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第17話 普通の顔で、普通の月曜日

 週明けの朝は、思った以上に静かだった。

 オフィスの窓から差し込む光がまだ柔らかくて、パソコンのモニター越しにその白さが反射している。

 エアコンの風の音と、マウスのクリック。

 あの日から二日しか経っていないのに、もうすっかり“いつもの月曜日”が戻ってきたみたいだった。


(……いや、戻ってきたんじゃなくて、戻したんだ)


 野宮先輩は、私の隣の席にいる。

 今朝もきちんとしたシャツにジャケット姿で、姿勢も崩さず、黙々と仕事をしていた。

 誰にでも分け隔てなく、穏やかに接して、淡々と業務をこなす――いつもの先輩。

 だから、何もなかったように見える。


 私も、そう見えているだろうか。

 カラオケで夜を明かしたあの日のことなんて、まるでなかったみたいに。

 あの沈黙も、あの笑顔も、全部きれいに胸の奥へ隠したまま。


「……おはようございます、野宮先輩」


「ああ、おはよう」


 視線を上げた先輩の声は、いつもよりほんの少しだけ低かった気がした。

 でも、それだけ。

 ほんのわずかの温度差なんて、誰も気づかない。

 私も、気づかないふりをした。


「週末の資料、送っておきました。確認お願いします」


「うん、助かる。あとで見ておく」


「はい」


 それだけのやり取りで、また静寂が戻る。

 キーボードを打つ指の音だけが部屋を満たす。

 距離は変わらないはずなのに、何かが一枚、透明な膜を挟んだみたいだった。


(やっぱり、ちょっとよそよそしい……かな)


 でも、それがきっと“正しい”。

 あの夜が、どんなに特別でも。

 日常の中では、“なかったこと”として扱うのが一番平和だから。

 それが、社会人としての正しさであり、先輩らしさでもある。


 ――でも、それが寂しい。


 カラオケの薄明かりの中で笑っていた先輩を、ふと、思い出してしまう。

 いつもより声が柔らかくて、歌詞の途中でちょっと照れて笑って。

 そんな瞬間ばかりが、胸の奥に残っている。


 マウスを握る手が止まりそうになったとき、背後でプリンターが鳴りはじめた。

 私は立ち上がって、印刷された資料をまとめていく。

 小さな紙の束を揃えながら、深く息を吸った。


(大丈夫。普通にしていればいい)


 少なくとも、先輩はそうしてくれている。

 私だけが乱れてちゃいけない。


 気持ちを整えて席に戻ると、野宮先輩は電話の対応中だった。

 穏やかで、少し抑えた声。

 会話の内容までは聞こえないけど、その声のトーンだけで“いつもの仕事モード”だと分かる。

 ――プロだなって、思う。


 ふと、電話の最中に先輩と目が合った。

 わずかに驚いたように瞬きをして、それから軽く会釈を返してくる。

 私も同じように微笑み返す。

 ほんの数秒のやり取り。

 それだけなのに、心臓がまた、勝手に鳴った。


(……ほんと、ずるい)


 何も変わらないのに、何も起きてないのに。

 たったそれだけで、心が浮かぶ。

 あの夜、何も“なかった”のに。

 それでも、私の中ではちゃんと“あった”のだ。


 昼前。

 チームミーティングが終わり、みんなが散っていく。

 私はメモを整理していたけど、先輩の姿が視界の端から消えたのに気づいた。

 岡島さんと一緒に、廊下のほうへ出ていったらしい。


(あ、休憩……行っちゃったんだ)


 何気ないことなのに、胸の奥がちょっとだけ沈む。

 いけない、と思いながらも、気づけば先輩の背中を目で追ってしまう。

 白い蛍光灯の光の中、ジャケットのラインが綺麗で、歩き方が落ち着いていて。

 見慣れてるはずなのに、目が離せなかった。


 ――ほんと、どうしたんだろ。

 ただ“いつもの月曜”が戻ってきただけなのに。

 なのに、心のどこかがまだ、あの夜の続きを探してる。


 手元の資料に目を落とす。

 でも、文字が頭に入ってこない。

 心ここにあらず、ってこういうことを言うんだろう。

 デスクの上のカップの中で、コーヒーが冷めていく。


(この感じ……どこまで続くんだろう)


 今週はきっと、ずっとこんな調子だ。

 先輩も、そう思ってるかもしれない。

 お互いに“普通”を演じながら、心の奥ではそれぞれの夜を思い出してる。

 誰にも見せないまま。


 ――あの夜が、なかったことになるのは怖い。

 けど、あったままでも苦しい。


 どうして人の心って、こんなに面倒なんだろう。



 午後の光が伸びて、オフィスが少し眠そうになるころ。

 私は気づけば、また先輩の席をちらちら見ていた。

 先輩は岡島さんと話しながら、真面目な顔で何か書類を見ている。

 その姿を見て、なんとなく安心する。

 ああ、ちゃんと日常だ――って思える。


 だけどその安心は、同時に小さな寂しさを連れてくる。

 週末のあの空気が、完全に過去になってしまったみたいで。

 あのときの沈黙の意味を、誰も知らないまま。


(……もし、先輩も少しでも同じ気持ちだったら)


 そんな淡い期待を、また胸の奥でつぶす。

 今さら、どうにもならないことだから。


 パソコンの時計を見ると、もうすぐ休憩時間だった。

 深呼吸をして、画面を閉じる。

 カップの底に残った冷たいコーヒーを飲み干して、静かに立ち上がった。


 午後の空気は、少しだけ春めいている。

 どこかの窓の外で、風がカーテンを揺らした。

 その音を聞きながら、私は小さく息を吐いた。


(――また、“普通”でいよう)


 それが、いまの私にできる一番のことだ

ブクマ・評価・感想ほんっっとうにありがとうございます!

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