第18話 昼のコーヒー、夜の残り香。
昼休みの、ほんの数分。
それだけで心が揺れる瞬間を、静かなオフィスの中に閉じ込めました。
前回から少し時間が経って、野宮の想いがゆっくり形を持ちはじめます。
恋が動くときって、案外こんなふうに静かなのかもしれません。
オフィスの片隅にある給湯スペースで、紙コップにコーヒーを注ぐ。
湯気がゆらりと立ちのぼり、ほろ苦い香りが広がった。
昼のざわめきから切り離されたこの場所が、好きだ。
コピー機の音も、電話の着信音も、遠くでくぐもっている。
ほんの数分でも、ここだけは息ができる気がした。
「おつかれ、野宮」
背後から声をかけられて振り返ると、岡島がスティックシュガーを片手に立っていた。
白シャツの袖を軽くまくり、いつもの気の抜けた笑顔を浮かべている。
「おつかれさまです」
「今日、静かだな。朝から水越さんともあんま喋ってないし」
その一言に、思わず視線が泳ぐ。
(……やっぱり、そう見えるか)
仕事の話はしている。けれど、それだけ。
言葉の間に、薄いガラスの膜でも挟まったみたいに距離がある。
昨日まではもう少し、自然に話せていた気がしたのに。
あの夜を境に、何かが少しだけズレてしまった。
「ちょっと寝不足で、ぼーっとしてただけですよ」
「なるほど。飲みすぎた?」
「いえ……まあ、そんなとこです」
曖昧に笑ってごまかす。
岡島は「ふーん」とだけ言って、自分のコーヒーをかき混ぜた。
スプーンが当たる小さな音が、静かな昼の空気に溶けていく。
その音の合間に、俺の胸の鼓動がやけに大きく響いていた。
「そういやさ、水越さんとこの前どっか行ったんだろ? カラオケだったっけ」
心臓が、一瞬止まった気がした。
(……なんで知ってる)
「……ああ、はい。ちょっと流れで」
「流れ、ね」
岡島が口の端を上げる。からかうような、探るような笑み。
「どうだった?」
「どうって……普通ですよ。歌って帰っただけです」
即答したのに、声の端が少し硬かった。
“だけ”――その一言が胸に引っかかる。
本当は、“だけ”じゃなかったのに。
歌って、笑って、それだけ。
でも、彼女の視線が少しだけ優しかったこと。
隣に座ったとき、袖が触れた瞬間に息を呑んだこと。
全部、些細なのに忘れられない。
「そっか。まあ、あの人マジメだからな。そういう感じか」
「……そうですね」
岡島は肩をすくめ、軽く笑う。
たったそれだけのやりとりなのに、なぜか息が詰まった。
コーヒーの香りが遠のく。
視線を落とすと、紙コップの中で小さな泡が弾けた。
(……バレたくないな)
カラオケの夜。
何も起きなかった。けれど、気持ちはどこか変わってしまった。
話しているときの目の奥、沈黙の間の呼吸――その全部が気になって仕方ない。
(どうして、こうなっちゃったんだろう)
「……野宮」
呼ばれて、はっと顔を上げる。
岡島が紙コップを持ったまま、じっとこちらを見ていた。
「なんか、あいつのこと気にしてね?」
「えっ……いや、別に」
「ま、いいけどさ」
そう言って岡島は軽く肩を叩き、コーヒーを片手に給湯室を出ていった。
残された湯気がゆらりと揺れる。
コーヒーをひと口飲むと、苦味が喉の奥に落ちて、少しだけ心が落ち着いた。
――午後になれば、また仕事が始まる。
いつも通りに戻らなきゃ。
そう思っても、頭の片隅では“彼女”の姿が離れない。
モニター越しの横顔。電話のたびに揺れる髪。
遠くで笑い声が聞こえるだけで、理由もなく心が揺れる。
(……このままじゃ、まずい)
職場で恋愛なんて、面倒になるだけ。
わかってるのに、理屈じゃ止められない。
視線が合っただけで、あの夜の記憶が全部、鮮やかに蘇ってしまう。
コーヒーの底に沈んだ黒い影を見つめながら、野宮は小さく息を吐いた。
午後のチャイムが鳴る。
会議が終わり、各自が席へ戻る。
フロアのあちこちでキーボードの音が響き始めた。
モニターに映るスプレッドシートを睨みながらも、
視界の端には、どうしても“彼女”が入ってくる。
水越は静かだ。
何かを考えるように唇を噛み、タスクを一つひとつ丁寧にこなしている。
その姿を見ているだけで、胸の奥がざわついた。
昼休みが終わってからも、どこかぎこちない空気が続いていた。
話しかけるタイミングを探して、結局一度も声をかけられないまま時間が過ぎていく。
時計の針が、午後四時を指したころ。
ようやく、水越が小さく伸びをした。
「……ふぅ」
その何気ない吐息が、やけに耳に残る。
あの夜のカラオケ。
小さく歌った彼女の声。
笑いながらマイクを渡してくれた瞬間。
全部、鮮明に蘇る。
(……駄目だ、集中しろ)
頭を振って、強引に画面へ視線を戻す。
けれど指先は止まり、気づけばまた横を見ていた。
その時、不意に水越が顔を上げた。
視線が、ぶつかる。
わずかに驚いたように瞬きをして、彼女は小さく笑った。
――ほんの一瞬。
それだけのことなのに、心臓が痛いほど跳ねた。
(なんだよ、それ……)
喉の奥が熱くなる。
“普通にしていよう”と決めたばかりなのに。
あの柔らかな笑みひとつで、全部が崩れていく。
仕事が終わるころには、胸の奥に小さな痛みが残っていた。
岡島が帰り際に「飲みに行くか?」と声をかけてきたが、
曖昧に笑って断った。
「悪い、今日はちょっと……」
「おう。無理すんなよ」
気楽な声が遠ざかる。
残ったのは、キーボードの打鍵音と、窓の外に沈む夕陽の色。
デスクの上に置いた紙コップ。
昼に淹れたコーヒーはもう冷めて、底に黒い影が沈んでいた。
ふと、視線を隣に向ける。
水越はまだ席にいて、何かの書類を確認している。
指先が蛍光ペンをなぞるたび、髪が肩を揺らした。
声をかけたい。
でも、それができない。
もし今、何かを言ったら――
もう、仕事仲間の関係には戻れない気がする。
(……それでもいい、なんて思ってる自分がいちばん厄介だ)
小さく笑って、立ち上がった。
帰り支度をしてフロアを出る。
エレベーターホールに響く靴音がやけに大きい。
ガラス越しに見えるオレンジ色の空。
沈みかけた陽が、街の輪郭をやわらかく染めていた。
ポケットの中でスマホが震える。
岡島からのメッセージ――「明日、昼メシどうする?」
それに「また連絡します」とだけ返して、電源を落とした。
帰り道、ビル風が頬をかすめる。
ほんの少し、コーヒーの香りが残っている気がした。
(……もう、“普通”には戻れない)
その言葉を、胸の奥で噛みしめながら、野宮は夜の街へ歩き出した。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
野宮の視線の先にいる水越さんは、まだ“手の届かない光”みたいな存在。
でもこの回でようやく、彼の中で恋が確かな輪郭を持ちはじめました。
次回は、少しだけ水越の視点にも触れられたらと思います。
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