第8話 デートですっ
夕方のオフィス。
外の光が薄くなり、蛍光灯の白が少し黄味を帯びはじめていた。
静かなキーボードの音が、あちこちで途切れ途切れに響く。
もうすぐ定時――そんな空気の中で、私は意を決して声をかけた。
「先輩、今日って残業あります?」
不意に声をかけると、野宮先輩が顔を上げた。
ペンを回す手を止め、少しだけ驚いたような目をする。
「え? ああ、今日はないよ。久々に定時で帰れると思う」
「よかった。……私も今日は予定あるので」
「なるほどね。残業あるかどうか聞くのなんて珍しいと思ったんだよね。どこか行くの?」
「あー……デートですっ」
――一瞬、静寂が落ちた。
冗談を言ったつもりだけど、勘違いさせてしまったかも。
正確には、女友達とごはんに行くだけ。
でも、先輩は少しだけ目を見開いて、すぐに笑った。
「……そうなんだ」
その声が、妙に遠く聞こえた。
(あ、驚かせちゃった……?)
胸の奥が小さくざわつく。
「先輩は今日は?」
「俺? 俺は特にないよ。久々に家でゆっくりするかも」
「いいですね。ゆっくり休んでください」
それだけで会話が終わる。
けれど胸の奥が、少しざわついていた。
(あれ、なんか……変な空気になった? やっぱりなれない冗談なんて言うんじゃなかったな)
先輩の表情が、どこか遠くに感じた。
ほんの少し――寂しそうにも見えたのは、気のせいだろうか。
◇
仕事を終えて、街へ出る。
ネオンが灯りはじめた通りを抜けると、待ち合わせのカフェが見えた。
扉を開けると、先に来ていた友人が手を振る。
「雅ー! こっち!」
「ごめん、少し遅れた」
「全然! てか、相変わらず仕事帰りでもちゃんとしてるね。うちなんか髪ボサボサだよ」
「そんなことないよ」
二人でメニューを開きながら、他愛もない話をする。
仕事のこと、最近読んだ漫画、ちょっとした愚痴。
気づけば時間があっという間に過ぎていた。
「で? 最近どうなの? 職場の人たちとはうまくやってる?」
「うん、まあ。優しい人多いし、楽しいかな」
「“かな”って何よ。その言い方、なんかあるでしょ?」
「……うーん」
ストローをいじりながら、少し考えた。
「直属の先輩がいて、すごく良い人なんだけど……なんか、たまに距離が分からなくなるというか」
「距離?」
「うん。仕事のときは頼りになるけど、たまにふっと優しくされると、どうしていいか分かんなくなるの」
「ふーん……」
友人がにやりと笑う。
「それ、絶対ちょっと好きでしょ」
「ちがっ……!」
思わず声が上ずる。
だけど、否定した自分の声が、どこか弱かった。
「だって、今顔赤いもん」
「やめて……そういうのすぐ言う」
「いやでもさ、そういう“ふっと優しい人”って、地味に刺さるよね。安心するっていうか」
友人の何気ない言葉に、胸の奥がちくりとした。
安心――確かにそう。
先輩と話していると、仕事の不安も、焦りも、少しだけ軽くなる。
それって、単に頼りがいがあるから?
それとも……。
「ふふ、まあいいけどさ」
友人は紅茶を啜りながら、穏やかに笑った。
「でもね雅、あんたは我慢しすぎるとこあるから。優しいのはいいけど、自分の気持ちもちゃんと大事にしなよ」
「……うん」
窓の外には、夜風に揺れる街の光。
その中に、どこかで残業を終えた人たちの姿が見える。
その中に――野宮先輩の姿を、ふと探してしまった。
◇
夜の帰り道。
風が少し冷たくて、街の灯りがにじんで見えた。
信号待ちのあいだ、ポケットのスマホがやけに重く感じる。
チャットアプリを開きかけて、指を止めた。
――「お疲れさまです」って打つだけのはずなのに。
それすらも、いまは違う気がした。
(……だめだ、今は違う)
胸の奥で小さく呟く。
そのまま画面を閉じ、夜空を見上げた。
街灯の光が滲み、世界が少しだけ柔らかく見える。
たぶん、私――今日、初めて気づいた。
(これって、恋なのかもしれない)
そう思うと、少し怖くて。
でも同時に、あたたかかった。
明日、もう少しだけ話してみよう。
少しでも、先輩のことを知りたい。
そう思うと、歩幅が自然と軽くなった。
タイトルを微調整しました。
今後ともよろしくお願いします。
少しずつ、水越の気持ちが形になっていく回でした。
この「気づき」の瞬間って、静かで、でも一番熱いですよね。
次回は、そんな彼女の「もう一歩」を描きます。
感想・ブクマ・リアクションが本当に励みになります!
更新は週末夜にも予定してますので、ぜひお付き合いください。