはずなのに、
視線を合わせた瞬間、胸の奥に妙な懐かしさが走る。
でも、それが何なのか分からない。
「聖女殿が危険に巻き込まれる前に、
先に手を打ちたい。
黒薔薇が“聖女の影”だという古い言い伝えもある」
「影……?」
朝の塔で聞いた言葉が、理奈の胸によみがえる。
(影は……本当に悪なの?
それとも――)
「聖女殿」
セオドアが柔らかく言った。
「私は、あなたを守りたい。
神の奇跡を授かった人としてだけでなく……
一人の人として」
その言葉に理奈は言葉を失った。
なぜ?
胸が痛い。
苦しいほど熱くなる。
――昔、誰かにも似た言葉を言われたような……。
「……どうして……」
気づけば、理奈の声は震えていた。
「どうして……私は……初めて会った殿下に、
こんな気持ちになるのでしょうか」
セオドアは驚いたように目を見開き、
しかしすぐに優しく微笑んだ。
「それは――
神の導きか、あるいは君自身の記憶かもしれない」
記憶。
その言葉が胸に突き刺さる。
(記憶……
わたしが忘れているものが、他にも……?)
* * *
その時、理奈の胸元のロザリオがふっと光った。
微かな光。
だが確かに“誰か”の気配を感じる。
(……おね……ちゃ……)
またあの声。
理奈は思わず胸を押さえた。
「リディア殿?」
「い、いえ……大丈夫です……」
セオドアは眉を寄せたが、
追及はしなかった。
ロザリオの光はすぐに消えた。
けれど、震える心は静まらない。
(あなたは……誰?
どうして私を呼ぶの……?)
その問いは、朝風に溶けていった。
そしてその瞬間――
遠く離れたロズベルク邸で、
ミレーヌの胸の黒薔薇ブローチも、
まったく同じ光を一瞬だけ放っていた。
二人はまだ知らない。
その光こそが、
“失われた姉妹の魂が互いを呼ぶ灯”だということを。




