第5話 その人の一番
私が部署内で一番仲がいいのは野宮先輩。
――けれど、先輩にとっての“一番”は、私じゃない。
本当に先輩のそばにいるのは、別の人だ。
その名前を、私はもう知っている。
岡島さん。二十九歳。
黒髪で爽やか、仕事は早くて正確、誰にでも穏やかで、後輩からも頼られる万能な先輩。
いわゆる「完璧な人」ってこういう人のことを言うんだと思う。
困った顔をした後輩が相談すると、必ず「仕方ないなー」と言って、あっという間に片づけてしまう。
そんな岡島さんこそが――野宮先輩の一番仲のいい人。
(私だって、部署の中では先輩と一番話してるのに)
(でも、先輩が“頼る”のはいつも岡島さんなんだよなあ……)
そう思うたびに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
◇
午前の仕事。
古い書類を整理して段ボールに詰める作業を任されて、私は野宮先輩と並んで机に向かっていた。
「えーっと、これ……保存? いや、古紙?」
「たぶん古紙ですけど……でも、上の人によっては保管しといてって言うかもです」
私が首をかしげると、野宮先輩も同じようにかしげる。
そのタイミングまで一緒なのが、なんだか可笑しくて、思わず笑いそうになった――その瞬間。
「岡島さーん!」
やっぱり。
困ったときの野宮先輩の口から真っ先に出る名前は、私じゃなくて岡島さんだ。
「ん? どうした」
「これ、廃棄で大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。年度またいでないから古紙で出して」
即答。しかも私の手元まで見て、丁寧に説明してくれる。
「水越さん、それは回収業者のほうね。段ボールにまとめればいいよ」
「あ、ありがとうございます」
穏やかに教えてくれる岡島さん。
その横で「さすがー!」と笑う野宮先輩。
二人のやり取りは自然で、テンポもいい。
まるで何年もコンビを組んできたみたいで、口を挟む隙もない。
(……仲良すぎるでしょ、この二人)
息が合うって、こういうことを言うんだろうなと思った。
◇
昼休み。
窓の外に目をやると、喫煙所に並ぶ二人の姿が見えた。
タバコを吸う岡島さんの隣に、吸わない野宮先輩が当然のように立っている。
肩を並べて、笑いながら何かを話していた。
(なんでわざわざ一緒に……? 吸わないなら休憩室にいればいいのに)
(ていうか……身長差、カップルみたいだな……)
そう思った瞬間、ふと頭に浮かんだ。
(……まさか、そういう? いやいやいやいや! ないでしょ!?)
でも、最近は同性カップルも珍しくないって聞くし――
二人の距離感、ちょっと近いし――
(……え、まさか……?)
気づいたら、トレーの上の味噌汁を見つめながら、頭の中で“もしも”を組み立てていた。
けれど、妄想って怖い。気づくと、もう止まらない。
(いやでも……野宮先輩、なんか岡島さんの話してる時ちょっと声のトーン違うし……)
(あれ、やっぱり……そういう……?)
煙の向こうで笑い合う二人を見ていたら、顔が熱くなった。
完全に自分で勝手に想像して、自爆。
◇
午後の業務。
書類の束を抱えて廊下を歩いていると、背後から足音が近づいた。
「水越さん、それ重くない? 俺も持つよ」
声の主は、やっぱり野宮先輩だった。
少し息を切らせながら、私の手元を覗き込む。
「あ、大丈夫です。これくらいなら」
「いやいや、二人でやった方が早いって」
そう言うやいなや、ひょいと半分を奪い取ってしまう。
先輩の指が一瞬、私の指先に触れた。
その温かさに、思わず息が詰まる。
「……すみません、ありがとうございます」
「ううん、こういうのは分担だよ。俺ひとりで持つとバランス悪いし」
冗談めかして笑うその横顔は、いつも通り優しくて。
私が気を遣っても、さりげなく“同じ立場”にしてくれる。
(……ほんと、こういうところずるい)
軽々と段ボールを抱える姿を見ていると、つい口元が緩む。
その瞬間だけは――「先輩の一番近くにいるのは私だ」と思える。
けれど。
誰かに助けを求めるとき、先輩が最初に呼ぶのは、やっぱり岡島さんで。
迷ったときに相談するのも、困ったときに頼るのも、いつもあの人。
そのたびに、胸の奥が少しだけざわつく。
(私のことも、もっと頼ってほしいのに)
(“一緒にやった方が早い”って、もっとたくさん言ってほしい……)
小さくそんなことを思いながら、先輩と並んで廊下を歩く。
足音が重なって響くたびに、心の奥が少し温かくなるのを感じた。
――その温度が、夕方まで続けばいいのに。
◇
段ボールをすべてまとめ終えたころ、窓の外の光はすっかり柔らかくなっていた。
蛍光灯の明かりと夕焼けが混ざるオフィスで、野宮先輩が小さく伸びをする。
「おつかれー、水越さん。今日は頑張ったね」
「……ありがとうございます」
その一言だけで、不思議と胸のざわめきが溶けていく。
手の甲についた紙の粉を指で払う仕草さえ、なぜか丁寧に見えて。
「岡島さんも手伝ってくれたから、だいぶ早く終わったね」
「……そうですね」
名前を聞いただけで、少しだけ胸がちくりとした。
でも、先輩が笑っている顔を見ると、その痛みもどこか甘くなる。
きっと、私はこの人の隣が好きだ。
困ったときに呼ばれなくても、誰かの“一番”じゃなくても。
――それでも、少しでも近くにいたい。
そんな小さな願いが、今日も心の奥にそっと積み重なっていった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
今回は“嫉妬と温度”の回でした。
野宮先輩の「一番」が誰かを知りつつも、それでも近くにいたい水越さん。
静かで、少し切ない距離感を描きました。
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