第16話 夜を越える
――眠ったふりをしていた。
正確に言えば、ほんの一瞬うとうとして、あとはずっと意識が覚めていた。
ソファに身体を預けながら、耳だけが妙に冴えている。
スピーカーの奥で換気音が細く流れ、紙コップの氷がときどきカランと鳴る。
その合間に混じるのは――隣にいる野宮先輩の浅い息づかい。
寝返りみたいな衣擦れ。
控えめなため息。
そのひとつひとつが、夜の静けさの中でやけに鮮やかだった。
(……やっぱり、寝てないな)
目を閉じたまま、そう思う。
先輩も、眠れずにいる。
いつも落ち着いた人なのに、今夜はどこかそわそわしているようで、
会話が途切れたあとも、何か考え込んでいる気配が伝わってきた。
――カラオケに誘ったのは、私のほうだ。
帰り際に「もう少し行きませんか」って言ったとき、少し緊張していた。
断られるかもしれないと思ったのに、先輩はすぐ「いいよ」って言ってくれて。
その一言が、妙に嬉しかったのを覚えている。
でも今、こうして隣で眠ったふりをしていると、
あのときの自分が少し怖くなる。
ふたりきりでカラオケなんて、どう見ても“普通”じゃない。
お酒の勢いもあったけど、軽率だったのかもしれない。
(……でも、断らなかった先輩も、同罪ですから)
心の中で小さく笑ってみる。
けれど、その笑いもすぐに溶けた。
先輩は何もしない。
静かに、ただそこにいるだけ。
それが“安心できる”のに、同時にどこか苦しい。
(……私、女として見られてないのかな)
浮かんだ考えを慌てて打ち消す。
そんなことを望むなんて、おかしい。
先輩が誠実な人だって、ちゃんとわかっているのに。
だけど、眠れない夜は心の奥を勝手に掘り返してくる。
暗闇の中で、野宮先輩の存在だけが近くて、
それでも何も起きないことが、どうしようもなくざわめきを残す。
(先輩、今どんな顔してるんだろう)
そっとまぶたを上げかけて、やめた。
見てしまったら、もう眠れなくなる気がした。
薄い照明の光が、閉じた瞼の向こうまで滲んでくる。
心臓の鼓動ばかりがうるさく響いて、呼吸が落ち着かない。
眠ろうとしても、意識は遠ざからない。
彼が少し動くだけで、全身の感覚が引っ張られる。
眠りと覚醒の境で、何度も浅く息を吐いた。
たぶん、先輩は私を“気を張らせない後輩”だと思っている。
展示会の準備で泣きそうになったときも、
「焦らなくていい」って静かに言ってくれた。
その声の低さが、まだ耳の奥に残ってる。
――だから、好きになりたくなかった。
仕事の関係が壊れるのが怖い。
自分だけが一方的に意識して、気まずくなるのも嫌だ。
でも、今日の夜の先輩を見てたら、
そんな理屈なんて意味がなくなっていく。
歌っているときの真面目な表情とか、
笑ってマイクを渡すときの照れた顔とか。
全部が、静かに心の奥へ積もっていく。
(ほんと、ずるい人だ)
また目を閉じる。
どうしてこんなに真面目で、ちゃんと線を引けるんだろう。
“何もしない”という誠実さが、逆に胸を締めつける。
もし立場が逆なら、私はこんなふうに自制できない。
きっと、どこかで何かを期待してしまう。
けれど、先輩は違う。
本当に何も起こらないまま、夜が静かに流れていく。
その沈黙の中で、私は考えていた。
(先輩は、私をどう思ってるんだろう)
答えはわからない。
でも、この夜がほんの少しだけ特別なのは確かだ。
そう思うだけで、心の奥に小さな灯りがともる気がした。
外が、少しずつ白み始めている。
空調の低い唸りに、街の朝の気配が混ざる。
――そろそろ、起きる時間だ。
小さく伸びをして、まぶたを開く。
ぼんやりとした光の中、野宮先輩が立ち上がるところだった。
静かに上着を整える仕草が、やけに丁寧で。
その背中を見た瞬間、思わず笑ってしまう。
(やっぱり、寝てなかったんだ)
想像した通り。
きっとずっと起きていた。
でも、私に気づかせないようにしていたんだろう。
「……先輩?」
声をかけると、振り返った彼の目の下に、うっすらと影が見えた。
それでも、笑顔はいつものまま。
「あ、ごめん。起こした?」
「いえ……。もう朝ですね」
自分の声が少し掠れているのに気づく。
寝起きのせいなのか、それとも――。
「そろそろ始発、動くころかなって」
「そうですか……」
窓の外では、淡い光がビルの輪郭を染めている。
夜が終わる。
それだけのことが、少し切なく感じた。
「……寝ちゃってましたね、私」
「まあ、昨日けっこう飲んでたし」
「先輩、寝れました?」
「いや、全然。俺は……眠れなかった」
短く言い淀む声。
理由を聞きたかったけど、喉の奥で言葉が止まった。
“聞いたら壊れてしまう気がした”。
そんな直感が、先に胸を締めつける。
「すみません、先に寝ちゃって」
「いいよ。気にしてない」
視線を逸らす先輩。
その横顔を見つめる自分が、また何かを期待しているのに気づく。
気づいてしまって、笑うしかなかった。
「コーヒー、持ってきますね」
「……ああ、ありがとう」
立ち上がって、ドリンクバーに向かう。
紙コップに注いだコーヒーの香りが、夜の名残を洗い流していくようだった。
戻ると、先輩はスマホを見ながら、ぼんやり窓の外を眺めている。
「どうぞ」
「ありがとう」
手渡す瞬間、指先が少し触れた。
それだけで、心臓が一拍ずつ大きく鳴る。
ぬるいコーヒーを口に運びながら、自分の鼓動をごまかす。
「……そろそろ行きましょうか」
「ですね。寝顔、見られてないといいなあ」
「いや、バッチリ見てたよ」
「えっ!? 本当に!?」
慌てて頬を押さえる私に、先輩がふっと笑った。
その笑い声が、朝の光に溶けていく。
柔らかくて、ちょっと寂しい音。
(……やっぱり、好きだな)
何も言えないまま、その感情だけが静かに広がっていく。
“これ以上踏み出したら壊れる”ってわかってるのに、
心が勝手に距離を詰めたがっていた。
◇
駅までの道を並んで歩く。
ビル風が頬を撫で、空は淡い水色に変わっていく。
足音だけが響く朝の通り。
隣にいるはずなのに、先輩の背中がどこか遠い。
(職場での距離に戻るだけ――それだけのことなのに)
飲み会の帰りなら、もう少し気楽だった。
今朝のこの空気は、何かを終わらせたあとのように静かで。
「今日はありがとうございました」
「いや、こっちこそ。……無事に帰れよ」
「はい。先輩も、ちゃんと寝てくださいね」
笑って言うと、彼は少しだけ目を伏せた。
その仕草が、どうしようもなく優しく見えて。
胸の奥で、何かが静かに揺れる。
(きっと、もう“後輩”に戻るんだろう)
いつも通りの仕事、いつも通りの会話。
それが正しいってわかってる。
でも、心のどこかで願ってしまう。
(少しだけでいい。今日の夜を、特別だと思っててほしい)
ホームに立つと、始発の風が吹き抜けた。
電車が到着して、ドアが開く。
「じゃあ、また来週」
「はい。また」
軽く手を振る。
ガラス越しに見える先輩の姿が、ゆっくり遠ざかっていく。
明るくなった車内がまぶしくて、目を細めた。
コーヒーの苦さと、野宮先輩の笑顔。
それだけが、まだ胸の奥に残っていた。
(来週、普通の顔で会えるかな)
電車が動き出す。
夜が完全に明けて、街が目を覚ます。
さっきまでの沈黙も、ざわめきも消えていく。
けれど――心のどこかで灯ったあの小さな熱だけは、
まだ静かに、消えずに残っていた。
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